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『晋書』列38、呉の人たち 6)西晋に距離を置く賀循
賀循
賀循,字彥先,會稽山陰人也。其先慶普,漢世傳《禮》,世所謂慶氏學。族高祖純,博學有重名,漢安帝時為侍中,避安帝父諱,改為賀氏。曾祖齊,仕吳為名將。祖景,滅賊校尉。父邵,中書令,為孫皓所殺,徙家屬邊郡。循少嬰家難,流放海隅,吳平,乃還本郡。操尚高厲,童齔不群,言行進止,必以禮讓,國相丁乂請為五官掾。刺史嵇喜舉秀才,除陽羨令,以寬惠為本,不求課最。後為武康令,俗多厚葬,及有拘忌回避歲月,停喪不葬者,循皆禁焉。政教大行,鄰城宗之。然無援於朝,久不進序。

賀循は、あざなを彥先という。會稽郡は山陰国の人だ。
祖先にあたる慶普は、漢のとき代々『礼』を研究した家柄で、世には「慶氏學」と呼ばれた。一族で高祖父の世代の慶純は、博學で名を重んじられた。漢の安帝のとき、侍中となった。安帝の父の諱を避けて、賀氏と改めた。
〈訳注〉安帝の父は劉慶だから、めでたくてお祝いして喜ぶという字意から連想して、慶氏から賀氏になった。
曽祖父の賀齊は、孫呉に仕えて將となった。祖父の賀景は、孫呉で滅賊校尉となった。父の賀邵は、孫呉で中書令となり、孫皓に殺されて、一族は辺境の郡に流された。 賀循は生まれたばかりで一族が難にあい、海隅まで配流されたのだ。
〈訳注〉今さらだが、『晋書』でも孫呉皇帝は、呼び捨てですね。
呉が平定されると、本郡(会稽郡)に還ることができた。
賀循は操が尚く高厲で、童齔たちと群れず、言行に進止があり、必ず禮讓をもって人に接した。だから、山陰國の相である丁乂に召されて五官掾となった。
揚州刺史の嵇喜は、賀循を秀才に挙げ、陽羨県令に任命した。賀循の政治は、寬惠を基本方針として、課最(重い税率)を求めなかった。のちに武康県令となった。武康県の風俗は厚葬(派手な葬式)の習慣があり、忌んで避けるべき歳月のルールがきっちり決められていた。賀循は、喪を停めて弔いをやめることを禁じた。
〈訳注〉後漢末や三国なら、喪を簡素化することが、有能な地方官の革新的な手腕となる。晋代だから、喪を重視するんだね。
政教は大いに行われ、鄰城は賀循のやり方を手本とした。だが賀循は朝廷に人脈がなかったから、長く位階を進むことがなかった。

著作郎陸機上疏薦循曰:「伏見武康令賀循德量邃茂,才鑒清遠,服膺道素,風操凝峻,曆試二城,刑政肅穆。前蒸陽令郭訥風度簡曠,器識朗拔,通濟敏悟,才足幹事。循守下縣,編名凡悴;訥歸家巷,棲遲有年。皆出自新邦,朝無知己,居在遐外,志不自營,年時倏忽,而邈無階緒,實州党愚智所為恨恨。臣等伏思台郎所以使州,州有人,非徒以均分顯路,惠及外州而已。誠以庶士殊風,四方異俗,壅隔之害,遠國益甚。至於荊、揚二州,戶各數十萬,今揚州無郎,而荊州江南乃無一人為京城職者,誠非聖朝待四方之本心。至於才望資品,循可尚書郎,訥可太子洗馬、舍人。此乃眾望所積,非但企及清途,苟充方選也。謹條資品,乞蒙簡察。」久之,召補太子舍人。

著作郎の陸機は、上疏して賀循を推薦した。
〈訳注〉紀瞻のときも同じだが、陸機が孫呉の旧臣を送り込むことに熱心です。陳寿は蜀漢の旧臣を送り込みましたが。
「私が伏して見ますに、武康県令の賀循は、德量は邃茂、才鑒は清遠、服膺は道素、風操は凝峻です。
〈訳注〉訳になってませんが、字面で意味は分かる。さすが文才ある陸機と言うべきか、彼が吐く人物評価は4の2乗。
賀循の2城(陽羨・武康)での勤務実績は、刑政が肅穆でした。
前の蒸陽令である郭訥(人名)は、風度は簡曠、器識は朗拔、通濟して敏悟し、才は重要任務に足ります。下縣(税収の少ない県)を循守し、名が鳴っています。ところが故郷に残って、中央進出が遅れています。
賀循や郭訥は、新邦(新しい征服地=旧呉)の出身者ですから、朝廷に知己がおらず、辺境に残っています。賀循や郭訥は、志が実現しないまま年月が経過してしまい、中央で官位に就くきっかけがありません。揚州の人は、愚者や智者に関わらず、晋の人材登用が遅いことにマジで恨恨としています。
臣(陸機)らは、伏して思います。辺境の州に有能な人材がいれば、その人材を台郎(役人)にして州の統治を任せて下さい。辺境の人材は、交通の分断などせず、晋の恩恵を辺境に及ばせる役に立つでしょう。まことに庶士には有能な人材が多いものです。四方の異俗は、壅隔の害(デメリット)も、遠國の益(メリット)も、どちらも大きなものがあります。
〈訳注〉被征服地の待遇改善を、名士の筆頭格で、発言力のある陸機が訴えている。陸機だからできることだ。裏読みすれば、「再び割拠も辞さないぞ」という脅しにも見える。
荊州と揚州(旧孫呉領)の2州は、戸数がどちらも數十萬あります。いま揚州出身の郎(中央官)がいません。荊州や江南の出身者が、洛陽で1人も職を得ていないのは、聖なる王朝(晋)が全土の期待に応えていると申せません。
才望資品を見たとき、賀循は尚書郎になるべきで、郭訥は太子洗馬、舍人に相応しい。揚州人登用について、衆望は積もっています。賀循と郭訥を推薦したのは、身内贔屓の企みではありません。公平に見た人選です。どうぞ検討をよろしく」
陸機の上疏から長く経って、賀循は洛陽に召されて太子舍人となった。
〈訳注〉陸機の提案は、二重に割り引かれた。まず長く保留されたこと。次に、賀循が尚書郎になれず、陸機が次点の郭訥に宛がった太子舍人にされたこと。西晋は、揚州人に冷たいのです。

趙王倫篡位,轉侍御史,辭疾去職。後除南中郎長史,不就,會逆賊李辰起兵江夏,征鎮不能討,皆望塵奔走。辰別帥石冰略有揚州,逐會稽相張景,以前寧遠護軍程超代之,以其長史宰與領山陰令。前南平內史王矩、吳興內史顧秘、前秀才周等唱義,傳檄州郡以討之,循亦合眾應之。冰大將抗寵有眾數千,屯郡講堂。循移檄於寵,為陳逆順,寵遂遁走,超、與皆降,一郡悉平。循迎景還郡,即謝遣兵士,杜門不出,論功報賞,一無豫焉。

趙王の司馬倫が恵帝から帝位を奪うと、賀循は侍御史に転じたが、病を理由に辞退した。のちに南中郎長史に任命されたが、賀循は就かなかった。
〈訳注〉八王の乱で、位が湯水のごとくバラ撒かれますが、賀循は局外で静観しました。今さら恩を売られたくないんだろう。
たまたま逆賊の李辰が江夏で起兵したが、(荊州の出鎮が)討つことが出来ず、みなバタバタと奔走した。
辰別帥の石冰が揚州を寇略し、會稽国の相である張景を駆逐してしまった。
これを受けて朝廷は、前の寧遠護軍である程超を、会稽相の代理にした。程超は、彼の長史である宰與に山陰令を領ねさせた。前の南平内史の王矩、呉興内史の顧秘、前の秀才である周□らが義を唱え、州郡に檄を飛ばして、石冰の討伐を訴えた。
〈訳注〉人名が多くてうんざりだが、この分かりにくさは翻訳作業ではどうにもならない。
賀循は軍勢を率いて、石冰を討伐せよという檄に応じた。
石冰の大將である抗寵は、数千人を率いて、郡治の講堂に駐屯していた。賀循は、抗寵に檄を見せて、逆順(何が正義で何が叛逆か)を述べた。抗寵は遁走した。
〈訳注〉賀循は、敵の大将に何を言ったのやら。怪しいなあ。「西晋は八王の乱の真っ最中だ。そのうち揚州にとって再起の好機があるから、もう少し待て」とか言ったのでは?
程超(会稽相の代理)は、石冰の軍勢をみな降伏させ、会稽郡はことごとく平定された。賀循は張景(駆逐された元の会稽相)を会稽国に迎えて国府に還らせた。
張景は、賀循が兵を動員して会稽平定に協力したことに礼を述べた。だが賀循の兵が杜門を出なかった(説得によって平定した)ので、論功報賞で、賀循にはビタ一文も払われなかった。
〈訳注〉のちの火種となりそうな査定です。。

及陳敏之亂,詐稱詔書,以循為丹陽內史。循辭以腳疾,手不制筆,又服寒食散,露發袒身,示不可用,敏竟不敢逼。是時州內豪傑皆見維縶,或有老疾,就加秩命,惟循與吳郡硃誕不豫其事。及敏破,征東將軍周馥上循領會稽相,尋除吳國內史,公車征賢良,皆不就。

陳敏が叛乱すると、陳敏は詔書を偽作して、賀循を丹陽内史に任命した。賀循は「脚気を発症しまして、ろくに筆を持って字を書けません」と口実を作って、辞退した。服寒して食散し、肌脱ぎになって自分が役に立たないとアピールしたから、陳敏はついに賀循に協力を強要しなかった。
このとき、揚州内の豪傑は、みな陳敏に加担した。病の老人でさえ、陳敏の政府に就き、秩命を加えられた。ただ賀循と呉郡の硃誕だけが、陳敏の政府に参与しなかった。
陳敏が破られると、征東將軍の周馥は、賀循を挙げて會稽相を領ねさせた。賀循は、呉國内史に任命され、公車は賢良に推されたが、賀循はどれにも就かなかった。
〈訳注〉陳敏にも西晋にも、距離を置いてます。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列38、呉の人たち
1)八王に愛想つきた顧榮
2)揚州人を司馬睿に推挙
3)統一への疑問、紀瞻伝
4)揚州から司馬睿への脅し
5)病人を引き止める東晋帝
6)西晋に距離を置く賀循
7)孫皓に首を挽かれたのは
8)恵帝を皇帝に数えるか
9)司馬睿のしがみつき
10)楊方と薛兼の列伝