表紙 > 人物伝 > 袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝

02) 孫堅を殺し、李傕を助ける

「魏志」巻6より、劉表伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

55人の宗賊を、一網打尽にする

司馬彪戰略曰:劉表之初為荊州也,江南宗賊盛,袁術屯魯陽,盡有南陽之眾。吳人蘇代領長沙太守,貝羽為華容長,各阻兵作亂。

司馬彪『戦略』がいう。

盧弼が『戦略』の解説をしてる。気になったら、ここに戻ってきましょう。今日は興味がないので、省略。

劉表が荊州刺史となったとき、江南の宗賊が盛んだった。

章懐太子がいう。宗党がともに賊となった。
何焯がいう。南蛮のことである。漢末に、人民が結託して却略を行った。これを宗部という。盧弼がいう。ここの宗賊とは、南蛮の賊のことだろうが、どの民族なのかは分からない。
ぼくが思う。遺伝子的な人種は同じで、ただ後漢に敵対した人たちだ。もっといえば、荊州の北・南陽郡の豪族だって、宗賊に含まれただろう。

袁術は魯陽にいて、南陽の兵をすべて集めた。

盛弘之がいう。魯陽は、重険な、楚の北塞である。盧弼がいう。魯陽の地名は、毛カイ伝の韓暨のところに見える。

呉人の蘇代は、長沙太守を領した。

『郡国志』がいう。長沙の治所は、臨湘。
ぼくは思う。長沙太守は、孫堅だ。孫堅は、呉人だ。孫堅が豫州刺史に昇進したとき、同郷の蘇代を、後任に任命したのではないか。となれば、蘇代は、袁術派である。

貝羽は、華容県長を領した。

貝羽の身元は分からない。だが荊州は、孫堅&袁術の色に染まっている。密着はしていなくても、袁術派と見ていいだろう。

おのおの劉表の兵を阻み、荊州で乱をなした。

表初到,單馬入宜城,而延中廬人蒯良、蒯越、襄陽人蔡瑁與謀。

劉表は荊州に到着し、単騎で宜城に入った。

宜城は、明帝紀の景初元年に、盧弼が注釈した。
章懐太子がいう。宜城は、南郡に属す。もとはエンといったが、恵帝3年に宜城と改めた。

劉表は、中ロの蒯良と蒯越を招いた。

『郡国志』がいう。荊州の南郡にある中ロは、侯国である。
『襄陽キ旧伝』がいう。むかしロは異民族が住んだ。魏は、襄陽郡に編入した。
恵棟がいう。蒯良は、あざなを子柔という。蒯越は、あざなを異度という。あとに引く『傅子』に見える。

劉表は、襄陽の蔡瑁を招いた。ともに謀った。

『襄陽キ旧伝』がいう。蔡瑁は、あざなを徳珪という。性は豪、自ら喜ぶ。若いとき、曹操と親しかった。蔡瑁は現地の有力豪族で、家がとても栄えた。蔡諷の姉は、太尉の張温に嫁いだ。長女は、黄承彦の妻だ。
盧弼がいう。黄承彦の娘は、諸葛亮の妻だ。
末の娘は、劉表に嫁いだ。これが蔡瑁の姉である。
ぼくは思う。『襄陽キ旧伝』は、地元の豪族をほめる本だ。婚姻関係はウソを書きにくいが、曹操との親しさや、豪邸の描写などは割り引いたほうが、いいだろうね。


表曰:「宗賊甚盛,而眾不附,袁術因之,禍今至矣!吾欲徵兵,恐不集,其策安出?」良曰:「眾不附者,仁不足也,附而不治者,義不足也;苟仁義之道行,百姓歸之如水之趣下,何患所至之不從而問興兵與策乎?」表顧問越,越曰:「治平者先仁義,治亂者先權謀。兵不在多,在得人也。袁術勇而無斷,蘇代、貝羽皆武人,不足慮。宗賊帥多貪暴,為下所患。越有所素養者,使示之以利,必以眾來。君誅其無道,撫而用之。一州之人,有樂存之心,聞君盛德,必繈負而至矣。兵集眾附,南據江陵,北守襄陽,荊州八郡可傳檄而定。術等雖至,無能為也。」表曰:「子柔之言,雍季之論也。異度之計,臼犯之謀也。」

劉表は云った。
「宗賊が盛んだ。兵士は、私に味方しない。袁術がこの状況に乗じ、いまに私は禍いを受けるだろう。私は、兵を集めたい。だが、集まらないことを恐れる。どうしたらいいか」
蒯良は云った。
仁義を施せば、みな劉表さんに味方します」
蒯越は云った。
権謀を使えば、みな劉表さんに味方します。袁術は、勇気がありますが、決断ができません。蘇代や貝羽は、ただの武人です。敵に数えることはありません。南は江陵により、北は襄陽を守れば、荊州の8郡は定まるでしょう。袁術らが駆けつけても、打ち手はありません」

8郡について、盧弼が史料を多くひく。長いから省略。章陵郡の有無によって、7郡になったり8郡になったり。この章陵郡は、『資治通鑑』では蒯越が太守となる場所だ。

劉表は、蒯越を採用した。

古典のたとえ話は、気が向いたら、また後日。


遂使越遣人誘宗賊,至者五十五人,皆斬之。襲取其眾,或即授部曲。唯江夏賊張虎、陳生擁眾據襄陽,表乃使越與龐季單騎往說降之,江南遂悉平。

劉表は、宗賊55人を招いた。

范曄『後漢書』では15人を招いた。

宗賊を、すべて斬った。宗賊がつれている部曲を、劉表は奪った。ただ、江夏郡の賊・張虎と陳生だけは、ノコノコ殺されに来なかった。張虎たちは襄陽に拠った。劉表は、蒯越とホウ季を単騎で行かせ、説得して張虎を降らせた。

ホウ姓が気になる。ホウ徳公とか、ホウ統とかの親戚?
孫堅は、荊州の在地勢力を殺しまくったから、評判が悪い。蒯越たちが劉表を迎えたのは、孫堅に対抗するためだろう。放っておくと孫堅は、蒯越や蔡瑁を殺しかねない。
蒯越が単騎で、張虎に説いた利害とは「孫堅に殺されるのがいいか、劉表に兵を貸すのがいいか」だろうね。まあ蒯越&劉表も、けっきょく宗賊を55人も殺したから、孫堅と同じなんだけど。
宗賊たちは、強いものになびく。孫堅が荊州にいれば、豪族は袁術に従いつづけた。だが孫堅は、洛陽を攻めたり、豫州にいたりする。孫堅は、荊州の抑えにならない。
袁術は荊州の平定に興味がなく、洛陽に目が向いている。だから荊州が安定する前に、孫堅を荊州の外に出した。ただし袁術は、劉表に比べて「失敗した」のではない。初めから方針が違うのだ。

江南は、ことごとく劉表に平定された。

『通鑑』がいう。初平元年、劉表は州治を襄陽にうつした。江南の郡県を、すべて平定した。
胡三省がいう。州治は、もとは武陵郡の漢寿だった。襄陽県は、南郡に属した。荊州には、長江の南に4郡ある。長沙、武陵、零陵、桂陽である。劉表は、荊州をもっぱら制した。
張本の范曄『後漢書』がいう。荊州の太守や県令は、劉表の威名を聞いて、印綬を解いて劉表に提出した。
恵棟がいう。印綬を解いたのは、長沙太守の蘇代や、華容長の貝羽である。 ぼくは思う。恵棟は、ちょっと短絡で強引である。笑


孫堅を殺し、李傕がまもる献帝を積極的に支持

袁術之在南陽也,與孫堅合從,欲襲奪表州,使堅攻表。堅為流矢所中死,軍敗,術遂不能勝表。

袁術は南陽にいる。孫堅と合わさり、劉表から荊州を奪おうとした。袁術は孫堅に、劉表を攻めさせた。孫堅は、流矢にあたり、死んだ。袁術軍は、劉表に勝てなった。

『後漢書』袁術伝がいう。劉表は襄陽に兵を集め、状況の変化を見守った。袁術は、袁紹と仲たがいした。袁紹と劉表は、結んだ。だから袁術は、孫堅に劉表を攻めさせた。黄祖が孫堅を殺した。
ぼくは思う。まだ荊州で日の浅い劉表が、袁紹への義理立てだけのために、袁術と戦うというリスクは、犯すまい。理由が必要だ。今回は、攻められたから応戦しただけだろうが。


李傕、郭汜入長安,欲連表為援,乃以表為鎮南將軍、荊州牧,封成武侯,假節。

李傕と郭汜は、長安に入った。劉表とむすび、長安を助けさせたい。だから李傕らは上表し、劉表を鎮南将軍、荊州牧とした。成武侯に封じ、節を假した。

劉表は、明確に董卓と戦っていない。むしろ、孫堅に乱された荊州を安定させるために、選ばれた。はじめから董卓派なのかも。劉表と李傕が協調するのは、自然な流れ。
上に書いたように、袁術は、董卓や李傕らを攻める強硬派。袁術が南陽から去れば、李傕や郭汜は大助かりだ。劉表は、よほど強く、李傕と同盟していたのかも。いま袁術を南陽から追い出したので、関中との通路が開けた。よけいに、献帝を助けやすい。
ちなみに。
陶謙が徐州牧になったのも、劉表と同じ動き。献帝の威光をつかって、地方支配を安定させようとしている。ただし陶謙は、いちど李傕と明確に敵対した。ただ、徐州と長安が離れているので、仲直りできただけかな。陶謙は劉表ほど、李傕と仲が良くない。消極的な同盟だ。


次回で劉表は、曹操が擁した、献帝の正統性を否定します。