表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

196年:献帝が曹操におちつく

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

196年春:献帝を迎える洛陽を、劉表がなおす

建安元年(196年)春正月癸酉、大赦して、建安と改元。
董承、張楊は、献帝を洛陽に返したい。楊奉と李楽は、洛陽に返したくない。献帝を守る諸将は、対立した。
2月、韓暹は、董承を攻めた。董承は、張楊のいる野王に逃げた。韓暹は聞喜にいて、胡才と楊奉はオ郷にいる。胡才は韓暹を攻めたいと上表したが、止められた。
汝南と潁川の黄巾である何儀らは、人をつれて袁術に帰した。曹操は、何儀らを破った。
張楊は董承に、洛陽を修繕させた。太僕の趙岐は、董承に説いた。劉表に修繕を手伝わせようと。劉表は、絶えず物資をおくった。

ペアの馬日磾は死んだが、趙岐は健在だ。劉表を使うあたり、天下をよく見ていると思う。


196年夏:劉備と、袁術と呂布が、徐州で戦う

夏5月丙寅、献帝は、洛陽への護衛を命じた。命じられたのは、楊奉、李楽、韓暹である。楊奉たちは、献帝に従った。

楊奉は、洛陽に反対だ。だが献帝(董承ら)が押し切った。

6月、献帝は聞喜にうつった。

袁術は劉備と、徐州を争った。司馬の張飛は、下邳を守る。数ヶ月、勝負がつかない。
下邳相の曹豹
は、もと陶謙の部将だ。張飛は曹豹を殺した。袁術は呂布に、下邳を襲わせた。呂布は袁術に兵糧をもらって喜び、水陸をたどって東へ。劉備の中郎将の許耽は、丹楊出身だ。許耽は、門を開いて呂布をむかえた。
劉備は、広陵で袁術にやぶれ、海西へ。劉備が飢えたので、東海の麋竺は、家財をつかって劉備を救った。劉備は呂布に降伏した。呂布は、袁術からの兵糧がつづかないので、劉備を受け入れた。豫州刺史にして小沛に行かせ、ともに袁術を撃つことにした。呂布はみずから徐州牧を称した。
河内のカク萌が呂布に謀反した。高順の部将・曹性が平定。

司馬光は『英雄記』を採用している。

庚子、楊奉と韓暹は、献帝を東にもどした。張楊は、食糧をもって道路で迎えた。

196年秋:曹操が献帝を迎え、袁術が皇帝を議す

秋7月甲子、献帝は洛陽へ。趙忠の屋敷に入った。丁丑、大赦。
8月辛丑、献帝は、楊安殿に入った。張楊が、自分の手柄をいうため、名づけた建物の名である。張楊は野王にもどった。

張楊伝を読むべし。

楊奉は、梁にいる。韓暹と董承は、宿営した。
癸卯、安国将軍の張楊は、大司馬になった。楊奉は、車騎将軍になった。韓暹は、大将軍になり、司隷校尉をかねた。みな節を仮った。宮殿が壊れているので、公卿は食糧を自分であつめた。兵士に殺されたり、餓死した臣下もいた。

袁術は、図讖で「漢に代わるのは当塗高」ときいた。袁術は、自分の名が予言にピッタリだと考えた。また袁氏は、陳氏から出ており、陳氏は舜の子孫である。赤徳に代わるのは、黄徳である。また孫堅が伝国璽を得たと知り、妻を捕らえて奪った。献帝が曹陽で(興平2年に)敗れたと聞き、帝位を検討した。

献帝が洛陽についたタイミングで、『通鑑』が記していますね。

主簿の閻象がとめた。

閻象のセリフは、袁術伝を見る。

張範と張承は、袁術をいさめた。

『後漢書』袁術伝にあります。

孫策は、絶縁状をつくった。

『後漢書』にも『三国志』にも袁術伝にあります。


曹操は、潁川の許にいる。韓暹と楊奉を押しのけ、献帝を手に入れようとした。揚武中郎将の曹洪に、献帝を迎えさせた。董承らが、曹洪をこばんだ。進めない。議郎の董昭は、云った。
楊奉は、兵馬は強いが、少ない。援軍すると言いましょう」

曹操から楊奉への手紙は、董昭伝かな。董承と董昭は、曹操にたいする立場は正反対である。ややこしいことは、やめてほしい。

楊奉は、曹操からの手紙を喜んだ。
「曹操は許にいる。洛陽にちかい。頼ろう」
楊奉は上表して、曹操を鎮東将軍とし、父の費亭侯をつがせた。韓暹と董承は、曹操を頼ることに反対だ。ひそかに曹操は洛陽にいき、韓暹と楊奉の罪を上奏した。韓暹は、曹操に殺されるのを懼れて、単騎で楊奉のもとに逃げた。献帝は、韓暹が車駕をまもった功績が大きいから、韓暹を不問とした。
辛亥、曹操は司隷校尉をかね、録尚書事した。尚書の馮セキら3人を、曹操は斬った。衛将軍の董昭ら13人を、列侯にふうじた。興平2年に死んだ、射声校尉の沮儁は、忠節をまもって死んだから、弘農太守を贈った。
董昭は曹操に、献帝を魯陽、許に移せと云った。

「魏志」董昭伝の会話を、『通鑑』は引用してます。

己巳、曹操は大将軍になった。宗廟、社稷を許においた。

孫策は会稽を取った。孫策は、呉人の厳白虎を後回しにした。
会稽の功曹の虞翻は、会稽太守の王朗に、逃げろといった。王朗は逃げず、もと丹楊太守の周昕に、孫策を迎撃させた。孫策は周昕をやぶった。王朗と虞翻仲翔は、東ヤに到った。

当夜の場所について、ものすごく長い注釈がある。笑

孫策は王朗を引きずり出した。孫策は会稽太守となった。虞翻は、孫策の功曹となった。虞翻は孫策が出歩くのを、諌めた。孫策は納得したが、行動を改めなかった。

虞翻伝を読みましょう。白龍や白蛇の比喩。


9月、司徒の淳于嘉、太尉の楊彪、司空の張喜を、みなやめた。楊奉は、梁から献帝を取り戻そうとしたが、失敗した。

196年冬:呂布が紀霊を仲裁し、劉備は許へ

冬10月、曹操は楊奉を攻めた。楊奉は、南に袁術をたよった。曹操は、梁の屯営をぬいた。
詔した。「袁紹は勝手に刺史を任命している」と。袁紹は謝った。

どこにあったっけ? 出典は。

戊辰、袁紹を太尉とした。袁紹は、大将軍の曹操の下位になるのが気に食わない。曹操は、大将軍を袁術にゆずった。丙戌、曹操は司空となり、車騎将軍をかねた。
荀彧を侍中、尚書令とした。曹操は荀彧に、人材をきいた。荀彧は、蜀郡太守の荀攸をすすめた。潁川の郭嘉が、曹操にめされて尚書となった。曹操は荀攸と話し「きみは非常の人だ」と喜んだ。郭嘉を司空祭酒とした。

郭嘉が袁紹を蹴った経緯が、郭嘉伝から引かれる。

曹操は、山陽の満寵を、許令とした。満寵は、曹洪の食客が境界を侵すので、取り締まった。曹操は、満寵の仕事を喜んだ。

詳細は、満寵伝を読みましょう。


北海太守の孔融は、気位が高く、清談した。196年の春から夏、青州刺史の袁譚に攻められても、涼しい顔で本を読んだ。孔融は落城し、東山にのがれた。

「魏志」崔琰伝と、『後漢書』孔融伝に詳細があるみたい。

袁譚が青州にきたとき、領土は黄河の西で、平原郡だけだった。公孫瓚がおいた田楷を追い出し、孔融を追い出した。だが袁譚は奢ったので、声望はおちた。

青州のうち黄河の西は、ほんの少し。地図を見ると、びっくりする。山東半島は、まるまる違うのだから。


羽林監の棗祇は、曹操に屯田都尉を置くようにアドバイスした。騎都尉の任峻が、典農中郎将になった。兵糧問題を、解決した。

それぞれの列伝に、詳細あり。屯田がこの時期だと注意!


袁術は、呂布と婚姻を結ぼうとした。紀霊は、歩騎3万で劉備を攻めた。劉備は呂布に助けを求めた。呂布は、袁術たちに包囲されるのを嫌い、劉備と紀霊を仲裁した。
呂布は劉備を助けたくせに、劉備を攻めた。劉備は曹操を頼った。曹操は劉備を、豫州牧にした。郭嘉は曹操に、劉備を殺せと云った。曹操は笑っただけ。
劉備は豫州で、陳郡の袁カンを茂才にあげた。呂布は袁カンを捕らえ、劉備をののしる文書を書けと命じた。だが袁カンは、劉備に恩があるので、書かない。呂布が脅しても、袁カンは顔色を変えない。
「もし誰かが私に『呂布をののしれ』と書いたら、悪口を書いちゃいますよ」
呂布は、袁カンをゆるした。

張済が関中から、荊州のジョウ城にきた。劉表は、従子の張繍を、味方につけた。賈詡が勧めた。劉表は、学校をつくった。孔融が、曹操をののしる。禰衡が劉表に送られ、江夏太守の黄祖に殺された。100520

ものすごく省略しましたが、荊州のことです。記事が載っている位置に、司馬光による「ヤッツケ仕事」の印象を受けます。