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『晋書』列38、呉の人たち
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3)統一への疑問、紀瞻伝
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紀瞻
紀瞻,字思遠,丹陽秣陵人也。祖亮,吳尚書令。父陟,光祿大夫。瞻少以方直知名。吳平,徙家曆陽郡。察孝廉,不行。
紀瞻は、あざなを思遠といい、丹陽は秣陵の人である。祖父の紀亮は、孫呉で尚書令だった。父の紀陟は、孫呉で光祿大夫だった。紀瞻は幼いときから、方直であるため名を知られた。孫呉が平定されると、家を歴陽郡に移した。孝廉に察挙されたが、就職しなかった。
後舉秀才,尚書郎陸機策之曰:「昔三代明王,啟建洪業,文質殊制,而令名一致。然夏人尚忠,忠之弊也朴,救朴莫若敬。殷人革而修焉,敬之弊也鬼,救鬼莫若文。周人矯而變焉,文之弊也薄,救薄則又反之於忠。然則王道之反覆其無一定邪,亦所祖之不同而功業各異也?自無聖王,人散久矣。三代之損益,百姓之變遷,其故可得而聞邪?今將反古以救其弊,明風以蕩其穢,三代之制將何所從?太古之化有何異道?」
のちに秀才に挙げられた。尚書郎の陸機が紀瞻に質問した。
「むかし三代(夏・殷・周)の明王が建国の事業をやるときは、文化の性質を制度化して、名実を一致させた。 夏代の人は忠を尊んだが、忠の弊害は朴だった。朴を直しても、敬には及ばない。殷代の人はこれを改めて、敬を修めたが、敬の弊害は鬼である。鬼を直しても、文には及ばない。周人はこれを改めて、主眼を文に変えたが、文の弊害は薄である。薄を直すと、忠に矛盾してしまう。 王道はコロコロ代わって1つに定まらない。皇帝の姓が異なれば、功業もそれぞれ異なるのか?聖王がいなくなり、人はバラバラになって久しい。三代(夏・殷・周)の損益と、百姓の変遷は、今(西晋)で参考にすべきだろうか?いま古代に教訓にして、弊害を取り除くとして、三代(夏・殷・周)のどれを真似ればいいだろうか?太古と現代の教化は、どんな方法の違いがあるだろう?」と。
〈訳注〉忠義で一途になると、朴訥になる。朴訥になるくらいなら、敬愛している方が人受けがいい。だが敬愛して傾倒すると、心が空っぽになる。心が空っぽになるくらいなら、書物に学んで、意識的に振舞った方が賢い。だが字面に捕われて、薄っぺらになりがちだ。薄っぺらくなると、忠義が成り立たない。「改良を加え続けたはずが、堂々巡りだよ」という、陸遜のお孫さんからのナゾカケだ。
瞻對曰:「瞻聞有國有家者,皆欲邁化隆政,以康庶績,垂歌億載,永傳於後。然而俗變事弊,得不隨時,雖經聖哲,無以易也。故忠弊質野,敬失多儀。周鑒二王之弊,崇文以辯等差,而流遁者歸薄而無款誠,款誠之薄,則又反之於忠。三代相循,如水濟火,所謂隨時之義,救弊之術也。羲皇簡樸,無為而化;後聖因承,所務或異。非賢聖之不同,世變使之然耳。今大晉闡元,聖功日隮,承天順時,九有一貫,荒服之君,莫不來同。然而大道既往,人變由久,謂當今之政宜去文存樸,以反其本,則兆庶漸化,太和可致也。」
紀瞻は答えた。
「私が思いますに、国があり家を持つ人は、みな国や家を隆盛させ、治民に成功して、功績を後世に歌い継がれたいものです。聖哲が書いた本には不変の真理が書かれていますが、世俗の文化は時代に合わせて変わり、弊害が出るものです。
ゆえに忠は質野にデメリットがあり、敬は多儀を失います。周鑒二王の弊害は、文を崇んで等差を弁じたことです。流遁して薄に帰着して、款誠がなくなりました。款誠が薄まると、忠と矛盾することになります。
〈訳注〉難しくてうまく訳せないが、陸機が言ったことを、紀瞻なりに言い換えて再確認しただけだ。
三代(夏・殷・周)が互いに循環したのは、水が火に勝つといった五行相克説に似ています。いわゆる隨時之義(時代に応じて求められる手腕)とは、救弊之術(その時点の弊害を修正する方法)です。
羲皇は簡樸な人で、無為によって教化しました。後世の聖人はこれを継承したものの、政治方針が無為からブレることもありました。賢聖ではないバカが、無為による教化をやらないと、世間は変化します。
いま大晉が建国されて、聖功は日隮、天意を承って時流に順い、九有は一貫し、荒服之君(司馬炎)は、羲皇と同レベルに立派な人で、既に大道を歩まれています。現代の政治は、文飾を除いて質樸だと言います。億兆の庶民は、変わりやすい性質です。しかし徐々に教化してやれば、アホみたいな循環を止めて、太和に到るでしょう」
〈訳注〉陸機は3択を答えさせようとしたが、紀瞻は話の次元を1つ上げて回答した。うまいとも言えるが、3択のどれにも丸を付けなかったんだから、インチキとも言える。
又問:「在昔哲王象事備物,明堂所以崇上帝,清廟所以甯祖考,辟雍所以班禮教,太學所以講藝文,此蓋有國之盛典,為幫之大司。亡秦廢學,制度荒闕。諸儒之論,損益異物。漢氏遺作,居為異事,而蔡邕《月令》謂之一物。將何所從?」
對曰:「周制明堂,所以宗其祖以配上帝,敬恭明祀,永光孝道也。其大數有六。古者聖帝明王南面而聽政,其六則以明堂為主。又其正中,皆雲太廟,以順天時,施行法令,宗祀養老,訓學講肄,朝諸侯而選造士,備禮辯物,一教化之由也。故取其宗祀之類,則曰清廟;取其正室之貌,則曰太廟;取其室,則曰太室;取其堂,則曰明堂;取其四門之學,則曰太學;取其周水圜如璧,則白璧雍。異名同事,其實一也。是以蔡邕謂之一物。」
陸機はまた紀瞻に問うた。
「むかし哲王がいて、真理をかたどって典籍を書いた。明堂は上帝を崇ぶ場所で、清廟は祖考を甯んずる場所で、辟雍は禮教を班す場所で、太學は藝文を講じる場所だ。 〈訳注〉ここに挙がっている4つの施設は、いずれも先人を称え、先人の著作に学ぶ目的のものだ。
国家に盛典(立派な著作)があるのは、きっと政治を助けるためだ。亡秦は学問を廃したから(焚書坑儒)、制度は荒闕した。諸儒之論は、説いている損益がバラバラだ。漢代の遺作だって諸説が異なる。蔡邕が書いた『月令』は、内容がバラバラな著作群の一例である。いったい、どれを参考にしたら良いのか?」
紀瞻は答えた。
「周制では、明堂は祖先を宗して上帝に配すところで、敬恭として祭祀を明らかにし、永く孝道を照らした。明堂は6つありました。古代は、聖帝や明王が南面して聽政し、6つの明堂の祭主になりました。(中略:明堂の内訳を説明して)同じものを違う名で呼んでいるだけ、実体は1つです。ですから蔡邕の著作も、正しいことが書いてあるものの一例です」
〈訳注〉前問と同じで、選択肢を無視した答えだ。陸機は「どれが正しいのか」と聞いたのに、「どれも同じで、全部が正しい」と紀瞻は言いくるめてしまった。
又問:「庶明亮采,故時雍穆唐;有命既集,而多士隆周。故《書》稱明良之歌,《易》貴金蘭之美。此長世所以廢興,有邦所以崇替。夫成功之君勤於求才,立名之士急於招世,理無世不對,而事千載恆背。古之興王何道而如彼?後之衰世何闕而如此?」
對曰:「興隆之政務在得賢,清平之化急於拔才,故二八登庸,則百揆序;有亂十人,而天下泰。武丁擢傅岩之徒,周文攜渭濱之士,居之上司,委之國政,故能龍奮天衢,垂勳百代。先王身下白屋,搜揚仄陋,使山無扶蘇之才,野無《伐檀》之詠。是以化厚物感,神祇來應,翔鳳飄颻,甘露豐墜,醴泉吐液,硃草自生,萬物滋茂,日月重光,和氣四塞,大道以成;序君臣之義,敦父子之親,明夫婦之道,別長幼之宜,自九州,被八荒,海外移心,重譯入貢,頌聲穆穆,南面垂拱也。今貢賢之途已闓,而教學之務未廣,是以進競之志恆銳,而務學之心不修。若辟四門以延造士,宣五教以明令德,考績殿最,審其優劣,厝之百僚,置之群司,使調物度宜,節宣國典,必協濟康哉,符契往代,明良來應,金蘭複存也。」
陸機はまた問うた。
「(抄訳すると)この国には易姓革命がある。どうして古代の王は、建国に成功できたのか。また後代に国が衰微してしまうのは、何が欠けるからなのか」
紀瞻は答えた。
「(抄訳すると)武丁や周文は賢才を抜擢して、国政を委ねました。天地人は理想的な状況となり、国外にも伝播しました。しかし朝貢してきた異民族には、教学が充分に浸透していませんでした。もし教化をきっちりやってれば、王朝は永遠に続いたでしょうに」
〈訳注〉一見すると亡国外圧説なんだが、「ろくに教育に努めなかった我々が悪い」と言ってるから、ちゃんと自己責任になってる。俗にいう中華意識という奴か(笑)
又問:「昔唐虞垂五刑之教,周公明四罪之制,故世歎清問而時歌緝熙。奸宄既殷,法物滋有。叔世崇三辟之文,暴秦加族誅之律,淫刑淪胥,虐濫已甚。漢魏遵承,因而弗革。亦由險泰不同,而救世異術,不得已而用之故也。寬克之中,將何立而可?族誅之法足為永制與不?」
對曰:「二儀分則兆庶生,兆庶生則利害作。利害之作,有由而然也。太古之時,化道德之教,賤勇力而貴仁義。仁義貴則強不陵弱,眾不暴寡。三皇結繩而天下泰,非惟象刑緝熙而已也。且太古知法,所以遠獄。及其末,不失有罪,是以獄用彌繁,而人彌暴,法令滋章,盜賊多有。《書》曰:'惟敬五刑,以成三德。'叔世道衰,既興三辟,而文公之弊,又加族誅,淫刑淪胥,感傷和氣,化染後代,不能變改。故漢祖指麾而六合回應,魏承漢末,因而未革,將以俗變由久,權時之宜也。今四海一統,人思反本,漸尚簡樸,則貪夫不競;尊賢黜否,則不仁者遠。爾則斟參夷之刑,除族誅之律,品物各順其生,緝熙異世而偕也。」
陸機はまた問うた。
「(抄訳すると)歴代の王朝は、いろんな刑法を定めてきた。刑罰の厳しさのレベルはいろいろだが、西晋はどれに倣えばいいか。また、秦が制定した一族を誅す刑罰は、永く受け継いでいくべきか」
紀瞻は忌憚なく答えた(笑)
「(前略)太古には道徳が教化され、勇力を賤しみ、仁義を貴びました。仁義を貴べば、強者は弱者をしのがず、民衆は暴力を働くことが多くありませんでした。(犯罪が少ないから)三皇が天下を泰平にしたとき、遠獄だけが定められました。三皇の末期、人が暴力を働くようになり、罰則が詳しく定められました。『書経』には、ただ五刑を敬い、もって三徳を成すべし、と書かれています。叔世の道は衰ろえ、すでに三辟が興りました。
〈訳注〉史実を確認せねば分かりません。
周の文公は、殷から族誅を受けるという災難に遭いました。殷がムチャな刑を執行するので、風土が汚染され、後世になっても清めることが出来ません。ゆえに魏が漢を継承したときも、人心は理想からは遠いままです。一族を誅す刑罰は除き、刑罰は時代に合わせて再検討するのが良いでしょう」
又問曰:
「夫五行迭代,陰陽相須,二儀所以隗育,四時所以化生。《易》稱'在天成象,在地成形'。形象之作,相須之道也。若陰陽不調,則大數不得不否;一氣偏廢,則萬物不得獨成。此應同之至驗,不偏之明證也。今有溫泉而無寒火,其故何也?思聞辯之,以釋不同之理。」對曰:「蓋聞陰陽升降,山澤通氣,初九純卦,潛龍勿用,泉源所托,其溫宜也。若夫水潤下,火炎上,剛柔燥濕,自然之性,故陽動而外,陰靜而內。內性柔弱,以含容為質;外動剛直,以外接為用。是以金水之明內鑒,火日之光外輝,剛施柔受,陽勝陰伏。水之受溫,含容之性也。」
陸機がまた問うた。
「(かみ砕くと)なぜ温泉はあるのに、寒火はないのか。水は陰で、温は陽だ。『温泉』というのは、陰陽について矛盾を孕んでいる。この矛盾が許されるなら、陽である火と、陰である寒さが同居した『寒火』というのがあっても、良いのではないか」
〈訳注〉もう屁理屈としか言えない質問だ。
紀瞻は答えた。
「水は柔軟に他者を受け入れるから、温という性質と折り合えます。しかし火は剛直だから、他者を跳ね除けます。だから、寒火というものはありません」
又問曰:「夫窮神知化,才之盡稱;備物致用,功之極目。以之為政,則黃羲之規可踵;以之革亂,則玄古之風可紹。然而唐虞密皇人之闊綱,夏殷繁帝者之約法,機心起而日進,淳德往而莫返。豈太樸一離,理不可振,將聖人之道稍有降殺邪?」對曰:「政因時以興,機隨物而動,故聖王究窮通之源,審始終之理,適時之宜,期於濟世。皇代質樸,禍難不作,結繩為信,人知所守。大道既離,智惠擾物,夷險不同,否泰異數,故唐虞密皇人之綱,夏殷繁帝者之法,皆廢興有由,輕重以節,此窮神之道,知化之術,隨時之宜,非有降殺也。」
陸機はまた問うた。
「時代を下るごとに、聖人之道は衰退しているのか?」
紀瞻は答えた。
「新時代には新時代の正解があります。気をつけていれば、代を経るごとに文明のレベルが落ちることはありません」
後半はダレてきて、かなり翻訳を省略しまくってます。ですが、文面から少し顔を離して読んでみると、浮かび上がる疑問があります。なぜ紀瞻は、こんな問答を陸機とやったんだろう。
きっと100年ぶりの統一国家に編入されて、戸惑っていたからだ。
西晋の初めは、知識人が天下のあり方をいちから考え直す機会だった。まして陸機と紀瞻は、亡国側の名士です。「国とは」「統一王朝の晋とは」という疑問が、強く迫る。自ら答えを出して、この時代を乗り切らねばならなかったのだろう。
あくまで過去の事例から正解を得ようとする陸機と、「臨機応変にやればいいじゃん」という紀瞻。役回りはハッキリしていますね。根本的な態度が違うから、いまいち会話が成立していないが。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列38、呉の人たち
1)八王に愛想つきた顧榮
2)揚州人を司馬睿に推挙
3)統一への疑問、紀瞻伝
4)揚州から司馬睿への脅し
5)病人を引き止める東晋帝
6)西晋に距離を置く賀循
7)孫皓に首を挽かれたのは
8)恵帝を皇帝に数えるか
9)司馬睿のしがみつき
10)楊方と薛兼の列伝
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