表紙 > ~後漢 > 『後漢書』竇武伝を抄訳し、桓帝と霊帝初を整理

桓帝を諌め、竇太后の宦官に殺される

吉川版で、竇武伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
ながい諫言をはぶき、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

桓帝末、長女が皇后となり、財産をまく

竇武字游平,扶風平陵人,安豐戴侯融之玄孫也。父奉,定襄太守。武少以經行著稱,常教授于大澤中,不交時事,名顯關西。

竇武は、あざなを游平という。扶風の平陵の人だ。竇武は、安豐戴侯・竇融の玄孫だ。父の竇奉は、定襄太守(郡治は善無)。竇武は、沼沢にこもって学問する。関西で有名になる。

延熹八年,長女選入掖庭,桓帝以為貴人,拜武郎中。其冬,貴人立為皇后,武遷越騎校尉,封槐裏侯,五千戶。明年冬,拜城門校尉。在位多辟名士,清身疾惡,禮賂不通,妻子衣食裁充足而已。是時,羌蠻寇難,歲儉民饑,武得兩宮賞賜,悉散與太學諸生,及載肴糧于路,丐施貧民。兄子紹,為虎賁中郎將,性疏簡奢侈。武每數切厲相戒,猶不覺悟,乃上書求退紹位,又自責不能訓導,當先受罪。由是紹更遵節,大小莫敢違犯。

延熹八年(165)、長女が掖庭にはいる。桓帝の貴人となる。竇武は、郎中となる。165年冬、長女が皇后となる。竇武は、越騎校尉となる。166年冬、城門校尉となる。名士をまねき、ワイロせず。妻子は衣食がギリギリ。異民族のせいで、民は飢えた。竇武は、太学の書生や貧民に、財産をまく。
竇武の兄・虎賁中郎将の竇紹は、ゼイタク。竇武は、「兄のゼイタクは、私の罪だ」と言った。竇紹は、ゼイタクをやめた。

第一次・党錮の禁に抗議する

時,國政多失,內官專寵,李膺、杜密等為黨事考逮。永康元年,上疏諫曰:
(前略) 梁、孫、寇、鄧雖或誅滅,而常侍黃門續為禍虐,(中略) 遂收前司隸校尉李膺、太僕杜密、禦史中丞陳翔、太尉掾范滂等逮考,連及數百人 (中略) 尚書令陳蕃,僕射胡廣,尚書朱、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳等,皆國之貞士,朝之良佐。尚書郎張陵、媯皓、苑康、楊喬、邊韶、戴恢等,文質彬彬,明達國典。(後略)
書奏,因以病上還城門校尉、槐裏侯印綬。帝不許,有詔原李膺、杜密等,自黃門北寺、若盧、都內諸獄,系囚罪輕者皆出之。

ときに国政は過失がある。宦官のせいで、李膺、杜密らが党錮された。永康元年(167)、李膺は上疏して、桓帝を諌めた。
「梁冀、孫寿(梁冀の妻)、寇栄、鄧万世、桓紀を誅滅させたが、宦官がひどい。さきの司隸校尉の李膺、太僕の杜密、禦史中丞の陳翔、太尉掾の范滂らは、党錮された。尚書令の陳蕃、僕射の胡廣、尚書の朱ウ、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳らは、朝廷をたすける士だ。尚書郎の張陵、媯皓、苑康、楊喬、邊韶、戴恢らは、國典にあかるい。用いよ」と。

名前がたくさん出てくる。順番にチェックしたい。

上奏し、竇武は城門校尉、槐裏侯の印綬をかえした。桓帝はゆるさず。李膺、杜密をゆるし、罪のかるい人を釈放した。

桓帝の末期。陳蕃は竇氏を皇后にした。陳蕃と竇武は、桓帝の宦官と対決した。皇后選びを利用して、陳蕃が自派の人間をおくりこんだようなもの。竇武は、桓帝の時代、あまり官位がたかくない。慎みぶかいのでなく、桓帝と対立したからだろう。


霊帝の即位と、陳蕃とのたくらみ

其冬,帝崩,無嗣。武召侍御史河間劉EA52,參問其國中王子侯之賢者,EA52稱解瀆亭侯宏。武入白太后,遂征立之,是為靈帝。拜武為大將軍,常居禁中。帝既立,論定策功,更封武為聞喜侯;子機渭陽侯拜侍中;兄子紹鄠侯,遷步兵校尉;紹弟靖西鄉侯,為侍中,監羽林左騎。

167年冬、桓帝が崩じた。竇武は、侍御史する河間の劉鯈に、つぎの皇帝を検討させた。解瀆亭侯の劉宏があがる。竇武は竇太后に報告し、霊帝を即位させた。竇武は大将軍となり、つねに禁中にいる。霊帝を即位させたので、聞喜侯となる。
竇武の子・竇機は、渭陽侯、侍中。兄の子・竇紹は、鄠侯、步兵校尉。竇紹の弟・竇靖は、西郷侯、侍中、羽林左騎を監す。

霊帝を選んだのは、直接的に、竇武。太后の一族の仕事。


武既輔朝政,常有誅剪宦官之意,太傅陳蕃亦素有謀。時共會朝堂,蕃私謂武曰:「中常侍曹節、王甫等,自先帝時操弄國權,濁亂海內,百姓匈匈,歸咎於此。今不誅節等,後必難圖。」武深然之。蕃大喜,以手推席而起。武於是引同志尹勳為尚書令,劉瑜為侍中,馮述為屯騎校尉;又征天下名士廢黜者前司隸李膺、宗正劉猛、太僕杜密、廬江太守朱等,列於朝廷,請前越巂太守荀翌為從事中郎,辟潁川陳寔為屬:共定計策。於是天下雄俊,知其風旨,莫不延頸企踵,思奮其智力。

竇武は、宦官がイヤ。太傅の陳蕃は、こっそり竇武に言った。「中常侍の曹節、王甫らは、桓帝のとき万民を苦しめた。誅殺したい」と。竇武も合意した。竇武は、同志を官位につけた。尹勳を尚書令、劉瑜を侍中、馮述を屯騎校尉とした。党錮をやめて、天下の名士を官位につけた。さきの司隸校尉の李膺、宗正の劉猛、太僕の杜密、廬江太守の朱ウを朝廷にならべた。さきの越巂太守の荀翌を從事中郎にした。潁川の陳寔を辟して、属とした。士大夫は、ワクワクした。

本紀みたいな内容。ほかの列伝へのリンク集である。


曹節と王甫にクーデターし、軍権に敗れる

會五月日食,蕃複說武曰:「昔蕭望之困一石顯,近者李、杜諸公禍及妻子,況今石顯數十輩乎!蕃以八十之年,欲為將軍除害。今可且因日食,斥罷宦官,以塞天變。又趙夫人及女尚書,旦夕亂太后,急宜退絕。惟將軍慮焉。」武乃白太后曰:「故事,黃門、常侍但當給事省內,典門戶,主近署財物耳。今乃使與政事而任權重,子弟布列,專為貪暴。天下匈匈,正以此故。宜悉誅廢,以清朝廷。」太后曰:「漢來故事世有,但當誅其有罪,豈可盡廢邪?」時,中常侍管霸頗有才略,專制省內。武先白誅霸及中常侍蘇康等,竟死。武複數白誅曹節等,太后B37D豫未忍,故事久不發。

たまたま5月に日食がある。陳蕃は竇武に言った。「李膺と杜密は、妻子まで禍いを受けた。乳母の趙夫人がウザい。わたし陳蕃は80歳だが、がんばる。日食にあわせ、宦官を殺そう」と。竇武は竇太后に言った。「宦官は財産をたくわえ、子弟を高位につける。宦官を殺そう」と。竇太后は反対した。「後漢には、ずっと宦官がいた。宦官を廃せない」と。

のちに何進が、まったく同じことをする。外戚が、身内の太后に「宦官を殺したい」という。太后が「後漢の制度だから」と言って、ことわる。外戚が失敗して、宦官に殺される。
ちがうのは、このあと、袁紹が暴発するところだ。

竇武は、中常侍の管覇と蘇康を取り調べ、殺した。つぎは曹節を殺したいが、竇太后がゆるさない。竇武は、曹節を殺せない。

至八月,太白出西方。劉瑜素善天官,惡之,上書皇太后曰:「太白犯房左驂,上將星入太微,其占宮門當閉,將相不利,奸人在主傍。願急防之。」又與武、蕃書,以星辰錯繆,不利大臣,宜速斷大計。武、蕃得書將發,於是以朱為司隸校尉,劉祐為河南尹,虞祁為洛陽令。武乃奏免黃門令魏彪,以所親小黃門山冰代之。使冰奏素狡猾尤無狀者長樂尚書鄭B366,送北寺獄。蕃謂武曰:「此曹子便當收殺,何複考為!」武不從,令冰與尹勳、侍御史祝瑨雜考B366,辭連及曹節、王甫。勳、冰即奏收節等,使劉瑜內奏。

168年8月になった。劉瑜は天をみて、竇太后に言った。「姦人が、竇太后のそばにいる」と。劉瑜は、陳蕃と竇武に、クーデターをすすめた。
竇武は、朱ウを司隷校尉、劉祐を河南尹、虞祁を洛陽令とした。竇武は、黃門令の魏彪をやめ、竇武に親しい小黃門の山冰に代えた。山冰は、長樂尚書の鄭リツを北寺獄に送る。陳蕃は竇武に言った。「すぐ鄭リツを殺せ」と。しかし竇武は、すぐに鄭リツを殺さない。

最後には、穏便にふみとどまる外戚と、過激派の士人。このペアが、宦官に対してクーデターを起こす。陳蕃の役割は、のちに袁紹が演じる。袁紹は、陳蕃を意識していたかもなあ。袁紹の「奔走の友」は、陳蕃の人脈だし。

竇武は命じて、山冰、尹勳、侍御史の祝瑨らに、鄭リツを調べさせた。曹節、王甫の名を自白した。尹勳、山冰は、曹節らをとらえた。劉瑜に内奏させた。

時,武出宿歸府,典中書者先以告長樂五官史朱瑀。瑀盜發武奏,罵曰:「中官放縱者,自可誅耳。我曹何罪,而當盡見族滅!」因大呼曰:「陳蕃、竇武奏白太后廢帝,為大逆!」乃夜召素所親壯健者長樂從官史共普、張亮等十七人,C77C血共盟誅武等。曹節聞之,驚起,白帝曰:「外間切切,請出禦德陽前殿。」令帝拔劍踴躍,使乳母趙嬈等擁衛左右,取C97D信,閉諸禁門。召尚書官屬,脅以白刃,使作詔板。拜王甫為黃門令,持節至北寺獄,收尹勳、山冰。冰疑,不受詔,甫格殺之。遂害勳,出送B366。還共劫太后,奪璽書。令中謁者守南宮,閉門,絕複道。使鄭B366等持節,及侍禦使、謁者捕收武等。武不受詔,馳入步兵營,與紹共射殺使者。召會北軍五校士數千人屯都亭下,令軍士曰:「黃門常待反,盡力者封侯重賞。」

竇武が劉瑜にもたせた内奏は、長樂五官史の朱瑀に盗み見られた。朱瑀は内容に怒り、ウソを叫んだ。「竇武が、霊帝を廃そうとしている」と。曹節は、霊帝とその乳母を手におさめた。王甫を黄門令とし、持節させ、北寺獄にゆかせた。尹勳、山冰をとらえた。王甫は、山冰を殴り殺した。
宦官は、太后から璽書をとり、軍権をにぎる。竇武をとらえにゆく。とらえにきた使者を、竇武は殺した。竇武は、「宦官がそむいた」と軍士に言わせた。

詔以少府周靖行車騎將軍,加節,與護匈奴中郎將張奐率五營士討武。夜漏盡,王甫將虎賁、羽林、廄騶、都候、劍戟士,合千餘人,出屯朱雀掖門,與奐等合。明旦悉軍闕下,與武對陣。甫兵漸盛,使其士大呼武軍曰:「竇武反,汝皆禁兵,當宿衛宮省,何故隨反者乎?先降有賞!」營府素畏服中官,於是武軍稍稍歸甫。自旦至食時,兵降略盡。武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺,梟首洛陽都亭。收捕宗親、賓客、姻屬,悉誅之,及劉瑜、馮述,皆夷其族。徒徙家屬日南,遷太后于雲台。

宦官は、少府の周靖を、行車騎將軍、加節とする。護匈奴中郎將の張奐らと、五営の兵士をひきい、竇武を攻めた。夜、王甫は兵士をひきい、張奐とあわさる。翌朝、王甫は竇武を破った。竇武は自殺し、洛陽の都亭にさらされた。劉瑜、馮術は、三族みなごろし。竇武の家属を、日南にうつす。竇太后を雲台にうつす。

當是時,凶豎得志,士大夫皆喪其氣矣。武府掾桂陽胡騰,少師事武,獨殯斂行喪,坐以禁錮。

士大夫は、みなガッカリした。竇武の大将軍府で、掾をする桂陽の胡騰は、ひとりで竇武をとむらう。禁錮された。

竇武の孫・竇輔は、馬超に殺される

武孫輔,時年二歲,逃竄得全。事覺,節等捕之急。胡騰及令史南陽張敞共逃輔於零陵界,詐雲已死,騰以為己子,而使聘娶焉。後舉桂陽孝廉。至建安中,荊州牧劉表聞而辟焉,以為從事,使還竇姓,以事列上。會表卒,曹操定荊州,輔與宗人徙居於鄴,辟丞相府。從征馬超,為流矢所中死。

竇武の孫は、竇輔だ。このとき2歳。胡騰と、令史する南陽の張敞は、零陵の境界に逃がした。胡騰が、わが子といつわる。竇輔は、桂陽の孝廉にあがる。建安のとき、劉表が辟して、従事とする。竇姓にもどる。劉表が死ぬと、鄴県にうつる。曹操の丞相府に辟された。竇輔は、馬超を討ちにゆき、流矢で死んだ。

初,武母產武而並產一蛇,送之林中。後母卒,及葬未窆,有大蛇自榛草而出,徑至喪所,以頭擊柩,涕血皆流,俯仰蛣屈,若哀泣之容,有頃而去。時人知為竇氏之祥。

はじめ竇武の母は、竇武とともに、蛇を生んだ。竇武の母が死ぬと、蛇が悲しみにきた。吉祥だと思った。

騰字子升,初,桓帝巡狩南陽,以騰為護駕從事。公卿貴戚車騎萬計,徵求費役,不可勝極。騰上言:「天子無外,乘輿所幸,即為京師。臣請以荊州刺史比司隸校尉,臣自同都官從事。」帝從之。自是肅然,莫敢妄有幹欲,騰以此顯名。黨錮解,官至尚書。
張敞者,太尉溫之弟也。

竇武の孫・竇輔をたすけたのは、胡騰だ。あざなを子升という。桓帝が南陽に狩りをしたとき、胡騰は護駕從事となる。狩りは費用がかかる。胡騰は言った。「桓帝が荊州の南陽にいるなら、荊州刺史にも、司隷校尉とおなじ権限と部下をつけなさい」と。桓帝はみとめた。党錮が解けると、尚書となる。
張敞は、太尉する張温の弟だ。

陳蕃と竇武は、袁紹と何進の前例。ゆえに、竇武伝をやりました。桓帝の死後、桓帝の宦官にしりぞけられた士大夫を、任用しようとした人。確認できました。『後漢書』は、ことさら竇武の「清さ」を強調し、余計なコメントがはさまる。しかし清濁の区別はなく、ただ、そういう派閥の人でしたと。おわり。110421