表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

095年・096年、陰皇后がたつ

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

095年、胡族を討った、硃徽と杜崇が獄死

孝和皇帝下永元七年(乙未,公元九五年)
春,正月,鄧鴻等軍還,馮柱將虎牙營留屯五原。鴻坐逗留失利,下獄死。後帝知 硃徽、杜崇失胡和,又禁其上書,以致胡反,皆征下獄死。夏,四月,辛亥朔,日有食 之。
秋,七月,乙巳,易陽地裂。 九月,癸卯,京師地震。 樂成王黨坐賊殺人,削東光、鄡二縣。

095年春正月、鄧鴻らは軍をかえす。馮柱は、虎牙營をひきい、五原にのこる。鄧鴻は、遠征に失敗したので、獄死した。のちに和帝は、硃徽と杜崇が、胡族との和平を失したと知る。和帝は、硃徽と杜崇に上書を禁じた。胡族が反したので、硃徽と杜崇は獄死した。
095年夏4月、辛亥ついたち、日食した。
095年秋7月乙巳、易陽(趙国)で地が裂けた。9月癸卯、京師で地震あり。樂成王の劉黨は、賊の殺人の罪で、東光(渤海)、鄡県(鉅鹿)の2県を削られた。

胡三省が、事件の経緯を記すが、興味が出てからやる。


096年、南匈奴を砕き、北地と安定に移住させる

   孝和皇帝下永元八年(丙申,公元九六年) 春,二月,立貴人陰氏為皇後。後,識之曾孫也。
夏,四月,癸亥,樂成靖王黨薨。子哀王崇立,尋薨,無子,國除。 五月,河內、陳留蝗。 南匈奴右溫禺犢王烏居戰畔出塞。
秋,七月,度遼將軍龐奮、越騎校尉馮柱追擊破 之,徙其餘眾及諸降胡二萬餘人於安定、北地。 東師後部王涿鞮反,擊前王尉畢大,獲其妻子。 九月,京師蝗。

096年春2月、貴人の陰氏を、皇后とした。陰皇后は、陰識の曾孫だ。

ぼくは思う。後漢の外戚は、建国の功臣。列伝、読まねば。

096年夏4月癸亥、樂成靖王の劉黨が薨じた。子の哀王・劉崇が立つ。劉崇が死に、子なく、國は除かる。 5月、河內と陳留でイナゴ。 南匈奴の右溫禺犢王・烏居戰が、出塞した。

秋,七月,度遼將軍龐奮、越騎校尉馮柱追擊破 之,徙其餘眾及諸降胡二萬餘人於安定、北地。 東師後部王涿鞮反,擊前王尉畢大,獲其妻子。 九月,京師蝗。

096年秋7月、度遼將軍の龐奮と、越騎校尉の馮柱は、南匈奴を追って、撃破した。南匈奴の餘衆と、くだった降胡の2万餘人を、安定と北地にうつした。
東師後部王の涿鞮が反した。前王尉の畢大を撃ち、前王の妻子を捕えた。 9月、京師でイナゴ。

冬,十月,乙丑,北海王威以非敬王子,又坐誹謗,自殺。 十二月,辛亥,陳敬王羨薨。 丁巳,南宮宣室殿火。
護羌校尉貫友卒,以漢陽太守史充代之。充至,遂發湟中羌、胡出塞擊迷唐。迷唐 迎敗充兵,殺數百人。充坐征,以代郡太守吳祉代之。

096年冬10月乙丑、北海王の劉威は、敬王の子でないから、誹謗されて自殺した。12月辛亥、陳敬王の劉羨が薨じた。 10月丁巳、南宮の宣室殿が出火した。
護羌校尉の貫友が卒した。漢陽太守の史充を、護羌校尉とした。史充は着任すると、湟中羌、胡をつれて、迷唐を攻めた。迷唐に負け、数百人を殺された。代郡太守の吳祉を、護羌校尉にした。101227

ぼくは思う。迷唐は、頻出する。詳しく見なければ。