094年、南単于を操り、班超は西域を征圧
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
094年は、盛大に外交の歳だ。竇憲を誅し、外交の方針がブレなくなった。
094年春、後漢は南匈奴に、南単于を殺させる
春,正月,皇甫稜免,以執金吾硃徽行度遼將軍。時單于與中郎將杜崇不相平,乃 上書告崇;崇諷西河太守令斷單于章,單于無由自聞。崇因與硃徽上言:「南單于安國, 疏遠故胡,親近新降,欲殺左賢王師子及左台且渠劉利等;又,右部降者,謀共迫脅安 國起兵背畔,請西河、上郡、安定為之儆備。」
094年春正月、皇甫稜を免じ、執金吾の硃徽を、行度遼將軍とした。ときに南單于と、中郎將の杜崇は、仲が悪い。南単于は、上書して杜崇に告げた。杜崇は、西河太守が単于の上書をにぎりつぶしたと言った。単于は分からない。
杜崇は、行度遼將軍の硃徽とともに、上言した。「南單于は、左賢王の師子らを殺したい。また新たに右部から降った人は、南単于に迫り、後漢から離反させるつもりだ。西河、上郡、安定の3郡を防備したい」と。
帝從之,於是徽、崇遂發兵造其庭。安國夜聞漢軍至,大驚,棄帳而去。因舉兵欲誅師子。師子先知,乃悉將廬落入曼柏城,安國追到城下,門閉,不得入。硃徽遣吏曉譬和之,安國不聽。城既不下,乃引兵屯五原。崇、徽因發諸郡騎追赴之急,眾皆大恐,安國舅骨都侯喜為等慮並被誅,乃格殺安國,立師子為亭獨屍逐侯鞮單于。
和帝は、公卿に議論させた。みなが言う。「蠻夷の反覆は、測知しにくい。いまは様子を見よう。杜崇と硃徽は、西河
太守と力を合わせて備えろ。もし南単于が辺境を侵すなら、そのとき手を打て。賞賜をおこえば、兵を動かさなくても、百蠻に後漢の威勢を示せる」と。
和帝は、公卿に従う。杜崇と硃徽は、南単于の領土にゆく。南単于は、漢軍が来たことに大驚して、幕営を棄てて去った。南単于は、師子を攻めた。後漢が仲裁した。南匈奴は後漢を恐れ、対立の火種である、いまの南単于を殺した。師子をつぎの単于に立てた。
094年正月己卯、司徒の丁鴻が薨じた。
2月丁未、司空の劉方を、司徒とした。太常の張奮を、司空とした。
094年秋、班超が西域50余国をしたがえる
094年夏5月、城陽懷王の劉淑が薨じた。子がなく國は除かる。094年秋7月、京師で日照。
西域都護の班超は、龜茲や鄯善ら8国から、兵7万余人を発した。焉耆を討つ。焉耆王の首を斬り、京師に送った。これにおいて、西域の50余國は、すべて後漢に人質を送った。西の海濱に到るまで、4万里の外まで、みな後漢に貢献した。
南單于に師子が立つ。降った胡族のうち、15部20餘万人が、南単于に反した。南単于を、取り換えた。
9月癸丑、光祿勳の鄧鴻を行車騎將軍事とした。鄧鴻は、越騎校尉の馮柱と、行度遼將軍の硃徽ととに、左右の羽林と、北軍の五校士をひきいる。烏桓校尉の任尚は、烏桓と鮮卑を、合わせて4万人ひきいて、降った胡族を討つ。南單于と、匈奴中郎將の杜崇は、牧師城で、胡族に囲まれた。
094年冬、竇憲からの、疑獄の連鎖をとめる
094年冬11月、鄧鴻らが美稷にきて、杜崇と南単于を救った。胡族を大破した。1万1千余を斬首した。胡族は出塞した。漢兵は、追うことができない。
帝以尚書令江夏黃香為東郡太守,香辭以:「典郡從政,才非所宜,乞留備冗官, 賜以督責小職,任之宮台煩事。」帝乃復留香為尚書令,增秩二千石,甚見親重。香亦 祗勤物務,憂公如家。
大司農の陳寵を、廷尉とした。陳寵は、性質が仁矜だ。しばしば疑獄があっても、經典どおり、寬恕に務めた。刻敝の風は、ここにおいて衰えた。
尚書令する江夏の黃香を、東郡太守とした。黄香は、辞して言った。「私は、郡の太守が務まる才能がない。どうか私に、宮台の煩事をお任せください」と。和帝は、黄香をにもどした。秩を2千石に増やし、親重した。
『百官志』はいう。尚書令は、秩1千石だ。太守の2千石とおなじ秩を与えたのだ。
黄香は、せっせと働き、家のことように、公を憂いた。101225