165年夏~、陳蕃が桓帝に攻勢する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
165年夏、楊秉の死、劉瑜の主張
五月,丙戌,太尉楊秉薨。秉為人,清白寡慾,嘗稱「我有三不惑:酒、色、財 也。」
165年夏4月甲寅、安陵(恵帝の陵)園寢が出火した。4月丁巳、桓帝は詔して、郡國の淫祀を壊させた。ただし雒陽の王渙と、密縣の卓茂の祠だけは、残された。
5月丙戌、太尉の楊秉が薨じた。楊秉の人となりは、清白寡慾だ。かつて楊秉は言った。「私に、以下の3つに惑わない。酒、色、財には」と。
詔特召瑜問災咎之征。執政者欲令瑜依違其辭,乃更策以它事,瑜復悉心對八千餘言, 有切於前,拜為議郎。
楊秉が死んだ。楊秉が賢良にあげた、廣陵の劉瑜は、京師にきた。劉瑜は上言した。「宦官が爵位を継ぎ、土地を奪いあう。宮廷の女官が、ムダ飯を食らう。宦官と女官のせいで、民衆は飢えている」と。
桓帝は、とくに劉祐を召して、災咎について質問した。執政する人は、劉瑜に意見を変えさせたい。しかし劉瑜は、何をきいても、意見を変えない。桓帝に、8千余言をしゃべった。劉瑜は、議郎となった。
ぼくは思う。劉瑜が、桓帝を批判したくせに、議郎になった理由が気になる。劉瑜伝を読めば、分かるだろうか。
165年夏、度尚が荊州の賊を、交趾の賊と偽る
荊州の兵・硃蓋らがそむく。硃蓋は、桂陽の賊・胡蘭らと、ふたたび桂陽を攻めた。桂陽太守の任胤は、城を棄てて逃げた。賊は数万にふくらみ、零陵を攻めた。零陵太守は、下邳の陳球だ。陳球は、城を固守した。
零陵の城は、もろい。掾史は、陳球に言った。「家族を、避難させましょう」と。陳球は怒った。「太守たる者が、妻を気にして、国威をキズつけるか。また避難せよと言えば、斬る」と。陳球は、弩をつくって攻めたが、10余日しても勝てない。
ときに度尚は、京師にいた。桓帝は、度尚を中郎将とし、歩騎2万をつけて、陳球を救わせた。度尚は賊を破った。桂陽の賊・胡蘭ら、3千余級を斬った。度尚は、ふたたび荊州刺史となる。
蒼梧太守の張敘は、賊に捕らえられた。張敘も、桂陽太守の任胤も、棄市された。賊の余党が、蒼梧にゆく。交趾刺史の張磐は、賊を撃った。賊は引き返して、荊州の境界に入った。度尚は、賊の進入が、自分の責任になるのを懼れた。度尚は、ウソの上言をした。「蒼梧の賊が、荊州に入ってきた」と。交趾刺史の張磐は、罪をうけて、廷尉にわたされた。
ところで、荊州の賊が荊州にふたたび入ると、どんな罪になるんだろう? 類例があるのだろうか。討ち漏らしたことが、バレるからヤバいのか。そんなことを言ったら、南方の不服従民を「全滅」させる以外に、罪を免れる方法がない。非現実的だ。
判決がくだる前に、張磐は大赦で出獄できる。
だが張磐は、出獄しない。張磐は、理由を答えた。「これは冤罪だ。度尚を罰して、ほんとうの罪人を明らかにしてくれ」と。
廷尉は、張磐の発言を、報告した。桓帝は、度尚を廷尉にひきわたす。度尚は弁明できず、罪をうけた。だが度尚は、功績があるから、ゆるされた。
165年閏月甲午、南宮の朔平署が出火した。
段熲は、西羌を破った。山谷に、分け入った。春から秋まで、毎日戦った。2万3千級を斬首した。数万人を生け捕った。1万余の集落がくだる。段熲を、都鄉侯に封じた。
165年秋、南都・南陽で、豪族を弾圧するな
165年秋7月、太史大夫の陳蕃を太尉とした。陳蕃は、太常の胡廣や、議郎の王暢に、太尉を譲りたい。陳蕃は、李膺の刑をゆるめたい。桓帝は、どちらもゆるさず。
王暢は、王龔(安帝の三公)の子だ。かつて王暢は、南陽太守をした。南陽には、貴戚や豪族がおおい。王龔は、貴戚や豪族を弾圧した。生産手段を破壊した。功曹の張敞は、王暢を諌めた。「南陽は、光武帝の陵墓がある。新野には、光武帝の烈皇后、和帝の陰皇后、和帝の鄧皇后の陵墓がある。後漢を建国した、大姓がいる。大姓を弾圧するのは、よくない」と。王暢は、寬政に切り替えた。
165年8月戊辰、はじめて郡國の田地の畝に、税金をかけた。
165年9月丁未、京師は地震した。
165年冬、陳蕃が、竇皇后をたてる
165年冬10月、司空の周景をやめた。太常の劉茂を司空とした。劉茂は、劉愷の子だ。
郎中の竇武は、竇融の玄孫だ。竇融の娘は、貴人だ。采女の田聖は、桓帝に寵愛される。桓帝は、田聖を皇后にしたい。司隷校尉の應奉が上書した。「前漢の哀帝は、身分の低い飛燕を皇后にして、胤嗣がたえた。五禁をおかしてはいけない」と。
太尉の陳蕃も、いやしい田聖でなく、良家の竇氏を皇后にすすめた。桓帝は、劉茂と陳蕃に、逆らえず。10月辛巳、竇貴人を皇后にした。竇武を、特進、城門校尉として、槐裡侯に封じた。
165年冬、出獄した李膺が、張朔を殺す
165年11月壬子、黃門北寺が出火した。
しばしば陳蕃は、涙すら流して言った。「李膺、馮緄、劉祐は、冤罪だ。ゆるせ」と。桓帝は、赦さない。
應奉は、上疏した。「馮緄は、武陵蛮と長沙蛮を、順帝のときに討った。劉祐は、梁冀の弟・梁旻を、司隷校尉として牽制した。李膺は、漁陽太守や烏桓校尉として、幽州や并州で愛された。3人を許しなさい」と。桓帝は、3人の刑を免じた。
自此諸黃門、常侍皆鞠躬屏氣,休沐不敢出宮省。帝怪問其 故,並叩頭泣曰:「畏李校尉。」時朝廷日亂,綱紀頹弛,而膺獨特風裁,以聲名自高, 士有被其容接者,名為登龍門雲。
のちに李膺は、ふたたび司隷校尉となった。ときに小黃門する張讓の弟は、張朔だ。張朔は、野王令だ。張朔は貪殘無道したから、李膺の威厳をおそれ、京師にもどった。張朔は、張讓の家の柱にかくれた。李膺は柱を壊し、張朔を殺した。桓帝は、李膺の意図を、問い詰めた。李膺は答えた。「孔子は、着任して7日で、罪を裁きました。私は司隷校尉になって10日も、張朔を捕えなかった。悔やむなら、遅すぎたことです」と。桓帝は、李膺に言い負けた。
これより宦官は、大人しい。桓帝が理由を問うた。宦官は、叩頭して泣いた。「李校尉を畏れます」と。李膺の名声は、高まった。李膺に会えたら、「登竜門」と言った。
東海相の劉寬は、尚書令となる。劉寬は、劉崎の子だ。
劉寛は3つの郡を治めた。皮のムチでなく、蒲のムチをつかった。苦しみを加えない。父老に会えば、劉寛は農里の話をした。少年と会えば、孝悌を教えた。人は、劉寛の教化を悦んだ。101207
李賢はいう。劉寛は、東海王・劉彊の曾孫である、劉シンの相となった。劉寛伝を見ると。この年に東海相から、尚書令になった。南陽太守に遷った。だから3郡を治めたと言うのだ。
ぼくは思う。東海と南陽と、あと1つはどこ?