表紙 > 人物伝 > 袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝

01) 南陽太守・王暢の人脈

「魏志」巻6より、劉表伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

袁術と劉表がおなじ点。長安の献帝は尊重するが、許都の献帝を認めない。みずから皇帝になり、献帝に代わろうとした。
袁術と劉表がちがう点。袁術は荊州北部から、中原に興味がある。劉表は荊州中南部から、交州にも興味がある。同じ荊州を領有しながら、戦略のベクトルが正反対。・・・これを、確認します。

八俊の一員が、南陽郡で人脈を築く

劉表字景升,山陽高平人也。少知名,號八俊。

劉表は、あざなを景升という。山陽郡の高平県の人だ。

山陽郡については、武帝紀の初平元年、建安18年に、盧弼が注釈した。王粲伝でも注釈した。
范曄『後漢書』劉表伝がいう。劉表は、魯の恭王の後裔だ。
ぼくは思う。荊州の劉表と、益州の劉焉は、同じ魯王から分岐している。血の貴さが同じだから、張り合ったに違いない。
周寿昌が章懐注をひく。恭王は、前漢の景帝の子だ。名を劉余という。
盧弼がいう。劉余は、魯の霊光殿で国を治めた。孔子の旧宅を壊し、壁中から古文経をえた。漢書に列伝がある。
ぼくは思う。孔子の研究を、大幅に前進させた人が、劉表の祖先だ。人格形成に、少なからず、影響しただろう。

劉表は、若くして名を知られた。八俊と呼ばれた。

盧弼は、『後漢書』の党錮伝から、八俊のメンバーや、ユニット名について考察を加える。つぎに裴松之は、張璠『漢紀』をひく。これにも盧弼が、長い注釈をつけた。
ぼくが読んだ感想としては「ひとつに決まらないのね」と。諸説ありすぎて、よく分からない。ともあれ、劉表が党錮に遭った儒教官僚と、同類に称されていた、ということは確認できた。
袁術は、清濁合わせ吞み、外戚・宦官と、付いたり離れたりする名門。劉表は、ひたすら清流を自任する潔癖な官僚。後漢の政治史において、系統がまるで違う。
これだけ確認し、八俊についての裴松之、盧弼は省略。
・・・劉表だけが、党錮を食らわなかったのは、なぜか。宦官へのパイプがあったのか。これ以上考えても、妄想にしかならない。やめる。笑


謝承後漢書曰:表受學於同郡王暢。暢為南陽太守,行過乎儉。表時年十七,進諫曰:「奢不僭上,儉不逼下,蓋中庸之道,是故蘧伯玉恥獨為君子。府君若不師孔聖之明訓,而慕夷齊之末操,無乃皎然自遺於世!」暢答曰:「以約失之者鮮矣。且以矯俗也。」

謝承『後漢書』がいう。劉表は、おなじ山陽郡の王暢から、学問を受けた。

范曄『後漢書』王キョウ伝がいう。王キョウは、あざなを伯宗という。山陽郡の高平県の人だ。世よ(代々)豪族だ。はじめ孝廉に挙げられ、汝南太守になった。学を好み、士を愛した。郡から、黄憲と陳蕃を見出した。のちに司空、太尉となった。王キョウは宦官を批判した。そしられたので、退職を願った。家で死んだ。
王キョウの子は、王暢だ。あざなを叔茂という。孝廉に挙げられ、太尉の陳蕃より、清方公正に挙げられた。南陽太守となった。豪族を取り締まった。豪族たちは、王暢に震えた。のちに司空になった。
王暢の子は、王謙である。大将軍・何進の長史となった。
王謙の子は、王粲である。文才で名を知られた。
盧弼が考える。劉表はすでに王暢に、学を受けた。同郷人のよしみを頼り、荊州に行ったのだ。
ぼくは思う。王暢の父は、あの陳蕃を推薦した人。王暢は、ぎゃくに陳蕃から、推薦された人。党錮のリーダーと密着した父子である。

王暢は、南陽太守となった。過度に倹約した。

范曄『後漢書』王暢伝がいう。南陽郡の豪族は、ゴージャスな生活をした。だが王暢は、つねに布衣(無官の人が着る、ボロい服)を着た。皮の布団に寝た。車馬が老朽しても、だましだまし使った。
謝承『後漢書』がいう。王暢は、魚肉を食べない。羊皮をまとった。車が壊れても直さず、馬が老いても代えない。
ぼくは思う。南陽郡は、光武帝・劉秀のときから、豪族が強い地域だったのですね。 豪族に対抗する手段として、王暢は、儒教的にステキな倹約をした。後漢の政治思想史にからめて、何か云えそうだ。笑

このとき劉表は、17歳。王暢を諌めた。
「目上を越えない程度にゼイタクをし、目下に劣らない範囲でケンヤクする。これを、中庸の道と呼ぶのでしょう。王暢さまは、ひとりで君子を気取って、他人を巻き込むことをしない。これでは、意味がないのではありませんか」

蓬伯玉と、管夷、叔斉は比喩なので、訳文から除きました。
劉表は、学問の先生に意見した。豪族はゼイタクすぎるし、王暢はケンヤクしすぎる。相互に交流がないことを批判した。

王暢は、劉表に答えた。
「ケンヤクしすぎて、身を滅ぼした例は、少ないのだ」

ケンヤクは王暢の保身だったか? 無事に南陽太守の任期を終えるため、豪族と張り合うことを避けた。
ここでは、劉表が南陽で活動し、南陽で人脈をつくっていた(かも知れない)ことを抑えておきたい。劉表は、王暢が豪族と交渉がないことを批判した。つまり劉表は、豪族と交渉すべきだと考えたのだ。きっと行動に移した。劉表は、単なる清流官人でない。政治的に、バランス感覚のある人だ。
190年、洛陽から逃げてきた袁術が、いきなり南陽を基盤にしても、安定しないわけだ。豪族が強いことには、変わりない。
袁術が南陽郡から、税を取り立てまくる。このとき袁術の懐を潤したのが、王暢さんのケンヤクの成果である。皮肉なことだなあ。


何進の部下として、袁氏に頭を下げたか

長八尺餘,姿貌甚偉。以大將軍掾為北軍中候。

劉表は、身長が8尺余。姿貌は甚偉だ。

范曄『後漢書』では、ルックスは「温偉」とする。

劉表は、大將軍掾として、北軍中候となった。

范曄がいう。劉表は、党錮を免れた。捕らえられなかった。
党錮が解除されると、大将軍の何進に召されて、掾となった。
『続百官志』がいう。北軍中候は、定員1名。600石。5営を監す。
『宋書』百官志がいう。漢代の京師には、南北の軍営があった。前漢の武帝が、中塁校尉をおき、北の軍営を掌握させた。光武帝がはぶいた。(以下、すごく長いので省略)
盧弼がいう。北軍中候は、崔琰伝の注釈にも見える。
ぼくは思う。劉表は何進の掾だから、袁紹や袁術と、同僚だったのだ。むしろ袁紹は、何進の右腕である。袁氏と劉表が会っていたとしたら(その可能性は高い)劉表が頭を下げただろう。


荊州刺史として、乗り込む!

靈帝崩,代王叡為荊州刺史。是時山東兵起,表亦合兵軍襄陽。

霊帝が死んだ。劉表は、王叡のかわりに荊州刺史になった。

范曄の劉表伝がいう。初平元年、長沙太守の孫堅は、荊州刺史の王叡を殺した。王叡のことは、「呉志」孫堅伝の注釈にもある。
恵棟は鎮南碑をひく。劉表は、大将軍府に召された。北軍中候にうつって100日で、賢くて有能だから、劉表は荊州刺史となった。
ぼくは思う。劉表が、南陽の豪族と仲がいいのを、董卓が見込んだのだろう。朝廷の意図は、孫堅の排除だろうね。(王叡が、悪逆?な董卓派であったとしても)刺史を殺すなんて、単なる反逆者なのだ。
また南陽にとって、孫堅は「外からの征服者」である。孫堅は、郡を越境して、軍を動かすことが好きである。

このとき山東は、兵を起こした。劉表もまた、兵を襄陽に集めた。

襄陽は、武帝紀の建安13年で盧弼が注釈した。
趙一清がいう。漢代の荊州の州治は、漢寿だ。初平2年、劉表が荊州刺史となったとき、漢寿から襄陽に移した。
ぼくは思う。漢寿は、孫堅&袁術の下で、入城できなかったか。
さらに思う。襄陽へ兵を集めたのは、董卓を討つためではない。東の諸侯から、襄陽を守るためかな。袁紹が、袁術の豫州を攻めた。劉岱と橋瑁が殺しあった。このように、東の諸侯同士は、油断ならないのです。


次回、劉表が袁術を、荊州から追い出します。