桓帝を諌め、竇太后の宦官に殺される
吉川版で、竇武伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
ながい諫言をはぶき、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
桓帝末、長女が皇后となり、財産をまく
竇武は、あざなを游平という。扶風の平陵の人だ。竇武は、安豐戴侯・竇融の玄孫だ。父の竇奉は、定襄太守(郡治は善無)。竇武は、沼沢にこもって学問する。関西で有名になる。
延熹八年(165)、長女が掖庭にはいる。桓帝の貴人となる。竇武は、郎中となる。165年冬、長女が皇后となる。竇武は、越騎校尉となる。166年冬、城門校尉となる。名士をまねき、ワイロせず。妻子は衣食がギリギリ。異民族のせいで、民は飢えた。竇武は、太学の書生や貧民に、財産をまく。
竇武の兄・虎賁中郎将の竇紹は、ゼイタク。竇武は、「兄のゼイタクは、私の罪だ」と言った。竇紹は、ゼイタクをやめた。
第一次・党錮の禁に抗議する
(前略) 梁、孫、寇、鄧雖或誅滅,而常侍黃門續為禍虐,(中略) 遂收前司隸校尉李膺、太僕杜密、禦史中丞陳翔、太尉掾范滂等逮考,連及數百人 (中略) 尚書令陳蕃,僕射胡廣,尚書朱、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳等,皆國之貞士,朝之良佐。尚書郎張陵、媯皓、苑康、楊喬、邊韶、戴恢等,文質彬彬,明達國典。(後略)
書奏,因以病上還城門校尉、槐裏侯印綬。帝不許,有詔原李膺、杜密等,自黃門北寺、若盧、都內諸獄,系囚罪輕者皆出之。
ときに国政は過失がある。宦官のせいで、李膺、杜密らが党錮された。永康元年(167)、李膺は上疏して、桓帝を諌めた。
「梁冀、孫寿(梁冀の妻)、寇栄、鄧万世、桓紀を誅滅させたが、宦官がひどい。さきの司隸校尉の李膺、太僕の杜密、禦史中丞の陳翔、太尉掾の范滂らは、党錮された。尚書令の陳蕃、僕射の胡廣、尚書の朱ウ、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳らは、朝廷をたすける士だ。尚書郎の張陵、媯皓、苑康、楊喬、邊韶、戴恢らは、國典にあかるい。用いよ」と。
上奏し、竇武は城門校尉、槐裏侯の印綬をかえした。桓帝はゆるさず。李膺、杜密をゆるし、罪のかるい人を釈放した。
霊帝の即位と、陳蕃とのたくらみ
167年冬、桓帝が崩じた。竇武は、侍御史する河間の劉鯈に、つぎの皇帝を検討させた。解瀆亭侯の劉宏があがる。竇武は竇太后に報告し、霊帝を即位させた。竇武は大将軍となり、つねに禁中にいる。霊帝を即位させたので、聞喜侯となる。
竇武の子・竇機は、渭陽侯、侍中。兄の子・竇紹は、鄠侯、步兵校尉。竇紹の弟・竇靖は、西郷侯、侍中、羽林左騎を監す。
竇武は、宦官がイヤ。太傅の陳蕃は、こっそり竇武に言った。「中常侍の曹節、王甫らは、桓帝のとき万民を苦しめた。誅殺したい」と。竇武も合意した。竇武は、同志を官位につけた。尹勳を尚書令、劉瑜を侍中、馮述を屯騎校尉とした。党錮をやめて、天下の名士を官位につけた。さきの司隸校尉の李膺、宗正の劉猛、太僕の杜密、廬江太守の朱ウを朝廷にならべた。さきの越巂太守の荀翌を從事中郎にした。潁川の陳寔を辟して、属とした。士大夫は、ワクワクした。
曹節と王甫にクーデターし、軍権に敗れる
たまたま5月に日食がある。陳蕃は竇武に言った。「李膺と杜密は、妻子まで禍いを受けた。乳母の趙夫人がウザい。わたし陳蕃は80歳だが、がんばる。日食にあわせ、宦官を殺そう」と。竇武は竇太后に言った。「宦官は財産をたくわえ、子弟を高位につける。宦官を殺そう」と。竇太后は反対した。「後漢には、ずっと宦官がいた。宦官を廃せない」と。
ちがうのは、このあと、袁紹が暴発するところだ。
竇武は、中常侍の管覇と蘇康を取り調べ、殺した。つぎは曹節を殺したいが、竇太后がゆるさない。竇武は、曹節を殺せない。
168年8月になった。劉瑜は天をみて、竇太后に言った。「姦人が、竇太后のそばにいる」と。劉瑜は、陳蕃と竇武に、クーデターをすすめた。
竇武は、朱ウを司隷校尉、劉祐を河南尹、虞祁を洛陽令とした。竇武は、黃門令の魏彪をやめ、竇武に親しい小黃門の山冰に代えた。山冰は、長樂尚書の鄭リツを北寺獄に送る。陳蕃は竇武に言った。「すぐ鄭リツを殺せ」と。しかし竇武は、すぐに鄭リツを殺さない。
竇武は命じて、山冰、尹勳、侍御史の祝瑨らに、鄭リツを調べさせた。曹節、王甫の名を自白した。尹勳、山冰は、曹節らをとらえた。劉瑜に内奏させた。
竇武が劉瑜にもたせた内奏は、長樂五官史の朱瑀に盗み見られた。朱瑀は内容に怒り、ウソを叫んだ。「竇武が、霊帝を廃そうとしている」と。曹節は、霊帝とその乳母を手におさめた。王甫を黄門令とし、持節させ、北寺獄にゆかせた。尹勳、山冰をとらえた。王甫は、山冰を殴り殺した。
宦官は、太后から璽書をとり、軍権をにぎる。竇武をとらえにゆく。とらえにきた使者を、竇武は殺した。竇武は、「宦官がそむいた」と軍士に言わせた。
宦官は、少府の周靖を、行車騎將軍、加節とする。護匈奴中郎將の張奐らと、五営の兵士をひきい、竇武を攻めた。夜、王甫は兵士をひきい、張奐とあわさる。翌朝、王甫は竇武を破った。竇武は自殺し、洛陽の都亭にさらされた。劉瑜、馮術は、三族みなごろし。竇武の家属を、日南にうつす。竇太后を雲台にうつす。
士大夫は、みなガッカリした。竇武の大将軍府で、掾をする桂陽の胡騰は、ひとりで竇武をとむらう。禁錮された。
竇武の孫・竇輔は、馬超に殺される
竇武の孫は、竇輔だ。このとき2歳。胡騰と、令史する南陽の張敞は、零陵の境界に逃がした。胡騰が、わが子といつわる。竇輔は、桂陽の孝廉にあがる。建安のとき、劉表が辟して、従事とする。竇姓にもどる。劉表が死ぬと、鄴県にうつる。曹操の丞相府に辟された。竇輔は、馬超を討ちにゆき、流矢で死んだ。
はじめ竇武の母は、竇武とともに、蛇を生んだ。竇武の母が死ぬと、蛇が悲しみにきた。吉祥だと思った。
張敞者,太尉溫之弟也。
竇武の孫・竇輔をたすけたのは、胡騰だ。あざなを子升という。桓帝が南陽に狩りをしたとき、胡騰は護駕從事となる。狩りは費用がかかる。胡騰は言った。「桓帝が荊州の南陽にいるなら、荊州刺史にも、司隷校尉とおなじ権限と部下をつけなさい」と。桓帝はみとめた。党錮が解けると、尚書となる。
張敞は、太尉する張温の弟だ。
陳蕃と竇武は、袁紹と何進の前例。ゆえに、竇武伝をやりました。桓帝の死後、桓帝の宦官にしりぞけられた士大夫を、任用しようとした人。確認できました。『後漢書』は、ことさら竇武の「清さ」を強調し、余計なコメントがはさまる。しかし清濁の区別はなく、ただ、そういう派閥の人でしたと。おわり。110421