4)楚帝国の失政
ついに楚を建国しそうです。
楚帝の登場
玄所親仗,惟桓偉而已,先欲征還,以自副貳。偉既死,玄甚恇懼。初,玄常以其父王業垂成,以己弱年,不昌前構,常懷恨憤。及昌明死,便有四方之計,既克建業,無複居下之心。及偉死,慮一己單危,益欲速成大業。卞範之之徒,既慮事變,懸殊幸其利,鹹共催促,於是殷仲文等並已撰集策命矣。
桓玄が親仗するのは、ただ桓偉だけだった。さきの軍事行動では、桓偉を自分の輔佐につけた。桓偉が死ぬと、桓玄はひどく恇懼した。
はじめ桓玄は、父の桓温が王業を垂成したのに、自分が末っ子で若いせいで活躍の場がないため、いつも恨憤を抱いていた。司馬昌明が死ぬと、桓玄は四方之計を巡らし、建業を占領して、臣下としての心をなくした。桓偉が死ぬと、1人きりで心細く思い、大業を速く成したいと考えた。
卞範之のような人たちは、桓玄の天下がひっくり返ることを心配し、桓玄から利益を受けていたので、しばしば桓玄に催促をした。
ここにおいて殷仲文らは、策命を撰集した。
德宗加玄相國,總百揆,封南郡、南平、宜都、天門、零陵、桂陽、營陽、衡陽、義陽、建平十郡為楚王,備九錫之禮,揚州牧、領平西將軍、豫州刺史如故。遣司徒王謐授相國印綬,光祿大夫武陵王司馬遵授楚王璽策。德宗先遣百僚固請,又雲當親幸敦喻。十二月,德宗禪位於玄,大赦所部,稱永始元年。初欲改年為建始,左丞王納之曰:「建始者,晉趙王倫之號也。」於是易為永始,複同王莽始貴之年。
司馬德宗は、桓玄に相國を加え、總百揆とした。南郡、南平、宜都、天門、零陵、桂陽、營陽、衡陽、義陽、建平の10郡を切り取って、桓玄を楚王に封じた。桓玄に、九錫之禮を備えさせた。揚州牧、領平西將軍、豫州刺史は、もとのままだった。
司徒の王謐から、相國の印綬を桓玄に授けた。光祿大夫・武陵王の司馬遵は、楚王の璽策を桓玄に授けた。東晋皇帝・司馬德宗は、まず百僚から桓玄に、楚王になってほしいと説得させた。次に司馬徳宗は、自ら桓玄を訪問して、楚王になってくれと話した。
12月、司馬徳宗は、桓玄に位を禪った。大赦して、「永始」と改元した。はじめ年号を「建始」としたかったが、左丞の王納之が言った。
「建始は、西晋の趙王・司馬倫が使った年号ですよ」
そこで「永始」と改めたのだが、これは王莽がはじめて貴く(新都侯に)なったときの、前漢の年号と同じだ。
同じ年号を使いまわすことは、べつに禁じられてない。前漢末にあった年号が、楚初に出現しても不自然じゃない。王莽が設定した年号ならいざ知らず、王莽がただ侯にデビューした年号だなあ!と、結びつけるのは強引だ。
あこがれの王莽
玄入建業宮,逆風迅激,旌旗、服章、儀飾一皆傾偃。是月酷寒,此日尤甚。多行苛政而時施小惠。迎溫神主進於太廟。玄遊行無度,至此不出。殿上施金額流蘇絳帳,頗類轜車、王莽仙蓋。太廟、郊齋皆二日而已。又其廟祭不及于祖,以玄曾祖已上名位不顯,故不列序。且以王莽立九廟,見譏前史,遂以一廟矯之。
桓玄が建業宮に入ると、逆風が迅激で、旌旗、服章、儀飾が、すべて傾いて曲がった。この月は酷寒だったが、桓玄が即位した日は、もっとも寒さがひどかった。
桓玄は、苛政を多く行い、ときどき小惠を施すだけだった。父の桓温の神主(魂)を迎えて、太廟に祭った。桓玄は、遊行に節度がなく、太廟に出てこなかった。
桓玄は殿上に、金製の額を施し、蘇絳帳を流した。桓玄の轜車は、王莽の仙蓋にピタリとそっくりだった。
桓玄は、太廟の祭祀も、郊外の齋事も、2日しかやらなかった。桓玄は、祖先の廟祭を行なかった。桓玄の曽祖父は、名前すら明らかではないので、廟に並べられなかった。
桓玄は、王莽のために九廟を立てた。前史の役人から非難されたので、桓玄は、王莽の廟を1つだけ残して壊した。
ぼくは桓温には簒奪の意向はなく、むしろ東晋を統一王朝に押し上げる志があったと思う。以前にこのサイト内でやりました。
桓玄は、桓温ではなく、王莽の志を継いだ。
もう1つ。禅譲の前例なら、曹丕がいる。曹氏は司馬氏に虐められたし、王莽より禅譲後に成功している。東晋を滅ぼすとき、好ましい前例となる条件が揃っているのに、敢えて王莽・・・!
『魏書』が、桓玄の末路を参考に、王莽ファンに捻じ曲げたなら、それは残念なこと。でも、素の桓玄が王莽に傾倒したなら、とても興味深いテーマです。
又毀僭晉小廟,以崇台榭。其庶母蒸嘗,未有定所。慢祖忘親,時人知其不永。是月,玄出游水南,飄風飛其儀蓋。又欲造大輦,使容三十人坐,以二百人輿之。玄驕逸荒縱,不恤時事,奏案停積,了不省覽;或親細事,手注直官,自用令史,制度亂出,主司奉簽不暇。晨夜遊獵,文武困乏。直侍之官,皆系馬省中;休下之吏,留供土木之役。朝士勞瘁,百姓力盡,民之思亂,十室而八。
桓温は、東晋の小廟を壊して、台榭を崇んだ。
桓玄の身分の低い母は、どこに行ったか分からない。祖先をあなどり、親を忘れたので、時の人は、桓玄の王朝が長続きしないと思った。
この月、桓玄は南方に舟で旅行した。飄風が、桓玄の舟の儀蓋を飛ばした。また桓玄は、30人が乗れる大きな輦を作って、200人に担がせた。
桓玄は、驕逸荒縱で、時事を恤まなかった。
奏案は停積し、目を通さなかった。桓温は、細かなことを好み、直属の役人に手間をかけ、自ら指示を出した。
制度は亂出し、主司の奉簽はひっきりなしだった。
朝晩に遊獵し、文武は困乏した。直侍之官は、みな馬を省中に繋ぐほど忙しかった。休下之吏は、土木之役を止めた。朝士は勞瘁し、百姓は力尽き、民之思が亂れること、10室のうち8室にのぼる。