187年、張挙と張純が、幽州で革命
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
187年春、韓遂が、邊章、北宮伯玉、李文侯を殺す
春,正月,己卯,赦天下。 二月,滎陽賊殺中矣令。三月,河南尹何苗討滎陽賊,破之;拜苗為車騎將軍。
187年春正月己卯、天下を赦した。2月、滎陽の賊が、中矣令を殺した。3月、河南尹の何苗は、滎陽の賊を破った。何苗は、車騎將軍となった。
韓遂は、邊章と北宮伯玉、李文侯を殺した。韓遂は、兵10余万がいる。隴西をかこんだ。隴西太守の李相如は、反して、韓遂とつらなる。
涼州刺史の耿鄙は、6郡の兵をひきいて、韓遂を討つ。耿鄙の治中は、程球だ。程球は姦利につうじ、士民に怨まれた。漢陽太守の傅燮は、耿鄙に言った。「耿鄙は、まだ赴任して、日があさい。また程球がいては、官軍の心が、ひとつにまとまらない」と。耿鄙は、傅燮をきかず。
187年夏、耿鄙が韓遂に破れ、馬騰が自立
187年夏4月、耿鄙は狄道にゆく。州別駕は、韓遂に応じた。州別駕は、程球と耿鄙を殺した。韓遂は、漢陽をかこむ。城中の兵は少なく、食糧はつきた。傅燮は、かたく守った。
ときに北地の胡騎が、数千いて、韓遂にしたがう。みな傅燮の恩になつく。胡騎は城外で叩頭して、傅燮を郷里(北地の霊州)に送りたいと言った。
傅燮の子は、傅幹である。傅幹は、父の傅燮に言う。「後漢は、もうダメだ。この漢陽は、守れない。羌族と胡族にあまえて、故郷に帰ろう」と。傅燮は、傅幹が言い終える前に、歎じた。「伯夷は、どれだけ殷がダメでも、周に仕えなかった。私も後漢に殉じる。主簿の楊會は、私にとって程嬰だ。傅幹は、楊會を頼れ」と。
狄道人の王國は、もと酒泉太守の黃衍をおくり、傅燮に説く。「天はすでに、漢にない。傅燮は、わが軍のリーダーにならないか」と。傅燮は剣をつかみ、黃衍を叱った。「私に賊になれと、言うのか」と。傅燮は進軍し、戦没した。
耿鄙の司馬する、扶風の馬騰もまた、反した。韓遂と合わさり、王国をリーダーとした。三輔を寇した。
ぼくは思う。馬騰は、耿鄙の司馬だった。この出自は、馬超を知るために、役立つ。
187年夏、公孫瓚と張純が、烏桓の指揮を争う
太尉の張溫は、寇賊が平らがないから、やめた。司徒の崔烈を、太尉とした。5月、司空の許相を、司徒とした。光祿勳する沛國の丁宮を、司空とした。
はじめ張溫は、幽州の烏桓突騎3千で、涼州を討った。もと中山相した漁陽の張純は、烏桓をひきいたい。張温は、張純をゆるさず。涿令する遼西の公孫瓚が、烏桓をひきいた。
烏桓の軍は、薊中にきた。烏桓は、薊県の食糧を持ち逃げした。張純は、烏桓の指揮を任させてもらえないから、怒った。
公孫瓚は、異民族を殺しまくったイメージがあるが。公孫瓚が、烏桓をひきいたことも、あった。指揮に失敗したから、異民族を怨んだのか?だとしたら、とんだ小さい人物だ。
張純は、同郡のもと泰山太守・張舉と、烏桓の大人・丘力居らと、連盟した。張純は、薊中を劫略した。張純は、護烏桓校尉の公綦稠、右北
平太守の劉政、遼東太守陽終らを殺した。張純は、10万余になり、肥如(遼西)に屯した。張挙は天子を称し、張純は彌天將軍、安定
王を称した。州郡に文書をまわした。「張挙が、漢に代わった。天子を位から降ろせ。公卿は、張挙を迎えよ」と命じた。
187年冬、孫堅が区星を討ち、烏程侯
是歲,賣關內侯,直五百萬錢。
前大丘長陳寔卒,海內赴吊者三萬余人。寔在鄉閭,平心率物,其有爭論,輒求判 正,曉譬曲直,退無怨者,至乃歎曰:「寧為刑罰所加,不為陳君所短!」楊賜、陳耽, 每拜公卿,群僚畢賀,輒歎寔大位未登,愧於先之。
187年冬10月、長沙賊の區星は、みずから將軍を称した。1万余人あつまる。議郎の孫堅を長沙太守として、区星を平らげた。孫堅は、烏程侯となる。
11月、太尉の崔烈をやめた。大司農の曹嵩を、太尉とした。12月、屠各胡(匈奴)が反した。この歳、關內侯を売った。5百萬錢だ。
さきの大丘長・陳寔が死んだ。海内から、3万人が弔問した。陳寔は、判断の公正さが知られた。「刑罰を受けても、陳寔に責められたくない」と言われた。楊賜と楊賜は、公卿になり、みなに祝われたあと、いつも歎じた。「私は、陳寔より先に、高位に昇ってしまった」と愧じた。101215