2)いろいろな記事の例
『三国志』の本紀に裴注が入れた『漢晋春秋』を抜き出しています。数が多いので、ちょっと飛ばし飛ばしになります。習鑿歯の傾向だけは見落とさないように省略していきます。
魏書の本紀-2
246年できごと。
「避難をやめさせろ」
と言った。司馬懿はこれに反対した。だが曹爽は、危険な場所に民を帰らせてしまった。ふたたび朱然に襲撃され、被害が広がった。
袁淮は、曹爽に抗議した。
「呉の人は、もともと無能です。でも水戦が得意なので、手ごわいのです。水辺に近い拠点を、北に移しましょう。そうすれば水軍の侵略を受けなくなります。魏が国力を蓄えれば、いちいち水戦に勝たなくても、自然と呉は屈服するでしょう」
だが曹爽は、目先の勝ち負けにこだわり、拠点を移さなかった。
曹爽のアホさを語るのは、
「劉放と孫資が勝手な行動をしたから、魏の朝廷は乱れたんだ」
という弾劾のため。前段の伏線を回収しています。
司馬懿を褒めたのは、周鑿歯が東晋に仕えているから。逆に言えば、司馬懿がこのテーマについて、曹爽に反対していない可能性がある。袁淮が抗議したという史実に、司馬懿の手柄を混ぜたかも知れない。
諸葛恪に、魏軍は東関で敗れた。司馬師は自分を降格して詫びた。司馬師は智者である。たった2回の敗戦で、信頼は揺るがない。
司馬師の美談は、陳寿の本文じゃないことに注意!『晋書』は成立が唐代だから、美談が載っていても、どうせ裴注の書き写しだろうし。
258年、曹髦は王祥に、人材登用について質問した。王祥は、鄭小同を採用することに賛成した。
259年、井戸の中に龍が出現した。曹髦は、自分の境遇を嘆く詩を作って、司馬昭を風刺した。
曹髦は、王沈・王経・王業に、司馬昭を倒すことを相談した。王氏たちは、司馬昭に密告した。賈充は成済を差し向けて、曹髦を殺した。曹髦の遺体を運ぶときは、見すぼらしかった。
荀勖は司馬昭にひれ伏したが、王祥は魏朝での官位が1つしか違わないから、司馬昭に会釈しただけだった。
司馬氏の賢い采配と、曹氏の血迷った判断ミスについて、見てきたように書いてあるのが特徴。セリフも行動描写も、とても細かい。裴松之も苦笑いして、「そんなバカな」と史料批判している。
『晋書』で読んだが、習鑿歯はなかなかの「小説家」のようだ。魏に不利な名場面で、ファンがまぶたの裏に浮かべることが出来るエピソードの多くが、習鑿歯の創作である可能性は高い。危ない!
列伝に出てくる『漢晋春秋』
審配は忠烈な最期を遂げた。習鑿歯は、審配から袁譚に送られた長い手紙を、きっちり載せた。(袁紹伝)
劉表は、「朝廷に貢物をして、袁紹を裏切らない。これが天下の道義である」と言った。(劉表伝)
曹操が遼東を北伐したとき、劉備は劉表に、曹操の留守を攻めるように勧めた。チャンスを生かせずに劉表が落ち込むと、劉備は次のチャンスを狙おうと励ました。(劉表伝)
曹操に降伏しようとした劉琮に、王威が曹操への対抗を勧めた。劉琮は聞き入れずに、曹操に従った。(劉表伝)
習鑿歯は東晋のとき、荊州にいた。だから劉表の内側に詳しい。現地でしか手に入らない異説を、書き留めている。曹氏を憎んで創作に走ってしまうのは、歴史家としては落第だが、荊州の史料は参考になる。他に『襄陽記』を書けたわけだ。
異色なのは、袁紹伝。審配の手紙は、ちくま訳で5ページもある。
だがなぜ審配の手紙が、完全な形で手に入ったか。ムリだ。
きっと習鑿歯は、審配の生き方が好きで、審配に語らせるかたちで、自分が言いたいことを言った。内容の検討は、後日のテーマとします。
信義のない公孫瓉のやり方に殉じた、関靖の悲劇。(公孫瓉伝)
公孫淵の視点から見た戦略について。(公孫度伝)
張魯に王号を思いとどまらせた閻圃。(張魯伝)
曹操の敵となった群雄を、習鑿歯は理想化している。とくに習鑿歯は袁紹が大好きで、袁紹の正しさを強調する史料が多い。
曹操と敵対し、後漢なみの秩序を回復できたかも知れない、慎み深い英雄になっている。袁紹の周辺に託して、長文の意見が載っているが、習鑿歯が作ったと見ていいだろう。
孤立していて面白いのが、王朗伝。
主張も脈絡もない。珍しい会話でもない。なぜ混ざりこんだんだろう。
『漢晋春秋』の説教
裴松之は習鑿歯を、歴史のコメンテーターとして認めていたようだ。ふだん裴注は、陳寿が切り捨てた史実を補足するんだが、ときどき「習鑿歯曰く」と、彼の意見をわざわざ引く。
とかね。習鑿歯はイメージ上の曹操のように、強くて威張った人が嫌いだ。強い人が態度がデカイと、「習鑿歯曰く」で出てきて、攻撃をする。
蜀漢正統論?
裴松之が「習鑿歯の意見の中で、もっとも優れている」と言った部分を引用します。
いま劉備は正義の兵を集めて、曹操を討つつもりだ。曹操は強力だから、献帝は埋没して廟を祭れていない。皇族に優れた人物がいなければ、劉備が皇帝になっても罪ではない。動機が天下のためならば、光武帝も劉備も、見切り即位が許される。
『漢晋春秋』が書かれたのは、東晋が一時的に洛陽を手に入れた時期。
「光武帝-劉備-司馬睿」を結びつけて、前に東晋が統一前に帝号を称したことを正当化し、「光武帝-司馬炎-現皇帝」と結びつけて、今の東晋の天下統一を期待したか。東晋に統一の期待がなければ、光武帝や司馬炎を持ち上げても虚しいだけだ。