173-176年、霊帝の宦官が安定支配
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
173年、宦官の子弟で三公まわりもち
夏,五月,以司隸校尉段熲為太尉。 六月,北海地震。
173年春正月、大疫あり。正月
丁丑、司空の宗俱が薨じた。2月壬午、天下を赦した。光祿勳の楊賜を、司空とした。3月、太尉の李鹹をやめた。
173年夏5月、司隸校尉の段熲を、太尉とした。6月、北海で地震した。
鮮卑寇幽、並二州。 癸酉晦,日有食之。
173年秋7月、司空の楊賜をやめた。太常する穎川の唐珍を、司空とした。唐珍は、唐衡の弟だ。
173年冬12月、太尉の段熲をやめた。鮮卑は、幽州と并州を寇した。12月癸酉みそか、日食した。
174年、孫堅がたすけ、臧旻と陳寅が許生を斬る
174年春2月己巳、天下を赦した。太常する東海の陳耽を、太尉とした。3月、中山穆王の劉暢が薨じた。子なく、國は除かる。
夏6月、河間王・劉利の子、劉康を濟南王とした。劉康に、孝仁皇祀を奉じさせた。
吳郡司馬する富春の孫堅は、精勇を1千餘人をつのる。孫権は、州郡を助け、許生を討った。
十二月,鮮卑入北地,太守夏育率屠各追擊,破之。遷育為護烏桓校尉。鮮卑又寇 并州。 司空唐珍罷,以永樂少府許訓為司空。
174年冬11月、臧旻と陳寅は、会稽で許生を斬った。任城王の劉博は、薨じた。子なく、國は除かる。
12月、鮮卑は北地に入る。北地太守の夏育は、屠各をひきいて破った。夏育は、護烏桓校尉となった。ふたたび鮮卑は、并州を寇した。
司空の唐珍をやめ、永樂少府の許訓を司空とした。
ぼくは思う。この時期、2つの特徴がある。『資治通鑑』の記述が少ない。三公の交替が目まぐるしい。ここから、何を言えるか。宦官による政治が、安定してる。よくも悪くも、事件がないのだ。ちょうど『後漢書』と『三国志』が、接続するあたりだ。もっと詳しく、編年体をつくってほしいなあ。
175年、蔡邕が儒教のテキストを定め、三互に反対
春,三月,詔諸儒正《五經》文字,命議郎蔡邕為古文、篆、隸三體書之,刻石, 立於太學門外,使後儒晚學鹹取正焉。碑始立,其觀視及摹寫者車乘日千餘兩,填塞街 陌。
175年春3月、諸儒に《五經》の文字を正させた。議郎の蔡邕は、古文、篆、隸の3書体を石に刻み、太學の門外に立てた。この石を、正とした。
ぼくは思う。蔡邕は太学で、純粋な研究に没頭した。陳蕃や李膺ら、太学は拠点にしたが、滅びた。もう太学には、政治的な毒気がないのか。
石を見にくる人は、1日に車が1千余台。街を埋めた。
はじめ朝廷は、徒党を防ぐため、州郡に三互の法を定めた。「自分の出身地で、地方官ができない。婚姻相手の出身地で、地方官ができない。地方官の出身地に、その地の出身者は赴任できない」と。幽州と冀州では、ルールに適合した人が見つからず、月をまたいで、刺史が補充されなかった。
蔡邕は、三互の法に反対した。霊帝は、蔡邕をきかず。
ぼくは思う。この部分は、難しそうなので、論文で補うべきだ。絶対に、研究されてそう。いま、ぼくが2年前につくった要約を引用しました。
六月,弘農、三輔螟。 於窴王安國攻拘彌,大破之,殺其王。戊己校尉、西域長史各發兵輔立拘彌侍子定 興為王,人眾裁千口。
河間王・劉建の孫、劉佗を任城王とした。175年夏4月、郡國7つで大水あり。5月丁卯、天下を赦した。延陵(成帝)園が災えた。鮮卑が幽州を寇した。
175年6月、弘農と三輔で、ズイムシ。於窴王の安國は、拘彌の王を殺した。戊己校尉と、西域長史は、拘彌の侍子・定興を王とした。1千人を裁す。
【追記】田中敏一氏はいう。熹平四年[175]十月の、改平準為中準,[一]使宦者為令,列於內署.自是諸署悉以閹人為丞、令.[一] 漢官儀曰:「平準令一人,秩六百石也.」 を司馬光が抜いたのは意味があるのでしょうか。(引用おわり)
ぼくは思います。田中氏のご指摘は、范曄『後漢書』霊帝紀からです。この文章の前に、司馬光にとって興味の薄い記事があったので、まとめて切り捨ててしまったのかも知れません。直前にある文とは。
冬十月丁巳,令天下系囚罪未決,入縑贖。拜沖帝母虞美人為憲園貴人,質帝母陳夫人為勃海孝王妃。
抄訳すれば、まだ裁かれていない罪人が、キヌを支払って釈放された。沖帝と質帝の母を、名誉回復したと。前者は、174年10月におなじ政策が出ていますが、司馬光がこれを省いています。霊帝紀で確認できます。司馬光にとっては、些細な出来事だったようです。
後者は、傍系から入った皇帝の母が、わざわざ皇帝の死後に追尊された例を探さないと、司馬光の編集方針が分かりません。史料を読むとき、気にとめ続けます。ぼくの憶測ですが、沖帝と質帝は、「もう終わった話だから、あまり関係ない」と見なされたのかも知れません。『資治通鑑』は、ほおっておくと、無限に長くなる恐れがあります。司馬光が、省かねばならない記事は、たくさんありました。
ともあれ、時代の画期を示すような記事が、『資治通鑑』から落ちてしまったことは、残念です。宦官によって、各部署の丞と令が占められたと。
176年、永昌太守の曹鸞がヤブ蛇、党錮が拡大
夏,四月,癸亥,赦天下。 益州郡夷反,太守李顒討平之。 大雩。
五月,太尉陳耽罷,以司空許訓為太尉。
閏月,永昌太守曹鸞上書曰:「夫黨人者,或耆年淵德,或衣冠英賢,皆宜股肱王 室,左右大猷者也;而久被禁錮,辱在塗泥。謀反大逆尚蒙赦宥,黨人何罪,獨不開恕 乎!所以災異屢見,水旱薦臻,皆由於斯。宜加沛然,以副天心。」帝省奏,大怒,即 詔司隸、益州檻車收鸞,送槐裡獄,掠殺之。於是詔州郡更考黨人門生、故吏、父子、 兄弟在位者,悉免官禁錮,爰及五屬。
176年夏4月癸亥、天下を赦した。
益州郡で、夷が反した。益州太守の李顒が、平定した。雨乞した。
5月、太尉の陳耽をやめた。司空の許訓を、太尉とした。
閏月、永昌太守の曹鸞が、上書した。「党人をゆるせ」と。霊帝は大怒した。すぐに司隷校尉と益州に命じ、曹鸞を槐裡で獄死させた。ここにおいて、さらに州郡は、党人の関係者を禁錮した。門生、故吏、父子、
兄弟は、官位をやめた。禁錮は、党人の五屬まで及んだ。
冬,十月,司徒袁隗罷;十一月,丙戌,以光祿大夫楊賜為司徒。 是歲,鮮卑寇幽州。
176年6月壬戌、太常する南陽の劉逸を、司空とした。176年秋7月、太尉の許訓をやめた。光祿勳の劉寬を、太尉とした。
176年10月、司徒の袁隗をやめた。11月丙戌、光祿大夫の楊賜を司徒とした。この歳、鮮卑が幽州を寇した。101211