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165年、楊秉がいさめ、竇皇后がたつ

『後漢紀』を抄訳します。

165(1) 劉淑と楊秉が、桓帝をいさめる

八年(乙巳、一六五) 春正月,使中常侍左悺之苦,祠老子。上始好神仙之事。 勃海王悝謀反,徙為定陶王〔一〕。
〔一〕范書作「癭陶王」。按續漢郡國志,廮陶屬鉅鹿郡。通鑑作「癭陶」。袁紀恐誤。
丙申晦,日有食之。詔公卿校尉舉賢良方正各一人。

延熹八年(165)、春正月、中常侍の左悺が苦県にゆき、老子をまつる。桓帝は、神仙之事を好みはじめた。

ぼくは思う。桓帝は、始皇帝ばりの、絶対権力者だったのではないか。現状に満足していないと、不老不死なんて、なりたくない。「宦官がのさばり、後漢が傾いたので、現実逃避のために、桓帝は黄老ににげた」という説明を、ぼくは信じられない。梁冀の死後、桓帝の専制が、めちゃくちゃ強まったから、党人が摘発された。前ページの史弼しかり。
桓帝は、女遊びが盛んなのに、皇太子がいない。自分が、永遠に皇帝をやるつもりだったのではないか。皇太子が成長すると、父・皇帝のジャマになるから、桓帝は間引いていたとか。べつに根拠のない、憶測ですが。孫権に通じるものを感じる。

勃海王の劉悝が、謀反した。定陶王にうつされた。
〔范曄は「癭陶王」とする。司馬彪「郡國志」によると、廮陶は鉅鹿郡にぞくす。『資治通鑑』は「癭陶」とする。袁宏の誤りだろう〕
正月丙申みそか、日食した。公卿、校尉に、賢良方正な人を1人ずつあげさせた。

河南劉淑對曰〔一〕:「臣聞立天之道曰陰與陽,立人之道曰仁與義。故夫婦正則父子親,父子親則君臣通,君臣通則仁義立,仁義立則陰陽和而風雨時矣。夫吉凶在人,水旱由政。故勢在臣下則地震坤裂,下情不通則日月失明,百姓怨恨則水旱暴興,主上驕淫則澤不下流。由此觀之,君其綱也,臣其紀也。綱紀正則萬目張〔二〕,君臣正則萬國理,故能父慈子孝,夫信婦貞,兄愛弟順。如此則陰陽和,風雨時,萬物得所矣。」
〔一〕范書黨錮傳作「河間樂成人」。又曰:「永興二年,司徒种暠舉淑賢良方正,辭以疾。桓帝聞淑高名,切責州郡,使輿病詣京師。淑不得己而赴洛陽,對策為天下第一。」按种暠傳,暠延熹四年始任司徒,在位三年薨。袁紀作三年任司徒,六年薨。故黨錮傳作「永興二年」誤。然种暠於六年薨,袁紀系於八年始舉對策,亦有所不合。恐淑系暠生前所舉,時辭以疾。至此不得已應桓帝詔,而赴洛陽對策也。 〔二〕詩譜序曰:「舉一綱而萬目張。」

河南の劉淑は、桓帝に対策した。
〔范曄の党錮伝は、「河間の樂成の人」という。また党錮伝はいう。「永興二年(154)、司徒の种暠は、劉淑を賢良方正にあげた。疾病といい、辞退された。桓帝は、劉淑の高名をきき、州郡をとがめた。病床のまま、京師に運んだ。劉淑は、やむをえず、洛陽にゆく。劉淑の対策は、天下の第一だった」と。范曄の种暠伝をみると、种暠は、延熹四年にはじめて司徒となる。在位3年で、薨じた。袁宏は种暠につき、延熹三年に司徒となり、延熹六年に薨じたとする。ゆえに党錮伝が、「永興二年(154)」とするのは、誤りである。しかし种暠は、延熹六年(163)に薨じた。袁宏は、延熹八年(165)、はじめて劉淑が対策したという。年代があわない。おそらく劉淑は、生前の种暠にあげられ、このときは辞退した。のちに桓帝に応じて、165年に洛陽にきて、はじめて対策した〕
劉淑は言った。「天の道は、陰と陽だという。人の道は、仁と義という。桓帝は、この秩序をみだすから、日月はくらくなり、百姓は水害や旱魃にくるしむ。桓帝は、君臣や家族の秩序を、とりもどせ」と。

典型的はご高説で、ごもっとも、としか言えない。


癸未,廢皇后鄧氏〔一〕。后驕忌,嘗與上所幸郭貴人更相譖訴,由是故廢,以憂死〔二〕,親屬皆免歸本郡。
〔一〕范書作「癸亥」。按前有「丙申晦」,則癸未當屬二月。然二月乃丁酉朔,無癸未,袁紀誤。又其上恐脫「二月」兩字。 〔二〕原「以」在「廢」上,據陳璞校記逕改。
三月辛巳,大赦天下。 夏四月丁巳,壞諸淫祀。壬戌,河水清。

癸未、皇后の鄧氏を廃した。皇后は驕忌した。かつて桓帝が寵愛した、郭貴人をそしった。ゆえに皇后は廃されて、憂死した。新属は、みな官位を免じられ、本郡にかえる。
〔范曄は、「癸亥」とする。まえに袁宏は「丙申みそか」とするから、「癸未」は2月に属すはずだ。しかし2月ついたちは、丁酉である。2月に癸未はない。袁宏の誤りである。「二月」の2字が脱落している〕
3月辛巳、天下を大赦した。夏4月丁巳、もろもろの淫祀を壊した。3月壬戌、黄河の水が澄んだ。

五月丙戌,太尉楊秉薨。 秉字叔節,少傳父業,隱居教授三十餘年,乃應司空之辟。稍遷刺史、二千石,所歷皆有政績。雖三公之子,經歷州郡,嘗布衣蔬食,老而不改。在公卿位,朝廷每有得失,便盡心正諫,退而削草,雖子弟不知也。秉不飲酒,早喪夫人,遂不復娶,所在以〔淳〕(神)明稱〔一〕。嘗曰:「我有三不惑:財、酒、色。」有子曰賜,亦顯名儒行。 〔一〕據黃本改。范書作「淳白稱」。明可訓作白。
六月,匈奴寇邊,〔中〕郎將度尚擊之〔一〕。九月,京師地震。 〔一〕范書桓帝紀言度尚所擊系義軍桂陽胡蘭、朱蓋。尚晚年曾任遼東太守,擊破鮮卑,未曾與匈奴戰,袁紀誤。

5月丙戌、太尉の楊秉が薨じた。
楊秉は、あざなを叔節。父の学問をつぎ、隱居して教授すること、30余年。司空の辟に応じた。刺史、二千石を歴任し、政績あり。三公の子だが、州郡を歴任して、衣食は質素だ。老いても、質素を改めず。楊秉が三公になると、得失があるたび、心をつくして桓帝を諌めた。退出すると、桓帝をいさめた文書を削除したから、子弟でも内容を知らない。酒を飲まず、ふたたび妻をめとらず、たたえられた。「私は3つに惑わない。財、酒、色だ」と言った。子の楊賜も、儒行で顯名した。
6月、匈奴が境界を寇した。中郎将の度尚が、撃った。
〔范曄の桓帝紀はいう。度尚は、桂陽の胡蘭、朱蓋を撃った。晩年に、遼東太守となり、鮮卑をやぶった。度尚が、匈奴を撃ったという記述はない。袁宏の誤りだ〕
9月、京師は地震した。

165年(2) 陳蕃が太尉となり、竇皇后がたつ

冬十月丙寅,太中大夫陳蕃為太尉〔一〕。蕃讓曰:「不僭不忘,率由舊章〔二〕,臣不如太常胡廣;齊七政,訓五典,臣不如議郎王暢;文武兼資,折衝萬里,臣不如弛刑司隸李膺〔三〕。」上不許。 〔一〕范書作「秋七月」事。 〔二〕見詩大雅假樂。謂周公之禮法,不過誤,不遺失,率尊而循之。 〔三〕范書本傳「弛刑司隸」作「弛刑徒」。按膺論輸左校前任河南尹,至延熹九年始任司隸校尉,故袁紀作「司隸」誤。

冬10月丙寅、太中大夫の陳蕃を、太尉とした。〔范曄は秋7月とする〕
陳蕃は、辞退した。「私よりも、太常の胡広、議郎の王暢、司隷の李膺のほうが、太尉に適している」と。桓帝は、辞退をゆるさず。 〔李膺は河南尹である。司隷校尉になったのは、延熹九年(166)がはじめて。袁宏は誤りだ〕

蕃又上書曰:「臣聞昔齊桓公任管仲,將正諸侯,先為政令〔一〕。今寇賊在外,四肢之疾耳。臣竊寢不能寐,食不能飽,憂陛下內政未治,忠言日疏。前梁冀、五侯弄權〔二〕,天啟陛下收而戮之。當時天下,號為小清。其前監未遠,旋起覆車之軌矣。往年地動、日蝕、火災,皆陰盛之應,願陛下割塞左右豫政之原,引納尚書朝省之事,簡練高潔,斥退佞邪。如此則天和於上,地洽於下矣。從陛下踐祚已來,大臣誰敢舉左右之罪?往者申屠嘉召鄧通,文帝遣詣嘉府,乃從而請之,三公之職,何所不統?但今左右驕忿,欲令三公不得舉筆。臣蕃今擢自閭閻,特為陛下日月所照,奈何受恩如臣,而當避難苟生,不敢正言。陛下雖厭毒臣言〔三〕,人主有自勉彊。」書奏,〔四〕上不悅,愈以疾蕃。
〔一〕國語齊語曰:「桓公曰:『吾欲從事於諸侯可乎?』管子對曰:『未可。君若正卒伍,修甲兵,則難以速得志矣。君有攻伐之器,小國諸侯有守禦之備,則難以速得志矣。君若欲速得志於天下諸侯,則事可以隱,令可以寄政。』桓公曰:『為之若何?』管子對曰:『作內政而寄軍令焉。』」韋昭曰:「內政,國政也,因國政以寄軍令也。」又曰:「匿軍令,託於國政,若有征伐,鄰國不知。」 〔二〕李賢曰:「五侯謂胤、讓、淑、忠、戟五人,與冀同時誅。」 〔三〕原「毒臣」誤倒,據范書逕正。

陳蕃は上書した。「桓帝の政治はうまくないのに、日に日に忠言がへる。さきに梁冀と五侯〔梁胤、讓、淑、忠、戟のこと、梁冀とともに誅された〕は、政権をもてあそんだ。桓帝は、梁冀をたおした。天下は『小清』となった。だが、地動、日蝕、火災がつづく。桓帝のそばにいる佞邪を、斥退せよ。
桓帝が即位してから、どの大臣が、桓帝の左右の罪をあげたか。前漢の申屠嘉は、鄧通を召して、文帝をいさめた。文帝は、申屠嘉をほめた。三公の職務は、どうして統御しない部分があろうか。いま桓帝の左右は、驕忿する。三公は、左右を弾劾するために、筆をとれない。私・陳蕃が、三公になったからには、左右を弾劾しよう」と。桓帝は、よろこばず。陳蕃をきらった。

桓帝は、陳蕃にムリを言って、三公になってもらった。反対派を、とりこむためだろう。だが陳蕃は、楊秉とおなじく、前漢の故事をだして、三公の権限のおおきさを言い出した。


辛巳,立皇后竇氏。 初憲之誅,家屬廢為庶民。武字游平,少有學行,常閒居大澤,不交世務。諸生自遠方來,授業百餘人,名聞關西。武生五男二女,長男紹,次機,次恪;長女妙,即后也。上以武三輔大族,武有盛名,后入掖庭,逾月立為皇后。武甚不樂,輿疾至京師,拜武為特進、城門校尉,封槐里侯。紹為虎賁中郎將。武乃稱疾篤,固辭爵位。
勃海盜賊蓋登自稱「太上皇帝」〔一〕,伏誅。 〔一〕御覽券五八九引東觀記作「太皇帝」。
十二月,使中常侍管霸之苦,祀老子。


10月辛巳、皇后に竇氏を立てた。はじめ竇憲が誅されると、家属は庶民となる。
竇武は、あざなを游平。大澤にいて、世務とまじわらず。諸生は、遠方からきて、竇武に授業された。関西に、名を知られた。竇武は、5男2女がいる。男子は、紹、機、恪。長女は竇妙で、皇后となる。桓帝は、竇武が三輔の大族だから、竇妙を掖庭にいれて、月をまたぎ、皇后とした。竇武は楽しまず、輿をとばして京師にきた。特進、城門校尉となり、槐里侯に封じられた。
竇紹は虎賁中郎將となる。竇武は疾篤だといい、爵位を固辭した。

ぼくは思う。桓帝が竇氏を皇后にしたのは、三輔の協力をもらいたいから。竇武が乗り気でないのは、慎みぶかいからでない。桓帝に、協力したくないのだ。いちど竇憲のとき、外戚となって、ひどいめに遭っている。

勃海の盜賊・蓋登が、「太上皇帝」を自称した。伏誅した。
〔『御覽』巻五八九は、『東觀記』をひき、「太皇帝」とする〕

ぼくは思う。いずれも、桓帝の前の皇帝、という意味か。なぜ?

12月、中常侍の管霸は、苦県にゆき、老子をまつる。

166年、第1次・党錮の禁につづきます。110607