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『晋書』列38、呉の人たち 8)恵帝を皇帝に数えるか
さらに「賀循伝」の続きです。

時宗廟始建,舊儀多闕,或以惠懷二帝應各為世,則潁川世數過七,宜在迭毀。事下太常。循議以為:
禮,兄弟不相為後,不得以承代為世。殷之盤庚不序陽甲,漢之光武不繼成帝,別立廟寢,使臣下祭之,此前代之明典,而承繼之著義也。惠帝無後,懷帝承統,弟不後兄,則懷帝自上繼世祖,不繼惠帝,當同殷之陽甲,漢之成帝。議者以聖德沖遠,未便改舊。諸如此禮,通所未論。是以惠帝尚在太廟,而懷帝複人,數則盈八。盈八之理,由惠帝不出,非上祖宜遷也。下世既升,上世乃遷,遷毀對代,不得相通,未有下升一世而上毀二世者也。


懐帝(司馬熾)の宗廟を建設し始めるとき、旧来からの儀礼が多いに欠損した。恵帝(司馬衷)と懐帝(司馬熾)は兄弟で皇帝になったから、潁川郡にある8代前の廟を迭毀することになった。
〈訳注〉7代までしか遡って祭らないというルールがあるようだ。家長が新しく死んだら、トコロテン式に8代前の廟が遷される。賀循は「盈八之理(8を満たしたときの理屈)」と言っている。
太常に下問があった。賀循が回答をした。
礼によれば、兄弟で帝位を相続しないものです。殷の盤庚は陽甲を継がず、漢の光武帝は成帝を継がず、別に廟寢を立てて、臣下に祭らせました。これは前代の明典で、ずっと受け継がれるべき著義です。惠帝には皇子がおらず、(弟の)懷帝が承統しました。弟は兄を継がないものですから、懷帝は世祖(司馬炎)を継いだのであって、惠帝(司馬衷)を継いだのではありません。
〈訳注〉これは廟を作るときの話だが、ぼくが八王の乱を「司馬炎の後継争いの再燃」と捉えたことと、たまたま符合した。司馬衷は、「司馬遹への中継ぎ」という意味でのみ2代皇帝の資格があり、司馬衷が殺されてしまって、その根拠がなくなった。だから司馬倫は「簒奪」した。結果は司馬熾が勝ち、歴史家には「3代皇帝」と言われつつ、実質は「2人目の2代皇帝」だったと、ぼくは思う。
聖德は沖遠なので、勝手にルールを変えてはいけません。この礼のルールが破る話など聞きません。 これは殷の陽甲や、漢の成帝と同じパタンです。
惠帝はすでに太廟に祭られているので、懷帝をカウントすると、世代は8に達してしまいます。盈八之理に照らして、惠帝を皇帝とカウントしなければ、上祖(初代)を遷す必要はありません。下の世代が1つ増えたら、上の世代を遷して、廟数の7をキープするのです。下の1世代で(兄弟を2代とカウントし)、上の世代の2廟を毀すなんて、ありえません。

惠懷二帝俱繼世祖,兄弟旁親,同為一世,而上毀二為一世。今以惠帝之崩已毀豫章,懷帝之入複毀潁川,如此則一世再遷,祖位橫析。求之古義,未見此例。惠帝宜出,尚未輕論,況可輕毀一祖而無義例乎?潁川既無可毀之理,則見神之數居然自八,此盡有由而然,非謂數之常也。既有八神,則不得不於七室之外權安一位也。至尊于惠懷俱是兄弟,自上後世祖,不繼二帝,則二帝之神行應別出,不為廟中恆有八室也。又武帝初成太廟時,正神止七,而楊元後之神亦權立一室。永熙元年,告世祖諡於太廟八室,此是苟有八神,不拘於七之舊例也。

恵帝と懐帝は、ともに世祖(司馬炎)を継いだのであり、同じ世代と見なすべきです。惠帝が死んだときに豫章の廟を毀し、懷帝が死んだときに潁川の廟を毀しました。このように一世代で、祖先2代の廟を遷してしまうのは、古義に前例がないことです。恵帝をカウントから除外するべきです。この8代ルールは、軽んじられたことがありません。まして、一祖の廟を毀して義例を無くすことが軽んじられていいのでしょうか。
(懐帝の死をトリガーにして)潁川の廟を毀す道理はありません。(恵帝と懐帝のダブルカウントにより)8代前の廟に思われがちですが、(実質は7代前なので)毀すさずに残しておくべきです。八神が祭られていても、ルール違反ではありません。
恵帝と懐帝は兄弟で、どちらも至尊な皇帝ですが、世祖(司馬炎)を二帝が継いだというのは変です。だから、二帝の神(霊)は別に祭って、廟中につねに八室がある状況を作らないで下さい。
また武帝(司馬炎)の太廟を作ったとき、祭る霊を7人に留めるため、楊元后の霊のために別に一室を立てました。永熙元(290)年に(司馬炎が死んで)世祖と諡号され、太廟に八室があることになりました。まるで八神があるように見えますが、これは七の旧例には抵触しないのです。
〈訳注〉なぜ?皇后の霊だからカウントせず?

又議者以景帝俱已在廟,則惠懷一例。景帝盛德元功,王基之本,義著祖宗,百世不毀,故所以特在本廟,且亦世代尚近,數得相容,安神而已,無逼上祖,如王氏昭穆既滿,終應別廟也。
以今方之,既輕重義異,又七廟七世之親;昭穆,父子位也。若當兄弟旁滿,輒毀上祖,則祖位空懸,世數不足,何取於三昭三穆與太祖之廟然後成七哉!今七廟之義,出於王氏。從禰以上至於高祖,親廟四世,高祖以上複有五世六世無服之祖,故為三昭三穆並太祖而七也。故世祖郊定廟禮,京兆、潁川會、高之親,豫章五世,征西六世,以應此義。今至尊繼統,亦宜有五六世之祖,豫章六世,潁川五世,俱不應毀。今既雲豫章先毀,又當重毀潁川,此為廟中之親惟從高祖已下,無複高祖以上二世之祖,于王氏之義,三昭三穆廢闕其二,其非宗廟之本所據承,又違世祖祭征西、豫章之意,于一王定禮所闕不少。


(賀循の回答は続いています)
景帝(司馬師)と文帝(司馬昭)の兄弟はどちらも廟があり、恵帝(司馬衷)と懐帝(司馬熾)のパタンと同じじゃないか?と言う意見があります。景帝(司馬師)は、德を盛んにして元功があり、王基之本となった人です。司馬師の義は祖宗に著し、百世経っても廟を毀してはいけません。ですから、特別に本廟があるのです。
〈訳注〉司馬師はいい仕事をしたが、司馬衷はろくな仕事をしていない。遠まわしに、賀循は司馬衷をこき下ろしています(笑)司馬睿を相手に、よく言ったなあ。
かつ司馬師は世代が今に近く、トコロテン式に押し出されるほど昔の人ではありません。ただ霊を安んじているだけです。司馬師によってカウントが増え、上祖を押しやることがないのは、王氏昭穆が8代前になったときに別廟を立てて対応した(廟を除かなかった)のと同じです」
〈訳注〉ぼくの訳が悪いのか、賀循が苦しい言い訳をしているのか、どうにも理屈が通りません。世代が近さなら、司馬衷の方がもっと有利なはず。世代のカウントを増やしてしまうのは、司馬師だろうが司馬衷だろうが同じだ。うーん。
(これ以降は、礼を出典にして、7代廟のカウント方法に関する故事が書かれています。よく分からないので省略します。故事を持ち出してまで主張した賀循の結論は、「頴川の廟を毀すな」です)
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このコンテンツの目次
>『晋書』列38、呉の人たち
1)八王に愛想つきた顧榮
2)揚州人を司馬睿に推挙
3)統一への疑問、紀瞻伝
4)揚州から司馬睿への脅し
5)病人を引き止める東晋帝
6)西晋に距離を置く賀循
7)孫皓に首を挽かれたのは
8)恵帝を皇帝に数えるか
9)司馬睿のしがみつき
10)楊方と薛兼の列伝