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『晋書』列38、呉の人たち 7)孫皓に首を挽かれたのは
「賀循伝」の続きです。

元帝為安東將軍,複上循為吳國內史,與循言及吳時事,因問曰:「孫皓嘗燒鋸截一賀頭,是誰邪?」循未及言,帝悟曰:「是賀邵也。」循流涕曰:「先父遭遇無道,循創巨痛深,無以上答。」帝甚愧之,三日不出。東海王越命為參軍,征拜博士,並不起。
及帝遷鎮東大將軍,以軍司顧榮卒,引循代之。循稱疾篤,箋疏十餘上。帝遺之書曰:


司馬睿が安東將軍になると、ふたたび賀循を呉國内史に挙げた。司馬睿は、賀循と孫呉時代のことを話して諮問した。
「孫皓はかつて、焼いたノコギリで、1人の賀氏のアタマを切り落としたという。これは誰のことか?」
賀循がまだ何かを言う前に、司馬睿は悟った。
「ああ、賀邵(君の父)のことだった」
賀循は流涕して言った。
「先に父は無道に遭遇し、私は心に巨きな傷を負い、痛深しました。お答えすることはありません」
司馬睿は大いに愧じ、3日間外出を控えた。東海王の司馬越は、賀循を參軍に命じ、博士としたが、賀循はどちらにも応じなかった。
司馬睿が鎮東大將軍になると、軍司の顧榮が死んだから、賀循を代わりに据えた。賀循は病気が重いと言って、箋疏を十余ほど提出した。司馬睿はこれを読んで、書状を作った。
〈訳注〉司馬睿の文章が読めるなんて、すごくオトクな列伝だ。

夫百行不同,故出處道殊,因性而用,各任其真耳。當宇宙清泰,彝倫攸序,隨運所遇,動默在己。或有遐棲高蹈,輕舉絕俗,逍遙養和,恬神自足,斯蓋道隆人逸,勢使其然。若乃時運屯弊,主危國急,義士救時,驅馳拯世,燭之武乘縋以入秦,園綺彈冠而匡漢,豈非大雅君子卷舒合道乎!虛薄寡德,忝備近親,謬荷寵位,受任方鎮,餐服玄風,景羨高矩,常願棄結駟之軒軌,策柴篳而造門,徒有其懷,而無從賢之實者何?良以寇逆殷擾,諸夏分崩,皇居失禦,黎元荼毒,是以日夜憂懷,慷慨發憤,志在竭節耳。前者顧公臨朝,深賴高算。元凱既登,巢許獲逸。至於今日,所謂道之雲亡,邦國殄悴,群望顒顒,實在君侯。苟義之所在,豈得讓勞居逸!想達者亦一以貫之也。庶稟徽猷,以弘遠規。今上尚書,屈德為軍司,謹遣參軍沈禎銜命奉授,望必屈臨,以副傾遲。
循猶不起。

(まとめてしまうと)人はいろいろだから、仕官ばかりが正解じゃない。でも今は国家の危機だから、賀循さんには仕えてもらいたいなあ。參軍の沈禎を遣わすから、首を縦に振ってくれないか、と。
〈訳注〉訳そうとしても、ぼくの力量では、変な書き下し文にしかならないので逃げました。
賀循はそれでも着任しなかった。

及帝承制,複以為軍諮祭酒。循稱疾,敦逼不得已,乃轝疾至。帝親幸其舟,因諮以政道。循羸疾不拜謁,乃就加朝服,賜第一區,車馬床帳衣褥等物。循辭讓,一無所受。

司馬睿が承制すると、また賀循を軍諮祭酒に迎えようとした。だが賀循は病気だと言って辞退した。司馬睿は舟に乗って賀循を訪問し、政道を諮った。賀循は、病気がひどいと言って拝謁しなかった。
司馬睿は賀循に朝服を加え、第一區を賜り、車馬・床帳・衣褥らを与えた。だが賀循は辞退して、全く受け取らなかった。

廷尉張闓住在小市,將奪左右近宅以廣其居,乃私作都門,早閉晏開,人多患之,論於州府,皆不見省。會循出,至破岡,連名詣循質之。循曰:「見張廷尉,當為言及之。」闓聞而遽毀其門,詣循致謝。其為世所敬服如此。

廷尉の張闓は、小さな城市に住んでいた。左右の近所から土地を奪い、自分の家を広げようとした。勝手に都門を作り、早朝に閉めたり、暗くなってから開いたりして、大いに迷惑した。人々は張闓を州府に訴えたが、役人に会うことができない。たまたま賀循が外出して、破岡(地名)にいた。人々は名を連ねて賀循に面会し、訴えた。
賀循は言った。
「張廷尉に私が会って、注意してやろう」
張闓はこれを聞いて門を壊し、賀循に謝罪した。賀循が世間から敬服されたのは、このエピソードが示すとおりだ。

時江東草創,盜賊多有,帝思所以防之,以問於循。循答曰:「江道萬里,通涉五州,朝貢商旅之所來往也。今議者欲出宣城以鎮江渚,或使諸縣領兵。愚謂令長威弱,而兼才難備,發憚役之人,而禦之不肅,恐未必為用。以循所聞,江中劇地惟有闔廬一處,地勢險奧,亡逃所聚。特宜以重兵備戍,隨勢討除,絕其根帶。沿江諸縣各有分界,分界之內,官長所任,自可度土分力,多置亭行,恆使徼行,峻其綱目,嚴其刑賞,使越常科,勤則有殊榮之報,墮則有一身之罪,謂於大理不得不肅。所給人以時番休,役不至困,代易有期。案漢制十裏一亭,亦以防禁切密故也。當今縱不能爾,要宜籌量,使力足相周。若寇劫強多,不能獨制者,可指其縱跡,言所在都督尋當致討。今不明部分,使所在百姓與軍家雜其徼備,兩情俱墮,莫適任負,故所以徒有備名而不能為益者也。」帝從之。

江東に(東晋を)草創したとき、盜賊が多かった。司馬睿は盗賊を防ぎたいと思ったから、賀循に問うた。
賀循は答えた。
「長江の水運は萬里、五州に通じています。朝貢や商旅が行きかうルートです。対策を練っている役人たちは、宣城の兵を動員して江渚を見張れとか、諸県の兵を使えとか言っています。ドアホな役人連中の提案を聞いても、結果が出るはずありません。
私が聞くところによれば、長江で盗賊がひどい場所は、ただ闔廬(地名)だけです。闔廬の地勢は險奧で、盗賊が逃げ隠れする場所が多くあります。闔廬に重兵を配備して、根絶やしにすれば、盗賊はいなくなるでしょう。沿江にある諸縣には境界があります。境界の内側の治安は、担当の役人に任せなさい。亭行(支所)を多く設置し、法律と刑罰をきちんと行なえば、効率よく治まるでしょう(強引に抄訳)」
司馬睿は、賀循の意見を採用した。

及湣帝即位,征為宗正,元帝在鎮,又表為侍中,道險不行。以討華軼功,將封鄉侯,循自以臥疾私門,固讓不受。建武初,為中書令,加散騎常侍,又以老疾固辭。帝下令曰:「孤以寡德,忝當大位,若涉巨川,罔知所憑。循言行以禮,乃時之望,俗之表也。實賴其謀猷,以康萬機。疾患有素,猶望臥相規輔,而固守捴謙,自陳懇至,此賢履信思順,苟以讓為高者也。今從其所執。」於是改拜太常,常侍如故。循以九卿舊不加官,今又疾患,不宜兼處此職,惟拜太常而已。

湣帝が即位すると、賀循は宗正となった。司馬睿が出鎮すると、上表して賀循を侍中としたが、長安への道が険しいから着任しなかった。華軼を討った功績により、鄉侯に封じられることになったが、賀循は自宅で病気で臥し、固辞して受けなかった。
建武初、中書令となり、散騎常侍を加えられたが、老いて体調が悪いから固辞した。
司馬睿は令を下した。
「私は徳が少ないが、忝くも大位に当たっている。巨川(長江)を渡ってみたものの、人に知られていない。賀循の礼ある言行をする人だから、現代のホープ、民衆のスターである。私は賀循の謀猷を頼り、萬機を康んじたいものだ。賀循はずっと病気だが、ベッドの上でいいから私と面会して、助けてもらいたい。賀循が出てきてくれないから、私が直接お願いしている。賢人で信用でき、思想の正しい人なのに、謙譲して位を辞退するのは、大人物である。賀循の言うことなら聞くのになあ」
この令により、賀循は改めて太常を拝し、常侍であることは元のままだった。賀循が、九卿には旧来は加官しないものだし、疾患でもあるから、常侍との兼務を受けなかった。ただ太常だけを拝した(常侍を辞めた)。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列38、呉の人たち
1)八王に愛想つきた顧榮
2)揚州人を司馬睿に推挙
3)統一への疑問、紀瞻伝
4)揚州から司馬睿への脅し
5)病人を引き止める東晋帝
6)西晋に距離を置く賀循
7)孫皓に首を挽かれたのは
8)恵帝を皇帝に数えるか
9)司馬睿のしがみつき
10)楊方と薛兼の列伝