04) 傅巽が、劉琮に降伏を説得
「魏志」巻6より、劉表伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
官渡の戦いを観察し、韓嵩が罪を受ける
太祖與袁紹方相持於官渡,紹遣人求助,表許之而不至,亦不佐太祖,欲保江漢間,觀天下變。從事中郎韓嵩、別駕劉先說表。(中略)表雖外貌儒雅,而心多疑忌,皆此類也。劉備奔表,表厚待之,然不能用。
曹操と袁紹が、官渡で戦った。袁紹は人をやり、手を貸せと要求した。劉表はイエスと云いつつ、袁紹を助けない。また曹操をも助けない。長江と漢水のあいだを保ち、天下の変化を観ていた。従事中郎の韓嵩と、別駕の劉先は、劉表に説いた。
盧弼がいう。司隷校尉と州刺史の下にあるのは、従事史である。胡三省がいうような、従事中郎ではない。
范曄『後漢書』王允伝がいう。大将軍の何進は、王允を召して、従事中郎とした。(従事中郎は、大将軍の下にあった官名か)
(韓嵩と劉表の問答は、はぶきます)
劉表は、そとには儒雅を装ったが、うちには疑忌が多かった。韓嵩とのエピソードに見られるように、臣下を疑い、嫌ったのだ。
劉備が劉表を頼った。劉表は、劉備を厚くもてなした。だが、劉備を用いることができなかった。
劉表の死と、荊州の後継者争い
建安十三年,太祖征表,未至,表病死。
建安13年、曹操は劉表を攻めた。曹操がつく前に、劉表は病死した。
范曄『後漢書』劉表伝がいう。背中のデキモノのせいで死んだ。劉表は荊州を、20年ばかり治めた。潔白な性格だから、余分な遺産はなかった。
鎮南碑がいう。劉表は67歳で死んだ。
以後、袁術と関係ありませんが、陳寿だけでも読んでおきましょう。。
初,表及妻愛少子琮,欲以為後,而蔡瑁、張允為之支黨,乃出長子琦為江夏太守,眾遂奉琮為嗣。琦與琮遂為讎隙。
はじめ劉表と妻は、幼子の劉琮を愛した。劉琮を、後嗣にしたい。蔡瑁と張允を、劉琮の味方にした。長子の劉琦を、江夏太守にした。荊州の人たちは、劉琮を後嗣にした。劉琦と劉琮は、カタキ同士になった。
曹丕によれば、蔡瑁は劉表の妻の弟。張允は、劉表の甥らしい。へえ。
越、嵩及東曹掾傅巽等說琮歸太祖,琮曰:「今與諸君據全楚之地,守先君之業,以觀天下,何為不可乎?」巽對曰:「逆順有大體,強弱有定勢。以人臣而拒人主,逆也;以新造之楚而禦國家,其勢弗當也;以劉備而敵曹公,又弗當也。三者皆短,欲以抗王兵之鋒,必亡之道也。將軍自料何與劉備?」琮曰:「吾不若也。」巽曰:「誠以劉備不足禦曹公乎,則雖保楚之地,不足以自存也;誠以劉備足禦曹公乎,則備不為將軍下也。原將軍勿疑。」太祖軍到襄陽,琮舉州降。備走奔夏口。
蒯越と韓嵩と、東曹掾の傅巽らは、劉琮に説いた。
ぼくは思う。劉表の下の官位は、整合が取れない。劉表は皇帝を気取り、官位を発行しまくっていたのではないか。記述の混乱が多すぎる。
「劉琮さんは、曹操に降伏すべきです」
劉琮は云った。
「いま私は、諸君と荊州の全土を治めている。父の仕事をつぎ、天下を目指してはダメかな」
傅巽がこたえた。
「人臣のくせに、皇帝に逆らうのは、道理に合いません。荊州は新しい国で、曹操に敵いません。劉備は劉琮さんよりマシですが、劉備でも曹操に勝てません。この3点からして、曹操に降るべきです」
「逆」をうまく訳せず。順逆の逆だ。「反逆」とはニュアンスが違う。もっと不自然で、流れに逆らう感じ・・・
曹操が襄陽にきた。劉琮は、荊州をあげて降伏した。
劉備は、夏口に逃げた。
傅子曰:巽子公悌,朅偉博達,有知人鑒。辟公府,拜尚書郎,後客荊州,以說劉琮之功,賜爵關內侯。文帝時為侍中,太和中卒,巽在荊州,目龐統為半英雄,證裴潛終以清行顯;統遂附劉備,見待次於諸葛亮,潛位至尚書令,並有名德。及在魏朝,魏諷以才智聞,巽謂之必反,卒如其言。巽弟子嘏,別有傳。
『傅子』がいう。傅巽は、あざなを公悌という。朅偉で博達だ。人を見る目があった。三公の府に召され、尚書郎となった。のちに荊州の客となった。
劉琮に降伏を説いた功績により、關內侯を賜った。曹丕のとき、侍中となった。太和年間(227-232年)に死んだ。
傅巽が荊州にいるとき、龐統を「半英雄」だとコメントした。裴潛が出世すると見抜いた。のちに龐統は劉備に仕えたが、諸葛亮に次いだ。裴潛は、尚書令となった。傅巽のコメントどおりになった。魏諷の叛乱も、予言した。
傅巽の弟の子・傅嘏は、べつに列伝がある。
次回、曹操が荊州の人を登用。いちばん重要かも知れない。笑