桓帝を諌め、竇太后の宦官に殺される
吉川版で、陳蕃伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
ながい諫言をはぶき、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
庭を掃除せず、周景とケンカする
陳蕃は、あざなを仲舉という。汝南の平輿の人だ。祖父は、河東太守だ。陳蕃が15歳のとき、庭がきたない。父の友・同郡の薛勤は、陳蕃に言った。「室の庭を掃除しろ」と。陳蕃は言った。「天下を掃除すべきだ。室の庭なんて、掃除しない」と。陳蕃は、世を清める志を認められた。
汝南郡につかえ、孝廉にあがる。郎中となる。母が死に、辞職。豫州刺史の周景が、陳蕃を辟して、別駕従事とした。陳蕃は、周景と言い争った。割符を捨てて、去った。
ぼくは補う。周景は、袁氏の門生・周栄の子孫。周瑜の家柄。
のちに三公府は、陳蕃を方正で辟す。みな就かず。
李固と李膺につきあい、梁冀をこばむ
太尉の李固が上表し、陳蕃を議郎とする。楽安(青州)太守となる。ときに李膺は、青州刺史は、青州刺史となる。李膺がきびしく、太守たちは辞職した。陳蕃は、李膺にビビらず、楽安太守にのこる。
楽安の郡人・周璆は、高潔だ。陳蕃の招きにだけ、応じた。陳蕃は、周璆をあざなで呼び、とうとんだ。民に趙宣がいた。20余年も服喪すると評判だ。趙宣は、服喪のあいだに、5子をつくった。陳蕃は、趙宣を処罰した。
大将軍の梁冀によばれたが、陳蕃はことわる。使者は、陳蕃をだまし、梁冀に会わせたい。陳蕃は、梁冀の使者を答殺した。脩武の県令に左遷された。尚書になる。
桓帝の政策を、5回諌める
零陵と桂陽に、山賊がいる。後漢は、山賊を討ちたい。陳蕃は反対した。「三公府は、太守や県令、県長を審査せよ。地方官のせいで、山賊が出ていないか、調べよ」と。後漢は、孝廉や茂才をあげろと言いたい。陳蕃は反対した。「三公府の郎吏には、2千余人がいる。郎吏は、年限をすぎても、就職していない。いま詔して、猟官の運動をあおるな」と。
いちいち陳蕃が反対するので、豫章太守になった。性格が方峻で、畏れられた。陳蕃が尚書令になったとき、豫章の役人は、陳蕃を見送らない。
延熹六年,車駕幸廣成校獵。蕃上疏諫曰:(中略) 書奏不納。
陳蕃は、大鴻臚にうつる。白馬の県令・李雲が、桓帝を諌めた。桓帝は、李雲を殺したい。陳蕃は李雲を救った。陳蕃は、田里に帰る。
のちに議郎となり、数日で光禄勲となる。ときに、桓帝の寵愛ある人が、のさばる。陳蕃はいさめた。
こちらで内容をやりました。このページは、漢文もはぶきました。
桓帝は陳蕃をみとめた。宮女5百人を出した。だが桓帝は、陳蕃を聞かず、黄儁を関内侯とし、鄧万世を南郷侯とした。
延熹六年(163)、桓帝は、校猟したい。陳蕃が諌めた。桓帝は聞かず。
外戚の鄧氏、桓帝の宦官との対決
陳蕃は光禄勲になってから、五官中郎将の黄琬とともに、選挙をつかさどる。権威や富奢に、かたよらない。だが、外戚の鄧氏の子弟にそしられ、陳蕃は免じられた。
延熹八年(165)、楊秉に代わり、太尉となる。陳蕃は、ことわった。「太常の胡広のほうがよい。議郎の王暢のほうがよい。党錮の李膺のほうがよい」と。桓帝は許さず、陳蕃を太尉とする。
『後漢書』胡広伝:主義主張なく、人事に興味のない事務官の三公
帝得奏愈怒,意無所納,朝廷眾庶莫不怨之。宦官由此疾蕃彌甚,選舉奏議,輒以中詔譴卻,長史已下多至抵罪。猶以蕃名臣,不敢加害。質字文理,高唐人。瑨字幼平,陝人。並有經術稱,處位敢直言,多所搏擊,知名當時,皆死於獄中。
中常侍の蘇康、管霸らは、忠良な人を陥れる。大司農の劉祐、廷尉の馮緄、河南尹の李膺らは、罪をうける。陳蕃は、劉祐らを許せという。桓帝はゆるさず。
ときに小黃門の趙津、南陽の悪党・張汜らは、宦官とともに違法する。太原太守の劉シツ、南陽太守の成瑨は、違法した人を殺す。2人の太守は、宦官のせいで棄市される。
山陽太守の翟超は、中常侍の侯覽から財産をうばう。東海相の黄浮は、下邳令の徐宣を誅殺した。翟超、黄浮は、髡鉗され、輸作左校された。
陳蕃は、司徒の劉矩、司空の劉茂とともに、ただしい官人を救おうとした。桓帝はよろこばず。陳蕃だけ、ふたたび上疏した。
いよいよ桓帝は怒った。宦官は、陳蕃を危害をくわえたい。陳蕃の長史より以下、罪を受けそうだ。だが陳蕃は名臣なので、危害をくわえられず。
第一次・党錮の禁、霊帝の即位
延熹九年(166)、李膺らは、党事で下獄された。陳蕃は諌めた。「さきの司隸校尉の李膺、太僕の杜密、太尉掾の范滂らは、正しい」と。桓帝は、陳蕃がキツいので、陳蕃を罷免した。
靈帝即位,竇太后複優詔蕃曰:「蓋褒功以勸善,表義以厲俗,無德不報,《大雅》所歎。太傅陳蕃,輔弼先帝,出內累年。忠孝之美,德冠本朝;謇愕之操,華首彌固。今封蕃高陽鄉侯,食邑三百戶。」蕃上疏讓曰:(中略) 竇太后不許,蕃複固讓,章前後十上,竟不受封。
永康元年(167)、桓帝は崩じた。竇皇后が臨朝した。「さきの太尉・陳蕃を、太傅とし、録尚書事させる」と。いま、皇帝がいない。尚書たちは、出仕しない。陳蕃は尚書たちを劾めた。尚書は、出仕した。
霊帝が即位した。竇太后は、陳蕃をいたわり、高陽郷侯、食邑三百戸とする。陳蕃は、10回もことわった。
竇武とともに、竇太后にクーデター
(中略) 言侯覽、曹節、公乘昕、王甫、鄭颯等與趙夫人諸女尚書並亂天下。陛下前始攝位,順天行誅,蘇康、管霸並伏其辜。」太后不納,朝廷聞者莫不震恐。蕃因與竇武謀之,語在《武傳》。
はじめ桓帝は、田貴人を皇后とした。陳蕃は、良家の竇氏を、皇后に推した。陳蕃と、竇太后の父・竇武は、霊帝の朝廷を主催した。陳蕃は、霊帝の乳母・趙嬈、中常侍の曹節、王甫がウザい。陳蕃は、竇太后を諌めた。
「侯覧、曹節、公乘昕、王甫、鄭颯らが天下を乱している。彼ら宦官を、蘇康、管霸のように殺せ」と。竇太后は納れず。天下はおそれた。陳蕃と竇武は、クーデターをたくらむ。竇武伝にくわしい。
クーデターがバレた。曹節は、詔をいつわり、竇武を殺した。陳蕃は70余歳だ。官属80余人をひきい、叫ぶ。「大将軍の竇武が国をまもるのに、宦官が謀反した。なぜ竇武に罪があるか」と。宦官の王甫は言った。「霊帝が即位したばかりなのに、竇武はゼイタクした。陳蕃は、国家の重任にあるのに、なぜ竇武をかばうか」と。
陳蕃は抜刀し、王甫を叱った。数重に陳蕃をかこい、近寄れない。宦官は陳蕃をとらえ、黄門北寺獄で、その日のうちに殺した。
陳蕃の家属は比景に流された。宗族、門生、故吏は、みな禁錮された。
陳蕃の友・陳留の朱震が、陳逸をかばう
震字伯厚,初為州從事,奏濟陰太守單匡臧罪,並連匡兄中常侍車騎將軍超。桓帝收匡下廷尉,以譴超,超詣獄謝。三府諺曰:「車如雞棲馬如狗,疾惡如風朱伯厚。」
陳蕃の友人は、陳留の朱震だ。銍県の県令だ。陳蕃の死体をほうむる。朱震は、陳蕃の子・陳逸を甘陵の境界にかくまう。拷問されても、陳逸をかくす。黄巾で党人が大赦され、陳逸をはなす。陳逸は、魯国の国相となる。
陳震は、あざなを伯厚という。濟陰太守の單匡のワイロをあばく。單匡の兄は、中常侍の車騎将軍・単超である。桓帝は、單匡と単超をせめた。みな陳震をたたえた。
ながい諫言をはぶき、関連する事件と人物にしぼった。おわり。110420
【追記】mujinさんはいう。陳蕃爺のビジュアルイメージはもちろんチンパンジーですよねっ!ところで、陳蕃は汝南郡平輿のひとですが、同県の許靖が蜀に連れこんだ陳氏がいますよね。その辺になにか底流があるように感じます。