141年、梁商が死に、梁冀がつぐ
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
141年春、東西の羌族があわさる
」 春,正月,丙子,征西將軍馬賢與且凍羌戰於射姑山,賢軍敗;賢及二子皆沒,東、 西羌遂大合。閏月,鞏唐羌寇隴西,遂及三輔,燒園陵,殺掠吏民。
141年春正月丙子、征西將軍の馬賢は、射姑山で且凍羌に敗れた。馬賢とその2子は、死んだ。東西の羌族が、大合した。
閏月、鞏唐羌が、隴西を寇した。ついに三輔を寇した。園陵(前漢の陵墓)を焼き、吏民を殺掠した。
三月,上巳,大將軍商大會賓客,宴於雒水;酒闌,繼以《韭露之歌》。從事中郎 周舉聞之,歎曰:「此所謂哀樂失時,非其所也,殃將及乎!」
141年2月丁巳、彗星が營室にでた。
141年3月上巳、大將軍の梁商とは、おおく賓客をあつめ、雒水で宴した。《韭露之歌》を歌って酒をまわした
。從事中郎
の周舉は、宴の様子を聞いて歎じた。「この非常時(羌族の大合)に、何をやってるんだ。羌族と戦っている将軍に、災禍がおよぶ」と。
例えれば。知人の手術中に、となりで読経するようなKYである。
武都太守の趙沖は、鞏唐羌の首級400余をとった。2千余人をくだした。趙沖は、河西4郡の節度をうけた。
安定の上計掾をする皇甫規は、上疏した。
「馬賢は4年も出陣していますが、功績なし。費用は100億し、負担が大きい。ゆえに江湖の人は、青州と徐州で盗賊する。馬賢と趙沖を代えて、私に兵5千をつけ、安定と隴西を任せなさい。官位や年齢が低くても、私は勝ちます」と。
順帝は、皇甫規をもちゐず。
3月庚子、司空の郭虔をやめた。3月丙午、太僕の趙戒が司空に。
141年夏、西河と北地でたたかう
141年夏、匈奴中郎将の張耽と、度遼将軍の馬続は、鮮卑をひきいて谷城にきた。烏桓を、通天山で破った。
鞏唐羌が、北地を寇した。北地太守の賈福は、趙衝と迎撃したが、負けた。
141年秋、梁商が死に、梁冀がつぐ
141年秋8月、乘氏忠侯の梁商は、病があつい。子の梁冀に言った。「死んだら、財産は持っていけない。派手な品物は、すべて辞退すること」と。8月丙辰、梁商は死んだ。順帝は、梁商の遺言をゆるさず、派手な葬儀をした。順帝は、宣陽亭で梁商を見送った。
胡三省は賢をひく。すべて城門には、それぞれ亭がある。順帝は、宣陽門の亭にきた。だが『続漢志』を見ると、洛陽城には12門あるが、宣陽門はない。魏晋のとき、宣陽門ができた。真南である。後漢のときは、平城門といった。
8月壬戌、順帝は、河南尹の梁冀を大將軍とした。梁冀の弟・侍中の梁不疑を、河南伊とした。
破壊者・梁冀の血の成分
梁商が死に、ほぼ自動的に梁冀を用いたことを、司馬光が批判する。つぎ。
司馬光は考える。前漢の成帝は、賢俊な人を選任できない。ただ外戚に、政治をゆだねた。成帝は、暗君だ。外戚の王立がわるい人材なのに、成帝は王立を用いた。
ふだんから梁冀は、頑嚚兇暴だとバレバレだ。だが順帝は、梁冀に父をつがせた。漢室を滅ぼす判断だ。順帝は、成帝より暗君ぶりが、ひどいなあ。
九月,諸羌寇武威。 辛亥晦,日有食之。
はじめ梁商が倒れたとき、みずから順帝は見舞い、梁商に聞いた。梁商は答えた。「従事中郎の周挙は、清高忠正だ。周挙を重く用いなさい」と。順帝は周挙を、諌議大夫にした。
胡三省は『続漢志』をひく。前漢武帝の元狩五年、諌大夫をおいた。光武帝が、諌議大夫とした。
141年9月、諸羌が武威を寇した。9月辛亥みそか、日食。
141年冬、三輔に張喬、荊州と泰山に李固
141年冬10月癸丑、羌族を涼州が恐れた。ふたたび安定を扶風に、北地を馮翊にうつした。
11月庚子、執金吾の張喬が、車騎將軍事を行ねた。李固は5万をひきい、三輔に屯した。
安定や北地を、ろくに保てないのは、後漢のときから。三輔は、最前線だ。曹操だけが、下手だったのではない。
荊州の盗賊は、数年定まらない。大將軍從事中郎の李固を、荊州刺史とした。半年で、夏密ら6百余人を手なずけた。
李固は、南陽太守の高賜の収賄を、上奏した。高賜は、梁冀にワイロしていた。梁冀は李固を、泰山太守にした。泰山も数年、定まらない。1年もせず、泰山の賊も散った。101127