表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝85「島夷桓玄」を翻訳/北魏目線の簒逆

3)建業の司馬氏の敗北

荊州を制圧し、建業に攻め下る。長江上流からの攻撃は、建業にとってはもっとも嫌うルート。やっぱり建業は負けるのですが。

建業の制圧、劉牢之の死

玄亦失荊楚人情,而師出不順,其兵雖強,慮弗為用,恆有回師之計。既過尋陽,不見東軍,玄意乃定。於是遂鼓行而進,徑至姑熟,又克曆陽。劉牢之遣子敬宣詣玄請降,玄大喜,與敬宣置酒宴集。玄至新亭,元顯棄船,退入國子堂,列陳宣陽門前。元顯欲挾德宗出戰,而軍中相驚,言玄已及南桁,乃回軍赴宮。既至中堂,一時崩散。元顯奔東府,惟張法順一騎隨之。玄乃為侍中、都督中外諸軍、承相、錄尚書事、揚州牧、領徐州刺史,持節、荊江二州、公如故;假黃鉞、羽葆、鼓吹、班劍二十人;置左右長史,從事中郎四人;甲仗二百人入殿。

桓玄は、荊楚の人心を失っていた。桓玄が軍を東に出しても、従わないことが心配された。荊楚の兵は強いのだが、桓玄のために働かず、桓玄はいつも撤退を考えていた。

ただの撤退というとダサいが、「回師之計」と表現するらしい。

桓玄はすでに尋陽を過ぎたが、建業から桓玄を防ぎにきた東軍と会わなかった。桓玄は、勝てると確信した。ここにおいて桓玄は、戦鼓を鳴らして進軍し、姑熟を通って、歴陽を取った。
建業方の劉牢之は、子の劉敬宣に桓玄を迎えさせ、降伏を願い出た。桓玄は、大いに喜んだ。

『魏書』のトーンだと、桓玄の戦闘力は低かったが、劉牢之が降伏したおかげで、たまたま勝てた。

桓玄は、劉敬宣と酒をくみ交わし、宴会した。
桓玄は新亭に到った。
建業方の司馬元顯は船を棄て、退いて國子堂に入った。司馬元顯は、宣陽門の前に、陣を列した。司馬元顯は、司馬徳宗(安帝)をつれて出て戦闘をしようとした。だが建業方の軍中が驚いて恐慌した。

迎え撃つのは、当たり前の作戦だ。べつに源義経と一緒に、崖を下りたり、暴風の海に出ろと言うんじゃないのに。建業方がよほど腰が抜けていたという表現である。
桓玄が弱く、司馬元顯も弱い。北魏から見たら、そう片付けたくなるよなあ。強いのは、正統たる北魏だけで良いのだ。

司馬元顯は、桓玄がすでに南桁に及んだと聞き、軍を戻して宮殿に戻った。
中堂まで戻り、司馬元顯の軍は、とたんに崩散した。司馬元顯は東府に奔り、ただ張法順の1騎だけが、司馬元顯に随うだけだった。
桓玄は、侍中、都督中外諸軍、丞相、録尚書事、揚州牧、領徐州刺史となり、持節、荊江二州。公の爵位は、もとのままだった。假黄鉞、羽葆、鼓吹、班劍20人。左右長史と、從事中郎4人を置いた。甲仗200人入殿。

桓玄が勝ち、東晋で考えられるだけの高位を得た。


於是收道子付廷尉,免為庶人,徙于安城郡;殺元顯並其子,乃豫州刺史司馬尚之、吏部郎袁遵、張法順等。又滅庾楷于豫章。徙尚之弟丹楊尹恢之、輔國將軍允之,及國寶、王緒諸子于交、廣州。以劉牢之為會稽內史,將欲解其兵也。初,敬宣既降,隨入東府,至是求歸。玄冀牢之受命,乃遣之。敬宣既至,牢之知將不免,欲襲玄,眾皆離散,乃于班瀆北走,縊於新洲。傳首建鄴。敬宣奔於江北。

ここにおいて桓玄は、司馬道子を捕えて廷尉に引き渡し、官位を免じて、庶人に貶め、安城郡に移した。桓玄は、司馬元顯とその子たちを殺した。桓玄は、豫州刺史の司馬尚之、吏部郎の袁遵、張法順らも殺した。

東晋で皇族政治を教化した人たちが、全員殺された。藩屏が滅びて、宗家を守る人がいなくなった状態。

また桓玄は、庾楷を豫章で滅した。司馬尚之の弟・丹楊尹の司馬恢之と、輔國將軍の司馬允之と、國寶や王緒の諸子を、交州や廣州に徙した。
桓玄は、劉牢之を會稽内史として、兵権を奪おうとした。

桓玄に降伏したものの、劉牢之は北府のトップである。強いから、桓玄にとっては脅威なのだ。会稽は揚州の東南だから、会稽内史となれば、北府から離れてしまう。

はじめ劉牢之の子・劉敬宣は、すでに桓玄に降っており、桓玄に随って東府に入った。桓玄は劉牢之に命令を下したいと望んで、劉敬宣に劉牢之へ遣いをさせた。
劉敬宣が父の元に戻った。劉牢之は、自分が北府から免ぜられようとしているのを知り、桓玄を襲いたいと考えた。だが劉牢之の軍はみな散ってしまった。劉牢之は、北の班瀆に逃げ、新洲で縊死した。劉牢之の首は建業に送られた。子の劉敬宣は、江北に逃げた。

これで桓玄は、北府を怖れなくて良くなったのだが・・・劉牢之の部下が残った。劉裕である。

北伐を主張した桓玄だが・・・

玄白德宗,大赦,改年為大亨。玄讓丞相、荊江除三州及錄尚書事。乃改授太尉、都督中外、揚州牧、領平西將軍、豫州刺史;綠綟綬,加兗冕之服,劍履之禮,入朝不趨,贊拜不名,增班劍六十人,甲仗二百人入殿。玄乃鎮姑熟。既而大築府第,田遊無度,政令屢改,驕侈肆欲,朋黨翕習,沮亂內外。朝政皆諮焉,小事則決于左僕射桓謙及丹陽尹卞範之。玄大賦三吳富室,以賑饑民,猶不能濟也。東郡既由兵掠,因以饑饉,死者甚眾。三吳戶口減半,會稽則十三四,臨海、永嘉死散殆盡。諸舊富室皆衣羅谷,佩金玉,相守閉門而死。

桓玄は司馬徳宗に建白して、大赦させ、「大亨」と改元させた。
桓玄は、丞相を辞退して、荊江徐の3州の長官となり、録尚書事となった。桓玄は改めて、太尉、都督中外、揚州牧、領平西將軍、豫州刺史を受けて、綠綟綬と兗冕之服を加え、劍履之禮、入朝不趨、贊拜不名、班劍60人、甲仗200人をを增して入殿できることになった。

王莽の前例に従って、禅譲のステップを上がり始めた。

桓玄は、姑熟に出鎮した。桓玄は、府第を大いに建築し、田遊には節度がなく、政令はしばしば改められ、驕侈で欲をほしいままにし、朋黨は翕習し、内外は沮亂した。

決まり文句だから、史実に取材せずに書いたのかな。それとも、権力を握った人は、決まって同じような行動を取るのか。

朝政は、みな桓玄にお伺いが立った。小事は桓玄まで上がらず、左僕射の桓謙と、丹陽尹の卞範之が決定した。桓玄は、三呉の富裕な一族に、重税を課して、飢民に支給した。だが飢民を救うことはできなかった。

善政じゃん(笑)三呉がターゲットになったのは、東晋の司馬氏、建業方の根拠地だからだ。取れるところから取るのは、理にかなっている。同時に、東晋の弱体化も狙っている。動機も内容も効果的で、いい政策だと思うんだが。

東方の郡はすでに、兵掠と饑饉のせいで、死者はとても多かった。三呉では、戸数や人口が半減した。会稽軍では10に3か4、臨海郡と永嘉郡では、ほとんど全部が死散した。今まで東晋で権力を持った富貴な家は、みな羅谷を衣し、金玉を佩き、閉門して守ったまま死んだ。

おもしろい表現だ。事実を知るという観点からも、後世人の目線としては、不謹慎だが面白い。高価な宝玉だって、耕作者がおらず、食料そのものが納税&流通されなければ、腹の足しにならない。
「東郡」は華北の同名の郡じゃなく、「東方の郡」で良かろう。東晋どころか、孫呉以来の土着勢力が、桓玄のときに清掃されたとしたら、興味深いです。


玄自封豫章郡公,食安成七千五百戶;後來封桂陽郡公,邑二千王百戶;本封南郡如故。既而鴆殺道子。玄削奪德宗供奉之具,務盡約陋,殆至饑寒。雖殺逆未至,君臣之體盡矣。進位大將軍,加前後部羽葆鼓吹,奏事不名。

桓玄は、自ら豫章郡公に封じて、食邑は安成郡の7500とした。のちに桂陽郡公に封じ、邑は2500戸。ただ桓玄の本拠である南郡公は、もとのままだった。
桓玄は、すで司馬道子を鴆殺した。桓玄は、司馬德宗の供奉之具を削奪した。務盡約陋、司馬徳宗は皇帝なのに、飢えと寒さで死にそうだった。桓玄は司馬徳宗を殺しこそしないが、あるべき君臣之體はなくなった。
桓玄は大將軍に進み、前後部羽葆鼓吹を加え、奏事不名を許された。

又表請自率諸軍,命諸蕃方掃平關洛,德宗不許之。玄本無資力,但好為大言,既不辦行,乃雲奉詔故止。玄既無他處分,先作征行服玩,並制裝書畫之具。或諫曰:「今日之行,必有征無戰,輜重自足相運。不煩複有製造。」玄日:「書畫服玩宜恆在左右,且兵凶戰危,脫有意外,當使輕而易運。」眾鹹笑之。

また桓玄は上表して、諸軍を率いる権限をもらい、諸藩に命じて、関中や洛陽を平定したいと言った。司馬德宗は、これを許さなかった。
桓玄はもとより資質や力量はなかったが、ただ大きなことを言うのが好きだった。司馬徳宗に反対されると、桓玄はそれ以上、北伐を主張しなかった。

父の桓温が、北伐に成功している。同じやり方を襲いたかったのだろう。

桓温は分別をなくして、遠征の準備として服玩を作り、書画の道具を揃えさせた。ある人が桓玄を諌めた。
「輜重の輸送能力には、限りがあります。余計なものを作って、輸送を煩わしてはいけません
桓玄は言った。
「書画や服玩は、つねに身近に置いておきたい。もしピンチになれば、気に入らないものを捨てて、軽くすれば運びやすいだろう」
人々は、桓玄を笑った。

旅行の上手い人は、荷物が少ない。素人は、使いもしないものまで、たっぷりとカバンに積めてしまう。