表紙 > 考察 > 裴注の『漢晋春秋』を斜め読み

1)魏への呪い

曹魏ではなく蜀漢を正統とした初めての歴史書が、習鑿歯『漢晋春秋』です。今回は『漢晋春秋』を扱いたいと思います。

『漢晋春秋』とは

後漢の光武帝から始まり、献帝のつぎは劉備に帝紀を設け、劉禅の次に司馬氏へと移る構成だそうです。
でも、どうやら現存はしないようだ。と言っても、まだ、信頼できる論文で、
「纂逸してしまったよ」
とは確認してません。自分の蔵書をめくったり、ネットであちこち叩いただけです。ふたたび大学図書館のそばに住みたいなあ。もし原文を読める本があれば教えて下さい。

習鑿歯の執筆の動機は、桓温が東晋から禅譲を受けようとするのを、牽制するためだと。曹操をくさすことで、
「力が強ければ皇帝になっていい、というものではない」
と主張したかったんだって。
それなら力づくで禅譲を迫った司馬氏もダメじゃん、という話になりそうですが、東晋の皇帝を守るために『漢晋春秋』を書いている習鑿歯に、そこの説明を求めてはいけない(笑)
「劉氏が良くて、曹氏がダメなら、曹氏をいじめた司馬氏は良い」
という論法だろうか。敵の敵は味方という・・・
そのあたりの謎も、裴松之を広い読むことで、考えます。

魏書の本紀-1

◆武帝(曹操)紀
200年8月、袁紹は東西数千里に陣営を広げた。曹操に敗れた。

許攸は袁紹に進言した。
「曹操と合戦をしてはいけません。諸軍を横に広げたまま、曹操を引きなさい。その隙に他の道を通って、献帝を保護なさいますよう
袁紹は却下した。
「私は曹操を倒さねば、気が済まない。献帝は後でいい」
許攸はガッカリして、腹を立てた。

袁紹が正しい意見を聞けなかった、許攸が袁紹を裏切る伏線だ、という読み方をして来ましたが、違いました!強い逆賊(東晋の桓温)から弱い皇帝を取り戻すべきだ、という習鑿歯の主張が投影されてる。

◆明帝(曹叡)紀
235年11月22日、曹叡は許昌宮に行幸した。

氐池県で波があふれ、青い石が水中にそびえ立った。長さは4メートル弱、高さは2メートル弱。表面には動物の絵が描かれ、
「大いに曹氏を討ち、水中にゆく」
と、文字が盛り上がっていた。曹叡は石を削って、「討」を「計」に変えた。大いに曹氏のために計略を巡らせ・・・という意味に変えたのだ。曹叡は石を埋めた。
翌朝、石は元の位置にあり、文字は「討」に戻っていた。この文字は、晋代になってますます鮮明となり、石は輝いた。

何のことはない。曹魏を呪い、西晋の正統を主張したエピソード。

238年8月24日、彗星が出現した。

史官は、曹叡に報告した。
「彗星が現れたのは、周王朝を象徴する星座の領域です。洛陽にとって不吉です」
曹叡は、大々的にお祓いをした。

周の都は洛陽で、魏の都も洛陽。魏が滅亡する兆しだ。

238年12月8日、曹叡が病床についた。燕王の曹宇(曹操の子)を大将軍に任じたが、12月27日に罷免した。武衛将軍の曹爽を、曹宇の代わりに大将軍にした。

中書の劉放と孫資は、歴代の皇帝から信任された。だが2人は、皇族(曹宇、曹肇、秦朗)の政治家たちと仲が悪かった。死にかけた曹叡は、皇族たちに死後を託した。劉放と孫資は、相談をした。
「もし遺言どおりになれば、政敵が力を持つ。私たち2人は釜茹でだ」
「遺言を改竄するしかない」
2人は曹叡を騙して、皇族を失脚させた。曹叡には筆を執る力が残っていなかった。2人は曹叡の手を握って、詔勅を偽造した。曹叡の死後は、曹爽と司馬懿が政権担当した。

劉放と孫資がセコい保身を図って、魏の政治を傾かせた。2人を趙高のような小悪党に仕立てて、始皇帝の死を連想させた演出だ。
だが、習鑿歯の姿勢を見抜けば、史料批判も可能。
曹叡の死に際に、人事が変更されたことは、陳寿が書いた。だが、劉放と孫資の暗躍があったことは、習鑿歯の「創作」かも知れない。ホントであることも、ウソであることも、どちらも証明できない。
曹叡が死ぬとき、国家の情報系統がどこまで麻痺&腐敗していたか不明。

裴注のワナ

あまり注意せずに、裴松之の注も含めて『三国志』を読んでいると、魏の衰退が自然の成り行きのように思える。そこかしこに、魏の天命を否定するような話がある。印象は、徐々に引っ張られていく。
でも、注意が必要。
短い王朝の記録は、当代に間に合わず、次の時代に完成する。魏代で言えば、晋代です。晋は魏をつぶして成立した。晋を正当化するために、魏に不利な記事が、どんどん突っ込まれている可能性がある。『漢晋春秋』がその代表だ。恥ずかしながら、自覚が足りませんでした。