216年、魏王就任、匈奴分割
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
216年春夏、曹操が、魏王に就任した波紋!
春,二月,魏公操還鄴。
216年春2月、魏公の曹操は、鄴に還った。
夏,五月,進魏公操爵為王。
初,中尉崔琰薦巨鹿楊訓於操,操禮辟之。及操進爵,訓發表稱頌功德。或笑訓希
世浮偽,謂琰為失所舉。琰從訓取表草視之,與訓書曰:「省表,事佳耳。時乎,時乎!
會當有變時。」琰本意譏論者好譴呵而不尋情理也,時有與琰宿不平者,白琰「傲世怨
謗,意指不遜」,操怒,收琰付獄,髡為徒隸。前白琰者復白之雲:「琰為徒,對賓客
虯鬚直視,若有所瞋。」遂賜琰死。
216年夏5月、魏公の曹操は、魏王になった。
はじめ中尉の崔琰は、鉅鹿の楊訓を、曹操にすすめた。曹操は、楊訓をまねいた。曹操が魏王になると、楊訓は曹操をたたえた。
ある人は、楊訓が曹操にへつらったことを笑い、「崔琰が、楊訓のような、ろくでも人材をあげた」と云った。
崔琰は、楊訓に手紙を書いた。
「楊訓が曹操さまをほめた文章は、すばらしい。時代の変わり目だなあ」
崔琰は、楊訓を弁護するつもり(魏王を祝福するつもり)で、この手紙を書いた。だが崔琰をきらいな人は「崔琰は、曹操さまの魏王就任を批判した」とねじ曲げた。曹操は、崔琰を獄につなぎ、髪をそった。崔琰は殺された。
尚書僕射毛玠傷琰無辜,心不悅。人復白玠怨謗, 操收玠付獄,侍中桓階、和洽皆為之陳理,操不聽。階求案實其事。王曰:「言事者白, 玠不但謗吾也,乃復為崔琰觖望。此捐君臣恩義,妄為死友怨歎,殆不可忍也。」洽曰: 「如言事者言,玠罪過深重,非天地所覆載。臣非敢曲理玠以枉大倫也,以玠歷年荷寵, 剛直忠公,為眾所憚,不宜有此。然人情難保,要宜考玠,兩驗其實。今聖恩不忍致之 於理,更使曲直之分不明。」操曰:「所以不考,欲兩全玠及言事者耳。」洽對曰: 「玠信有謗主之言,當肆之市朝;若玠無此言,言事者加誣大臣以誤主聽,不加檢覈, 臣竊不安。」操卒不窮治,玠遂免黜,終於家。
尚書僕射の毛玠は、崔琰の無実の死を、いたんだ。毛玠がそしられた。曹操は、毛玠を獄につなげた。侍中の桓階、和洽は、毛玠を弁護した。曹操は、毛玠をゆるさない。桓階は、曹操に説明をもとめた。
曹操曰く、「毛玠は、崔琰の死刑に、納得していない。私(曹操)の処置を批判するのは、毛玠は君臣のマナーに違反している」と。
和洽曰く「毛玠は、正しいことを述べたのです。よく調べて、なにが正しいか調査してください」と。
曹操曰く「調査しないのは、毛玠と、毛玠の罪を告発した人と、どちらもの顔を立てるためだ」と。
さらに和洽が食らいついたが、曹操は調査をしなかった。毛玠はクビになった。毛玠は、官位に就かずに死んだ。
曹操の魏王就任は、『三国志』に不完全な話がおおい。いま見た、崔琰の処刑(崔琰伝)、毛玠の免官(和洽伝)など。読者は、事件の真相をワザと隠され、宙づりになる。陳寿が「魏王の就任は正当」と主張したいなら、ザックリ削るなり、仮そめの決着を加えるなり、できた。「本紀がある=正統として扱われた」とは限らない。
是時西曹掾沛國丁儀用事,玠之獲罪, 儀有力焉;群下畏之側目。尚書僕射何夔及東曹屬東莞徐弈獨不事儀,儀譖弈,出為魏 郡太守,賴桓階左右之得免。尚書傅選謂何夔曰:「儀已害毛玠,子宜少下之。」夔曰: 「為不義,適足害其身,焉能害人!且懷奸佞之心,立於明朝,其得久乎!」
このとき西曹掾をつとめる沛国の丁儀は、毛玠が罪になると、権力をもった。みな丁儀をはばかった。
尚書僕射の何夔と、東曹掾をつとめる東莞の徐弈は、丁儀をはばからない。丁儀は、徐弈を魏郡太守に追いだした。徐弈は桓階をたより、魏郡太守にならずにすんだ。
尚書の傳選は、何夔にいった。
「すでに丁儀は、毛玠を害した。何夔は、毛玠をはばかれ」と。
何夔は「曹操におもねる丁儀になど、頭を下げられるか」と、ことわった。
崔琰從弟 林,嘗與陳群共論冀州人士,稱琰為首,群以智不存身貶之。林曰:「大丈夫為有邂逅 耳,即如卿諸人,良足貴乎□」
崔琰の従弟は、崔林である。かつて陳羣とともに、冀州の人士について論じた。崔琰をトップだと、ほめた。陳羣は、、
216年5月、裴潛が代郡の烏丸をしずめる
五月,己亥朔,日有食之。
代郡烏桓三大人皆稱單于,恃力驕恣,太守不能治。魏王操以丞相倉曹屬裴潛為太
守,欲授以精兵。潛曰:「單于自知放橫日久,今多將兵往,必懼而拒境,少將則不見
憚,宜以計謀圖之。」遂單車之郡,單于驚喜。潛撫以恩威,單于讋服。
216年5月己亥ついたち、日食した。
代郡の烏丸の3大人が、みな単于を名のった。代郡の太守は、烏丸を治められない。曹操は、丞相倉曹屬の裴潛を、代郡太守にした。裴潛は、曹操に作戦をのべた。
「少人数で近づき、烏丸を安心させましょう」
裴潛は1台の車で、代郡にいった。裴潛は、烏丸を服させた。
216年秋冬、南匈奴の分割
初,南匈奴久居塞內,與編戶大同而不輸貢賦。議者恐其戶口滋蔓,浸難禁制,宜
豫為之防。
秋,七月,南單于呼廚泉入朝於魏,魏王操因留之於鄴,使右賢王去卑監其
國。單于歲給綿、絹、錢、谷如列侯,子孫傳襲其號。分其眾為五部,各立其貴人為帥,
選漢人為司馬以監督之。
はじめ南匈奴は、ひさしく長城の内側にいた。南匈奴の人口が増えて、後漢の法令がとどかなくなることが、心配された。あらかじめ南単于を防いでおこうと、議論された。
216年7月、南単于の呼廚泉が、魏に入朝した。曹操は、鄴に呼廚泉をとどめた。右賢王の去卑監が、南単于をまとめた。単于は列侯となり、子孫は爵位をついだ。南単于を、5部に分割した。漢人の司馬が、分割した匈奴を監督した。
八月,魏以大理鐘繇為相國。 冬,十月,魏王操治兵擊孫權;十一月,至譙。
216年8月、魏は、大理の鍾繇を、相国にした。
216年冬10月、曹操は孫権を撃った。11月、曹操は譙に到った。101110
曹操は、孫権を攻めるとき、まず譙県にくる。地形&水路で、便利なんだろう。べつに赤壁のあと、譙県によった曹操は、故郷を懐かしんだのではない。カメに会いにきたのでもない。笑
200年代でこそ、華北は曹操の領土だが。190年代、袁術や孫策がウロウロしてたころ。やはり曹操の故郷は、南方に出撃する、重要なポイントだったはずだ。地形はおなじだから。この観点で、190年代の譙県を見ておきたい。