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『晋書』列38、呉の人たち 5)病人を引き止める東晋帝
まだ「紀瞻伝」の続きです。

及帝踐位,拜侍中,轉尚書,上疏諫諍,多所匡益,帝甚嘉其忠烈。會久疾,不堪朝請,上疏曰:
臣疾疢不痊,曠廢轉久,比陳誠款,未見哀察。重以屍素,抱罪枕席,憂責之重,不知垂沒之餘當所投厝。臣聞易失者時,不再者年,故古之志士義人負鼎趣走,商歌於市,誠欲及時效其忠規,名傳不朽也。然失之者億萬,得之者一兩耳。常人之情,貪求榮利。臣以凡庸,邂逅遭遇,勞無負鼎,口不商歌,橫逢大運,頻煩饕竊。雖思慕古人自效之志,竟無毫釐報塞之效,而犬馬齒衰,眾疾廢頓,僵臥救命,百有餘日,叩棺曳衾,日頓一日。如複天假之年,蒙陛下行葦之惠,適可薄存性命,枕息陋巷,亦無由複廁八坐,升降臺閣也。臣目冥齒墮,胸腹冰冷,創既不差,足複偏跛,為病受困,既以荼毒。七十之年,禮典所遺,衰老之征,皎然露見。臣雖欲勤自藏護,隱伏何地!


司馬睿が皇帝に即位すると、紀瞻は侍中となり、尚書に転じた。紀瞻が上疏して諫諍する内容は、大いに国家の利益となったから、司馬睿は紀瞻の忠烈を嘉した。
病気が長引いたので、紀瞻は朝請に堪えなくなった。
紀瞻は上疏した。
「私は病気で、もうじき死ぬでしょう。失いやすいものは時で、くり返さないのは年です。ゆえに古代の志士や義人は、君主のために忠規を尽くして、名を永遠に伝えられようとしました。しかし名を残せなかった人は億萬で、名を残せたのは一握りです。
私は国のためにろくに努力もせず、功績もないまま老いて、病んでしまいました。七十之年というのは、禮典には「衰老之征が、皎然と露わる」と書いてあります。東晋のために働きたいですが、もう遅いようです。

臣之職掌,戶口租稅,國之所重。方今六合波蕩,人未安居,始被大化,百度草創,發卒轉運,皆須人力。以臣平強,兼以晨夜,尚不及事,今俟命漏刻,而當久停機職,使王事有廢。若朝廷以之廣恩,則憂責日重;以之序官,則官廢事弊;須臣差,則臣日月衰退。今以天慈,使官曠事滯,臣受偏私之宥,於大望亦有虧損。今萬國革面,賢俊比跡,而當虛停好爵,不以縻賢,以臣穢病之餘,妨官固職,誠非古今黜進之急。惟陛下割不已之仁,賜以敝帷,隕僕之日,得以藉屍;時銓俊乂,使官修事舉,臣免罪戮,死生厚幸!
因以疾免。尋除尚書右僕射,屢辭不聽,遂稱病篤,還第,不許。


私(紀瞻)が担当している仕事は、戸口租税の徴収ですから、国政に重要なことです。(抄訳しますが)大陸では戦乱が治まらず、人心は安居していません。平定軍をすぐにでも出すべきですが、病気の私には、この時期に大任が勤まりません。引退させて下さい」
紀瞻は病気を理由に、役職を解かれた。
尚書右僕射に任命されたが、紀瞻は受けなかった。ついに病気が悪化したといって、自宅に引っ込んだ。
だが司馬睿は、紀瞻を引退させなかった。

時郗鑒據鄒山,屢為石勒等所侵逼。瞻以鑒有將相之材,恐朝廷棄而不恤,上疏請征之,曰:「臣聞皇代之興,必有爪牙之佐,捍城之用,帝王之利器也。故虞舜舉十六相而南面垂拱。伏見前輔國將軍郗鑒,少立高操,體清望峻,文武之略,時之良幹。昔與戴若思同辟,推放荒地,所在孤特,眾無一旅,救援不至。然能綏集殘餘,據險曆載,遂使凶寇不敢南侵。但士眾單寡,無以立功,既統名州,又為常伯。若使鑒從容台闥,出內王命,必能盡抗直之規,補袞職之闕。自先朝以來,諸所授用,已有成比。戴若思以尚書為六州都督、征西將軍,複加常侍,劉隗鎮北,陳鎮東。以鑒年時,則與若思同;以資,則俱八坐。況鑒雅望清重,一代名器。聖朝以至公臨天下,惟平是與,是以臣寢頓陋巷,思盡聞見,惟開聖懷,垂問臣導,冀有毫釐萬分之一。」

郗鑒が鄒山を守護にしていたが、しばしば石勒らに侵逼された。
紀瞻は郗鑒に將相之才があるから、朝廷が郗鑒の能力にビビって助けないんじゃないかと、心配した。紀瞻は上疏した。
「皇帝の世が興るときは、必ず爪牙之佐があり、捍城之用があり、帝王之利器となります。
〈訳注〉君主を脅かしかねないくらい、有能な臣下を使いこなしてこそ、君主は成功することができるのだ。
むかし虞舜は、十六人の相を抱えて君臨しました。
私が見たところ、前ノ輔國將軍の郗鑒は、若くして高操を立て、清を体現して峻を望見しています。郗鑒の文武之略は、今の時代を支える良き根幹となるでしょう。
むかし戴若思は、今の郗鑒と同じように荒地の守備を任されました。兵を一旅団も付けてもらえず、朝廷からの急援も彼の手元に着きませんでした。しかし戴若思は、味方の残兵をかき集めて、凶寇の南侵を許しませんでした。しかし軍勢が少なすぎたので、功績を立てることが出来なかっただけです。戴若思はすでに正当に評価されて、名州(税収の多い州)を統べ、常伯となりました。 戴若思は尚書によって六州都督ととなり、征西將軍、さらに常侍を加えられました。
いま劉隗は北方を鎮護し、陳□□は東方を鎮護しています。今の郗鑒は、戴若思と同じ状況です。充分な軍勢を、郗鑒に与えて下さい。まして郗鑒は、雅望で清重、一代の名器ですよ(戴若思よりも厚遇されても良いくらいです)。どうかよろしく」
〈訳注〉戴若思は誰だ、郗鑒とは誰だ、という話で(笑)東晋に関する知識がないので、字面を追うだけで終わってしまう。

明帝嘗獨引瞻於廣室,慨然憂天下,曰:「社稷之臣,欲無複十人,如何?」因屈指曰:「君便其一。」瞻辭讓。帝曰:「方欲與君善語,複雲何崇謙讓邪!」瞻才兼文武,朝廷稱其忠亮雅正。俄轉領軍將軍,當時服其嚴毅。雖恆疾病,六軍敬憚之。瞻以久病,請去官,不聽,複加散騎常侍。及王敦之逆,帝使謂瞻曰:「卿雖病,但為朕臥護六軍,所益多矣。」乃賜布千匹。瞻不以歸家,分賞將士。賊平,複自表還家,帝不許,固辭不起。詔曰:「瞻忠亮雅正,識局經濟,屢以年耆病久,逡巡告誠。朕深明此操,重違高志,今聽所執,其以為驃騎將軍,常侍如故。服物制度,一按舊典。」遣使就拜,止家為府。尋卒,時年七十二。冊贈本官、開府儀同三司,諡曰穆,遣禦史持節監護喪事。論討王含功,追封華容子,降先爵二等,封次子一人亭侯。

明帝はかつて、ただ紀瞻1人だけを廣室で引見して、慨然と天下を憂いて言った。
「社稷之臣、複た十人を無きことを欲す、いかん?」
〈訳注〉正確な直訳じゃないが、明帝は「10人に絞ってカウントしてみようか」と言ったんだろうか。
明帝は指を折って言った。
「君(紀瞻)が其一だ」
紀瞻は畏れ多いと辞退した。
明帝が言った。
「私は、かたがた君に善語を与えたいと思っていたんだ。どうして畏れ多いなどと言って、社稷之臣という賛辞を辞退するんだ!」
紀瞻の才は文武を兼ね、朝廷は紀瞻の忠亮雅正を称えた。 紀瞻はにわかに領軍將軍に転じた。当時の人は、紀瞻の嚴毅に服した。
紀瞻は長く病気だったが、六軍は紀瞻を敬い憚かった。紀瞻は、長い病気を理由に引退を申し出たが、許されずに散騎常侍を加えられた。
王敦が叛逆すると、明帝は紀瞻に言った。
「卿(あなたは)は病気だが、朕のために病床からでも六軍を指揮してくれたから、国家にとっての利益が多いのになあ」
紀瞻は布千匹を賜った。紀瞻は帰宅しなかったから、受け取った布を將士に分配した。
王敦が平定されると、また帰宅を願い出たが許されなかった。
〈訳注〉紀瞻は実務が出来ない。人格を慕って引き止めたようだが、ウソだ。「江南の名士が東晋の味方だ」という政治アピールのために、長患いでも引退できないんだ。。
詔があった。
「紀瞻は忠亮雅正で、治世のやり方をよく知っている。長年病気だが、朕は紀瞻の操と志をとても認めている。だから紀瞻を驃騎將軍として、もとのまま常侍とせよ。紀瞻に与える服物は、舊典を参考にせよ」
使者を紀瞻に遣って着任させ、紀瞻の家を府にした。紀瞻は死んだとき、72歳だった。本官(驃騎将軍と常侍)が贈られ、開府儀同三司を加えられた。「穆」とおくり名され、禦史持節監護を遣わして、喪事を行なわせた。王含を討った功績を論じ、華容子爵に贈られた。紀瞻から二等の爵位を降ろして、紀瞻の次子の一人を亭侯に封じた。

瞻性靜默,少交遊,好讀書,或手自抄寫,凡所著述,詩賦箋表數十篇。兼解音樂,殆盡其妙。厚自奉養,立宅于烏衣巷,館宇崇麗,園池竹木,有足賞玩焉。慎行愛士,老而彌篤。尚書閔鴻、太常薛兼、廣川太守河南褚沈、給事中宣城章遼、曆陽太守沛國武嘏,並與瞻素疏,咸藉其高義,臨終托後於瞻。瞻悉營護其家,為起居宅,同於骨肉焉。少與陸機兄弟親善,及機被誅,贍恤其家周至,及嫁機女,資送同於所生。長子景早卒。景子友嗣,官至廷尉。景弟鑒,太子庶子、大將軍從事中郎,先瞻卒。

紀瞻の性格は静黙だった。幼いときから交遊し、読書を好んだ。また手ずから筆を執った。紀瞻の著述は、詩・賦・箋・表が數十篇もあった。兼ねて音樂を理解し、音楽の妙味をほぼ楽しみ尽くした。
厚く自養し、烏衣の巷に邸宅を立てた。館宇(建物)は崇麗で、園池竹木は、賞玩して楽しむのに充分だった。
紀瞻は行いを慎しみ、士を愛し、老いるとますます人を大切にした。尚書の閔鴻、太常の薛兼、廣川太守で河南出身の褚沈、給事中で宣城出身の章遼、曆陽太守で沛國出身の武嘏は、普段から紀瞻と交流があり、紀瞻の高義を評価していた。彼らが死ぬとき、遺族を紀瞻に託した。紀瞻は遺族の全員をしっかり保護してやり、居宅を立てて面倒をみることは、自分の親族と同じだった。
若いとき紀瞻は、陸機の兄弟と親善だった。陸機兄弟が誅せられると、陸氏の行く末を恤れんだ。紀瞻は陸機の娘を嫁がせ、陸機の生前と同じように仕送りをした。
紀瞻の長子である紀景は、早くに卒した。紀景の子である紀友が嗣ぎ、官位は廷尉までになった。紀景の弟は紀鑒で、太子庶子、大將軍從事中郎になったが、紀瞻より先に死んだ。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列38、呉の人たち
1)八王に愛想つきた顧榮
2)揚州人を司馬睿に推挙
3)統一への疑問、紀瞻伝
4)揚州から司馬睿への脅し
5)病人を引き止める東晋帝
6)西晋に距離を置く賀循
7)孫皓に首を挽かれたのは
8)恵帝を皇帝に数えるか
9)司馬睿のしがみつき
10)楊方と薛兼の列伝