表紙 > 人物伝 > 袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝

03) 張羨を平定し、天地を祭る

「魏志」巻6より、劉表伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

献帝が曹操にうつると、正統性を否定した

天子都許,表雖遣使貢獻,然北與袁紹相結。治中鄧羲諫表,表不聽。羲辭疾而退,終表之世。

献帝が許にうつると、劉表は献帝に貢献しつつ(曹操と同盟しつつ)北の袁紹と結んだ。治中の鄧羲は、劉表を諌めた。

范曄『後漢書』では、鄧羲の役職を「侍中従事」とする。
陳景雲がいう。侍中でなく、陳寿のように「治中」とすべきだ。
銭大昭がいう。このとき劉表は州牧だ。侍中というのは、中朝(皇帝のそば)の官位である。劉表のそばに、侍中がいるのはおかしい。

劉表は、鄧羲の諌めをゆるさず、袁紹と曹操との関係を維持した。

ぼくは思う。同じ献帝でも、李傕&郭汜が持つときと、曹操が持つときで、政治的な意味が違う。李傕らの正統性は、董卓の後継者ゆえ。しかし曹操の正統性は、新たに作らねばならない。
地理的な状況も、変わる。献帝が長安にいれば、劉表から見て、①袁紹との同盟と、②献帝への支持は、矛盾しなかった。しかし献帝が移ると、①袁紹を切るか、②献帝(曹操)を切るかの、二者択一を迫られた。曹操と袁紹は、隣接するからだ。劉表は、どちらかと云えば、袁紹を選んだのだろう。献帝を裏切るかたちになったから、治中の鄧羲に諌められた?
(ぼくの妄想では劉表は、袁紹に推戴され、皇位を目指した)
さて、
献帝に対する同じ変化が、袁術にもある。李傕らが献帝を持つときは、馬日磾を囲い込むなど、朝廷の影響力を利用しようとした。だが曹操が献帝を持ったら、献帝を無視。みずから袁術が皇帝を名乗った。
劉表と袁術が、連動するはずがない。むしろ仇敵。その2人が連動した。つまりぼくらは、「曹操の献帝」の正統性のなさに、もっと注目すべきだ。

鄧羲は、病気だと云って退職した。鄧羲は、二度と劉表のために働かなかった。

漢晉春秋曰:表答羲曰:「內不失貢職,外不背盟主,此天下之達義也。治中獨何怪乎?」

『漢晋春秋』がいう。劉表は、鄧羲に答えた。
内(地理を接する河南)には、献帝への貢献を失わない。外(地理が離れた河北)には、同盟の主に叛かない。これは、天下の達義だ。

宋本版では「天下の達通」となっている。

鄧羲さんは、なぜ勝手に心配しているんだね」

『漢晋春秋』は小説だ。真剣に論じなくていいけど。笑
曹操と敵対しないのは、直接攻め込まれるのを、防ぐため。袁紹と敵対しないのは、袁紹が「劉表が皇帝になる」を助けてくれるから。
袁紹について。
はじめ袁紹は、おそらく叔父の袁隗の指示で、劉虞を推戴した。断られた。皇帝候補を見失った。仕方なく、あわよくば自分が皇帝になろうと、河北を平定した。光武帝の故事をふんだのだ。
曹操が献帝を手に入れた。近くにエサがあれば、欲しくなるのが人情。曹操に「献帝を鄄城にうつせ。オレが奪ってやるから」と命じた。断られた。そこで袁紹は、曹操がまもる献帝を否定するために、劉表に空手形を発行したと思う。「あなたを皇帝にしますよ」と。袁紹は本気ではないが、劉表と曹操は本気にしたのでは。
その証拠に。
以降、曹操は荊州を攻め始める。今まで曹操は、荊州に境界を接する豫州を、たびたび攻めた。いちども荊州と開戦しなかった。劉表も、南方に兵を回しているから、曹操と戦いたくなかった。
わざわざこのタイミングで開戦するのは、曹操が献帝の正統をつくるため、皇帝の候補となる劉表を、殺すニーズが生じたからだ。


北の張済、南の張羨:劉表の荊州平定が完了

張濟引兵入荊州界,攻穰城,為流矢所中死。荊州官屬皆賀,表曰:「濟以窮來,主人無禮,至於交鋒,此非牧意,牧受吊,不受賀也。」使人納其眾;眾聞之喜,遂服從。

張済が、兵をひいて荊州の国境に入った。張済は、穰城を攻めた。流矢にあたり、張済は死んだ。
荊州の官属は、みな劉表を祝った。劉表は云った。
「張済は、食料に困って、荊州に来たのだ。しかし礼を尽くさず、逆に交戦してしまった。私の本意ではない。私は張済について、弔問は受けても、祝辞は受けないよ」

ぼくは思う。張済が荊州に入ったのは、主義主張に拠らない。ただ食べたかっただけ。兵の頭数がほしい劉表は、歓迎あるのみ。
ここで分かるのは、関中と荊州の近さだ。距離的にも心理的にも、近いのだ。困ったから荊州に落ちた。
もっとも、今日ぼくは、劉表が董卓に近いと読む。だとすれば、劉表の臣が、董卓の旧将を殺したのは、主義主張から見ても失敗である。

劉表は、張済の兵を収容した。

范曄『後漢書』劉表伝がいう。建安元年、驃騎将軍の張済は、関中から南陽ににげた。穰城を攻め、死んだ。
章懐太子が『献帝春秋』をひく。賈詡が張済についている。劉表の襄陽太守は、張済を受け入れず、攻めた。張済の従子・張繍は、兵をおさめて退いた。劉表は、張済を殺したことを自責した。劉表は、張繍を襄陽においた。張繍を、北藩とした。
「魏志」賈詡伝がいう。賈詡は張繍に、劉表と連なれと説いた。
賈詡伝がひく『傅子』がいう。賈詡は劉表についてコメントした。「平世なら、三公になる才能がある。だが乱世には、ついていけない人だ」

兵たちは喜び、劉表に服従した。

張繍と賈詡が、曹操をふせぐ先兵となります。


長沙太守張羨叛表,表圍之連年不下。羨病死,長沙複立其子懌,表遂攻並懌。

長沙太守の張羨が、劉表に反した。

盧弼がひく。長沙太守の孫堅は、長沙郡の桓階を、孝廉に推挙した。孫堅が劉表に殺された。桓階は張羨に、劉表を拒めと説いた。
ぼくが「魏志」桓階伝をひく。桓階は孫堅の遺体を引き取った。
まえ満田剛先生のイベントに参加したとき、桓階は現地の異民族(宗賊)だと仰った。ニュアンスがちょっと違うかも。ともかく劉表をこばむ、現地の抵抗勢力だと。
桓階が孫堅を支持したとは、桓階が、袁術の荊州支配を支持したに等しい。袁術の支配が、0点だったわけではないと分かる。袁術の時代を懐かしんで、劉表をこばみ続けたとか、そんな話はできないか。袁氏は異民族に寛容だから。荊州蛮にも慕われた袁術、、とか。
・・・孝廉に挙げてもらった、孫堅への個人的な恩かも知れないが。笑

劉表は連年、張羨を包囲したが、降せない。張羨が病死した。長沙郡では、張羨の子・張懌を立てた。張懌は、劉表に負けた。

范曄『後漢書』劉表伝がいう。長沙太守の張羨は、長沙、零陵、桂陽の3郡を率いて、劉表に反した。劉表は張羨を破った。
周寿昌がいう。張羨や病死し、子の張懌のとき、劉表に負けたのだ。范曄は、まちがっている。
ぼくは思う。長沙郡と豫章郡は、陸路でつながる。劉繇や華歆らと、張懌を結びつけて・・・というのは、ちょっと妄想が過ぎるかなあ。笑


英雄記曰:張羨,南陽人。先作零陵、桂陽長,甚得江 、湘間心,然性屈強不順。表薄其為人,不甚禮也。羨由是懷恨,遂叛表焉。

『英雄記』がいう。張羨は、南陽郡の人だ。

一瞬だけでも、袁術の下に入ったかも知れない。

さきに零陵郡や桂陽郡で、県長になった。長江と湘水のあいだで、とても人心を得ていた。性質は、屈強で不順だった。劉表は、張羨の人となりを軽んじた。礼遇しなかった。

学者先生は、男伊達がキライだ。袁術と、気が合いそう?

張羨は、劉表に恨みをいだいた。ついに劉表に反した。

『通鑑考異』が「魏志」桓階伝をひく。曹操と袁紹が、官渡でぶつかった。桓階は張羨に「曹操について、劉表をこばめ」と説いた。
盧弼が『後漢書』を見るに、建安3年のことだろう。官渡の戦いの前だ。『通鑑考異』はおかしい。
ぼくは思う。石井仁『魏の武帝-曹操』で、曹操-張羨のラインを知りました。これは確定ではないらしいですね。盧弼は、もっともだ。


荊州皇帝の絶頂期

南收零、桂,北據漢川,地方數千里,帶甲十餘萬。

劉表は、南は、零陵と桂陽をおさめた。北は、漢水によった。領土は、數千里。武装した兵士は、十余萬人。

『通鑑』がいう。張懌を平定したのが、建安5年(199年)だ。劉表は、献帝への貢献を中止した。独自に天地を祭った。天子の乗り物で、移動した。
劉表が皇帝を気取ったことは、孔融伝にくわしい。
袁宏『後漢紀』がいう。張昭は孫策に代わって、袁術への絶縁状を書いた。その中で、南の劉表も、皇帝を気取っていると書いた。
ぼくは思う。曹操が献帝を手に入れたことで、群雄がよほど動揺したことが、ここからも分かる。逆に、190年ごろから、袁術が皇帝になる志を持っていた(表明していた)とするのは、間違いだ。


英雄記曰:州界群寇既盡,表乃開立學官,博求儒士,使綦毋闓、宋忠等撰五經章句,謂之後定。

『英雄記』がいう。荊州の国境で、敵対勢力がなくなった。劉表は、学官をひらき、ひろく儒士をもとめた。綦毋闓や宋忠らに、五経のテキストを検討させた。教科書を確定させた。

盧弼の注釈が、すごく長い。はぶく。
劉表の先生は、王暢だった。南陽太守の倹約家だ。その王暢の子・王粲が、荊州サロンのメンバーだというのは、興味深い。盧弼の注釈に、名がある。劉表は、王氏との関係が濃いなあ。


次回、劉表が死んで、劉琮が曹操への抗戦を主張します!