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165年春、鄧皇后と宦官の五侯が消滅

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

165年正月、渤海王・劉悝の謀反

孝桓皇帝中延熹八年(乙巳,公元一六五年) 春,正月,帝遣中常侍左心官之苦縣祠老子。
勃海王悝,素行險僻,多僭傲不法。北軍中候陳留史弼上封事曰:「臣聞帝王之於 親戚,愛雖隆必示之以威,體雖貴必禁之以度,如是,和睦之道興,骨肉之恩遂矣。竊 聞勃海王悝,外聚剽輕不逞之徒,內荒酒樂,出入無常,所與群居,皆家之棄子,朝之 斥臣,必有羊勝、伍被之變。州司不敢彈糾,傅相不能匡輔,陛下隆於友於,不忍遏絕, 恐遂滋蔓,為害彌大。乞露臣奏,宣示百僚,平處其法。法決罪定,乃下不忍之詔;臣 下固執,然後少有所許。如是,則聖朝無傷親之譏,勃海有享國之慶。不然,懼大獄將 興矣。」上不聽。悝果謀為不道;有司請廢之,詔貶為癭陶王,食一縣。
丙申晦,日有食之。詔公、卿、校尉舉賢良方正。 千秋萬歲殿火。

165年春正月、桓帝は、中常侍の左悺に、苦縣にゆき老子を祭らせた。

李賢はいう。『史記』はいう。老子は、楚の苦県の人だ。苦県は、陳国に属する。
ぼくは思う。陳国まで、楚の領域だったのか。陳国は、寿春にいる袁術が、攻めて王を殺した国。南方からのアクセスが、良かったのだろう。

渤海王の劉悝は、素行が險僻だ。おおく法をおかした。北軍中候する陳留の史弼は、上封した。「渤海王の劉悝は、桓帝の弟です。しかし、外では、剽輕不逞の徒を集める。うちでは、酒樂に荒れている。いま懲らしめて、大きな失敗を防ぎなさい」と。桓帝は許さず。
果たして劉悝は、不道をなした。有司は、劉悝を廃したい。だが桓帝は、劉悝を癭陶王とした。1縣を食ませた。

胡三省はいう。『帝紀』では、謀反をなしたとある。李賢はいう。癭陶県は、鉅鹿郡に属す。ぼくは補う。渤海から、遠くない。おなじ冀州だ。

正月丙申みそか、日食した。公、卿、校尉に、賢良方正な人材を、を挙げさせた。千秋萬歲殿が、出火した。

五侯と鄧皇后が位を去り、159年体制が終わる

中常侍侯覽兄參為益州刺史,殘暴貪婪,累臧億計。太尉楊秉奏檻車征參,參於道 自殺,閱其車重三百餘兩,皆金銀錦帛。秉因奏曰:「臣案舊典,宦官本在給使省闥, 司昏守夜;而今猥受過寵,執政操權,附會者因公褒舉,違忤者求事中傷,居法王公, 富擬國家,飲食極餚膳,僕妾盈紈素。中常侍侯覽弟參,貪殘元惡,自取禍滅。覽顧知 釁重,必有自疑之意,臣愚以為不宜復見親近。昔懿公刑邴蜀阜之父,奪閻職之妻,而 使二人參乘,卒有竹中之難。覽宜急屏斥,投畀有虎,若斯之人,非恩所宥,請免官送 歸本郡。」

中常侍する侯覧の兄は、侯参だ。侯参は、益州刺史になった。侯参は、殘暴で貪婪だ。ワイロは億を数えた。太尉の楊秉は、「侯参を、檻車で召しだせ」と上奏した。侯参は、道中で自殺した。3百余両の車には、金銀錦帛がぎっしり。楊秉は上奏した。「もともと宦官は、宮廷の給仕をするものです。いま宦官は、権限と財産を持ちすぎだ。侯覧の兄は自滅したが、宦官の親族を、公職から免ずべきだ」と。

書奏,尚書召對秉掾屬,詰之曰:「設官分職,各有司存。三公統外,御史 察內。今越奏近官,經典、漢制,何所依據?其開公具對!」秉使對曰:「《春秋傳》 曰:『除君之惡,唯力是視。』鄧通懈慢,申屠嘉召通詰責,文帝從而請之。漢世故事, 三公之職,無所不統。尚書不能詰,帝不得已,竟免覽官。

楊秉の上奏が、尚書に届いた。尚書は、楊秉の掾属をなじった。「官吏の人事は、三公の管轄でない。これが漢室のルールだ。楊秉は、なにを根拠に、人事に口を出すのか。説明してみろ」と。楊秉は答えた。「『左伝』は言う。君主の悪を除くには、ただ視ることを努めよと。前漢の文帝は、三公にしたがい、人事を異動させた。漢室のルールで、三公はすべてを管轄する」と。

胡三省はいう。『資治通鑑』15巻、文帝の後2年にある。

尚書も桓帝も、楊秉に言い負けた。桓帝は、侯覧をクビにした。

司隸校尉韓縯因奏左心官罪 惡,及其兄太僕南鄉侯稱請托州郡,聚斂為奸,賓客放縱,侵犯吏民。心官、稱皆自殺。 又奏中常侍具瑗兄沛相恭臧罪,征詣廷尉。瑗詣獄謝,上還東武侯印綬,詔貶為都鄉侯。 超及璜、衡襲封者,並降為鄉侯,子弟分封者,悉奪爵土。劉普等貶為關內侯,尹勳等 亦皆奪爵。

司隸校尉の韓縯は、左悺とその兄をせめた。左悺とその兄は、自殺した。中常侍する具瑗の兄は、沛相だ。兄がワイロしたので、具瑗は東武侯の印綬を返し、都郷侯になった。単超と徐璜と唐衡をついだ人は、みな県侯から郷侯におちた。子弟の封地は奪われた。劉普らは、關內侯におちた。尹勳らは、爵位を奪われた。

『考異』はいう。楊秉伝はいう。桓帝が南をめぐった翌年、楊秉が侯覧を弾劾したと。これは165年のことだ。宦官伝はいう。韓縯が具瑗をせめ、具瑗は国をうばわれて、郷侯となったと。楊秉伝とおなじとき、具瑗が国を削られた。袁宏は、164年とするが、従わない。
ぼくは思う。「梁冀を倒した、桓帝政権」は、もう停止した。5年くらいしか、もたなかった。ただし、ぼくにとって残念なことに、梁冀派の復活とも言えない。楊秉は、梁冀のとき、何をしてたか。梁冀が執政した6年、楊秉は病を称した。桓帝が、梁胤(梁冀の子)の府に遊びに行ったとき、諌めた。楊秉は梁冀と、密着したのではない。
楊秉は、楊震に始まる家だ。独自の気骨をもって、朝廷にいたようです。袁氏と急接近する展開は、とても気になりますが。接近は、165年に楊秉が死んだ後かな。


帝多內寵,宮女至五六千人,及驅役從使復兼倍於此,而鄧後恃尊驕忌,與帝所幸 郭貴人更相譖訴。癸亥,廢皇後鄧氏,送暴室,以憂死。河南尹鄧萬世、虎賁中郎將鄧 會皆下獄誅。
護羌校尉段熲擊罕姐羌,破之。

桓帝は妻がおおい。宮女が、5、6千人いる。その部下は、さらに倍いる。ただ鄧皇后は、血筋が尊いから、驕忌だ。桓帝が愛する郭貴人を、譖訴した。正月癸亥、鄧皇后を廃した。鄧皇后は、暴室で憂死した。

胡三省はいう。『漢官儀』はいう。暴室は、エキ庭の内にある。丞が1人。宮中の婦人のうち、疾病した人の面倒をみる。皇后や貴人で、罪がある人は、暴室におかれた。
ぼくは補う。どこかで読んだ。べつに「あばれる」部屋でない。「暴力」の部屋でもない。外気に「さらす」部屋なんだって。だから、病気も治るのだろう。

河南尹の鄧萬世と、虎賁中郎將の鄧 會は、獄で誅殺された。

ぼくは思う。外戚だから、鄧皇后に連座したのだ。鄧皇后の廃止について、「桓帝の寵愛が衰えたので」というと、妙に納得してしまうが。これで説明が充分だろうか。
もともと鄧皇后は、梁冀を殺した成果として、梁皇后の代わりに皇后になった。「梁冀を倒して、桓帝は嬉しいね」政権が、いま傾いている。宦官の五侯から、爵位を取り上げたり。皇后の廃止は、おなじ文脈だろう。
五侯の宦官が死んで、桓帝は心細くなったか。で、つぎに台頭してくるのは、誰か。続きを読まねば、分からない。行き当たりばったり!

護羌校尉の段熲は、罕姐羌を破った。

165年3月、李膺と馮緄と劉祐に、宦官が逆襲

三月,辛巳,赦天下。
宛陵大姓羊元群罷北海郡,臧污狼籍;郡捨溷軒有奇巧,亦載之以歸。河南尹李膺 表按其罪;元群行賂宦官,膺竟反坐。

165年3月辛巳、天下を赦した。
宛陵の大姓・羊元群は、北海郡の任期がおわった。任期のとき、ワイロした。羊元群は、北海郡の役所についた装飾をうばい、車にのせて故郷にかえった。河南尹の李膺は、羊元群の罪をあげた。

胡三省はいう。宛陵県は、河南尹に属す。ぼくは補う。羊元群が帰郷すると、李膺の管轄に入る。だから李膺は、羊元群を罰した。

羊元群は、宦官にワイロした。羊元群は、罪をうけない。李膺は、羊元群の返り討ちにあい、かえって李膺が罪をうけた。

單超弟遷為山陽太守,以罪系獄,廷尉馮緄考致 其死;中官相黨,共飛章誣緄以罪。
中常侍蘇康、管霸,固天下良田美業,州郡不敢詰, 大司農劉祐移書所在,依科品沒入之;帝大怒,與膺、緄俱輸作左校。

単超の弟は、単遷である。単遷は、山陽太守になった。単遷は罪をおかし、獄につながれた。廷尉の馮緄は、単遷を殺した。宦官は、馮緄の罪をでっちあげた。
中常侍の蘇康と管霸は、生産基盤をもつ。州郡は、あえて生産基盤をとがめず。大司農の劉祐は、生産基盤を没収した。桓帝は怒った。劉祐を、李膺や馮緄とともに、輸作左校した。

2年後の167年に桓帝が死ぬ(ネタバレ)。桓帝が死ぬまでは、桓帝と宦官は、劣勢に立ちながらも、いちおう主導権をもつ。桓帝と宦官を批判する勢力は、しばらく冬の時代である。李膺、馮緄、劉祐。要チェック。


後半は、陳蕃をリーダーにした勢力に、桓帝が押されます。桓帝の最初の敵は、梁冀でした。桓帝の最後の敵は、陳蕃で決定です。