138年、日南に4州の兵を送るな
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
138年春夏、呉郡で反乱
春,二月,乙亥,京師及金城、隴西地震,二郡山崩。
夏,閏四月,己酉,京師地震。
五月,吳郡丞羊珍反,攻郡府;太守王衡破斬之。
138年春2月乙亥、洛陽と金城、隴西で地震した。2郡で、山が崩れた。
128年夏閏4月己酉、洛陽で地震。
5月、吳郡丞の羊珍が、呉郡の府を攻めた。呉郡太守の王衡は、羊珍斬った。
138年夏、李固の日南に戦略する
侍御史の賈昌は、交趾で州郡の力を合わせたが、區憐らにかこまれた。1年余で、兵糧がつづかず。
順帝は、公卿百
官と、四府掾屬を召して、方略を問うた。
みな言う。「兵4万を、荊、揚、兗、豫州から集めましょう」と。
李固は、7つの理由で反対した。
1つ。荊州と揚州が、治まっているなら、兵を出してよい。だが盗賊がいる。荊州の武陵と南郡は、蛮夷がいる。長沙と桂陽も、すぐ盗賊が起こる。
2つ。兗州や豫州は、日南から遠い。いつ還れるかも分からない。遠征させたら、兵が逃げてしまうだろう。
3つ。交趾の水土は、病気をおこす。兵の半分が死ぬ。
4つ。戦場が遠すぎる。嶺南につくころ、ヘトヘトで戦えない。
5つ。兵糧がもたない。軍は1日30里しか進めない。日南は9千余里ある。到着するために、300日かかる。1人1日に5升食べる。合計で60万石が必要だ。また、武器を運ぶだけの驢馬にも、食糧が必要だ。
6つ。官軍が負けつづけた土地に、内地の4州から兵を送っても、無益だ。
7つ。九真は、日南からさらに1千里も遠い。行けるわけない。
李固はつづける。
前の中郎將・尹就は、益州で叛いた羌を討った。益州は言った。「異民族が来るのは、まだマシ。尹就が来ると、私たちを殺す」と。のちに尹就を、益州からもどした。つぎに、益州刺史の張喬を送ると、旬月のあいだに、叛かれた。日南も、きっと同じだ。
4州の兵でなく、実績のある将軍だけを、日南に送ろう。もと并州刺史をした長沙の祝良は、勇決できる人だ。南陽の張喬は、さきに益州で功績がある。彼らを用いよう。
前漢の文帝は、魏尚を雲中太守とした。哀帝は、龔捨を泰山太守とした。この前例にならおう。いま祝良らを用いなさい。
四府とも、李固をみとめた。祝良を九真太守とし、張喬を交趾刺史とした。九真で数万をくだし、ふたたび嶺外は平らいだ。
床に落とせば死ぬような、生後100日の幼帝が、後漢にいる。なぜ幼帝の権威すら、認めるか。儒教によって、漢室が権威づけられているから。これが、ぼくの昨日までの認識。これは不充分だ。外圧が高いから、求心力でも必要なのだ。幼帝でも誰でも、いい。内紛している、場合ではない。
138年秋、武猛な人を推薦せよと言うが
138年秋8月己未、司徒の黄尚を免じた。9月己酉、光禄勲をする長沙の劉寿を、司徒とした。9月丙戌、剛毅で武猛で謀謨な人を、あげさせた。
はじめ尚書令の左雄は、冀州刺史の周挙をあげて、尚書にした。すでに左雄は、司隷校尉にうつった。左雄は、もと冀州刺史の馮直を、將帥にあげた。馮直が、ワイロした。
周挙は、左雄をせめた。左雄は言った。「武猛な人をあげろという詔書だった。だから私は、馮直をあげた。馮直が、清高じゃなくても、知らんよ」と。周挙は言う。「詔書は、わざわざ金に汚い人をあげろと、命じていない」と。左雄は言った。「きみ(周挙)を、尚書にあげたのは、私(左雄)だ。きみに責められるとは、私は自分の首をしめたな」と。
周挙は、秦と晋が戦ったころの故事をひき、左雄を説得した。左雄は、自分のミスを認めた。天下の人は、左雄の賢さをほめた。
宦官は、ワイロが盛んだ。ただ大長秋の良賀だけは、ワイロに参加しない。武猛な人をあげよと命じられたが、良賀は1人もあげず。順帝が理由を聞いた。良賀はいう。「私は、ながく宮中に仕え、人脈がありません。へんな人物をあげれば、恥になります」と。
『考異』はいう。宦者伝は、これを陽嘉年間のこととする。だが他の記述に照らすと、永和年間がただしい。だから『資治通鑑』では、ここに書いた。
順帝は、良賀をほめた。
138年冬、梁商と曹騰がハメられる
十二月,戊戌朔,日有食之。
138年冬10月、燒當羌の那離らが、3千騎で、金城を寇した。校尉の馬賢が、破った。12月戊戌ついたち、日食した。
大将軍の梁商は、小黄門をする南陽の曹節をつかう。子の梁冀と梁不疑を、曹節の友とした。
宦官だからと、ひとまとめに軽蔑する必要はない。少なくとも、ぼくら後世人は。
宦官たちは曹節をねたみ、そしった。中常侍の張逵、蘧政、楊定らは、言った。「梁商と、中常侍の曹騰、孟賁らは、皇帝を代えようとしている」と。順帝は言う。「大将軍の父子や曹節らは、私が親愛している」と。張逵らは懼れて、曹騰らを縛る。順帝は怒り、張逵を獄にくだした。101127
さて。『資治通鑑』の、文章のつながりに疑問。曹節と曹騰がまざった? はじめ梁商が、曹節と仲良しだ。つぎに、張逵らは、曹騰をハメたとある。ここははじめに、「梁商が曹騰を政治にもちい、梁冀と梁不疑と交友させた」と書いたほうが、スジが通るのだが。すると、曹騰(曹操の祖父)と梁冀の関係が、かなり緊密になる。そっちのほうが、おもしろい。笑
まあ、曹騰の出身地は南陽なのか、曹節は曹騰の父とも言うなあ、だったら世代が合わないなあ、などと問題は山積します。『資治通鑑』の文脈を通すためだけに、いろいろコジツケるのは、よくない。知ってます。笑