表紙 > 人物伝 > 袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝

05) 荊州の鍵、元同僚の蒯越

「魏志」巻6より、劉表伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

曹操による、荊州人の任用

ここからは、曹操による後始末。ここで名前が出てくる人を、もし袁術が味方につけておけば、荊州を維持できたのに・・・という名士たちです。

太祖以琮為青州刺史、封列侯。蒯越等侯者十五人。越為光祿勳。嵩,大鴻臚。羲,侍中。先,尚書令。其餘多至大官。

曹操は、劉琮を青州刺史とした。列侯に封じた。

盧弼がいう。青州に移り、根拠地の荊州から、ひき離された。青州刺史から、諌議大夫になった。ついに土地なしの役職となった。
裴松之は『魏武故事』の命令を載せる。青州刺史よりも、諌議大夫がいいよな、というジャイアン的な念押しだ。ひどい内容だ。はぶきます。

蒯越ら、侯爵になったのは15人だ。蒯越は光禄勲になった。韓嵩は、大鴻臚になった。鄧羲は、侍中となった。劉先は、尚書令となった。その他、荊州の人は出世した。

趙一清がいう。『後漢書』竇武伝がいう。党錮に敗れた外戚・竇武の孫は、竇輔である。2歳だった。宦官の曹節らを逃れて、零陵に隠れた。死んだとウソをついた。建安年間、劉表は竇輔を、従事とした。曹操が荊州を平定すると、竇輔と一族の人は、鄴に移住した。丞相府に召された。馬超の討伐に従い、流れ矢で死んだ。


◆蒯越について
傅子曰:越,蒯通之後也,深中足智,魁傑有雄姿。大將軍何進聞其名,辟為東曹掾。越勸進誅諸閹官,進猶豫不決。越知進必敗,求出為汝陽令,佐劉表平定境內,表得以強大。詔書拜章陵太守,封樊亭侯。荊州平,太祖與荀彧書曰:「不喜得荊州,喜得蒯異度耳。」建安十九年卒。臨終,與太祖書,讬以門戶。太祖報書曰:「死者反生,生者不愧。孤少所舉,行之多矣。魂而有靈,亦將聞孤此言也。」

『傅子』がいう。蒯越は、蒯通の後裔だ。大将軍の何進が召し、東曹掾とした。蒯越か何進に、宦官を殺せと勧めた。何進は決められない。蒯越は、何進が負けると悟った。汝陽令をねがい、洛陽を出た。劉表の荊州平定を助けた。

盧弼がいう。蒯通と出身地がちがう。移住したのだろう。
ぼくは思う。何進の臣なら、袁紹、袁術や劉表と同僚である。下で見るように、政治的な立場も、袁紹や袁術と近い。群雄-参謀と、区別して人物を見ては、実態を捉えられないかも。もと同僚なんだ。

章陵太守となった。

章陵郡というのが、ややこしい。もと南陽郡の一部。置いたり廃したりが激しい。盧弼は長々と注釈してる。興味がわいたら、戻ってきましょう。

曹操は荊州を平定すると、荀彧に手紙を書いた。「荊州を得たより、蒯越を得たことが嬉しい」と。建安19年、死んだ。

もし蒯越を味方にしたら、袁術は荊州を保てた。惜しい。
妄想します。何進の下、洛陽にいたとき、袁紹と蒯越は仲がよく、袁術は孤立していたか。友達が少なかったことが、袁術の失敗を方向づけた? 袁紹や曹操は「奔走の友」に恵まれたから、天下が取れたのです。曹操が丞相となっても、なお蒯越を重んじる理由も、これ。


◆韓嵩について

先賢行狀曰:嵩字德高,義陽人。少好學,貧不改操。知世將亂,不應三公之命,與同好數人隱居於酈西山中。黃巾起,嵩避難南方,劉表逼以為別駕,轉從事中郎。表郊祀天地,嵩正諫不從,漸見違忤。奉使到許,事在前注。荊州平,嵩疾病,就在所拜授大鴻臚印綬。

『先賢行狀』がいう。韓嵩は、あざなを徳高という。南陽郡の義陽県の人。三公に召されても断り、酈西山で学問をした。黄巾で荊州に避難した。劉表にせまられ、別駕になった。従事中郎に転じた。
劉表が天地を祭ったので、諌めた。曹操の許都に使者をやった。曹操が荊州を平らげたころ、病気だった。

もともと、劉表に仕える気がなかった人。袁術にとっては、毒にも薬にもならなかった人だろうね。
天子を祭る件。『後漢書』孔融伝や、「魏志」杜キ伝にある。


◆鄧羲について

先賢行狀曰:羲,章陵人。

『先賢行狀』がいう。鄧羲は、章陵郡の人だ。

蒯越が太守となった、うわさの章陵郡。蒯越の与党か。


◆劉先について

零陵先賢傳曰:先字始宗,博學強記,尤好黃老言,明習漢家典故。為劉表別駕,奉章詣許,見太祖。時賓客並會,太祖問先:「劉牧如何郊天也?」先對曰:「劉牧讬漢室肺腑,處牧伯之位,而遭王道未平,群凶塞路,抱玉帛而無所聘頫,修章表而不獲達禦,是以郊天祀地,昭告赤誠。」太祖曰:「群凶為誰?」先曰:「舉目皆是。」太祖曰:「今孤有熊羆之士,步騎十萬,奉辭伐罪,誰敢不服?」先曰:「漢道陵遲,群生憔悴,既無忠義之士,翼戴天子,綏甯海內,使萬邦歸德,而阻兵安忍,曰莫己若,既蚩尤、智伯複見於今也。」太祖嘿然。拜先武陵太守。荊州平,先始為漢尚書,後為魏國尚書令。

『零陵先賢傳』がいう。劉先は、あざなを始宗という。

出典は、地元の人材をほめる本だ。つまり、零陵郡の出身だと分かる。南方すぎて、袁術と直接は絡まないだろう。孫堅が叛乱を制圧したときに、恩恵をこうむったかなあ、と妄想するのみ。

劉先は、黄老を好んだ。漢の古典的なしきたりに詳しい。曹操に対して、劉表が天地を祭ることを、申し開いた。
「献帝の周りには、盗賊がいる。劉表から献帝へ、貢献の使者が届かない。盗賊は、武力を振るい、献帝をないがしろにする。盗賊とは、曹操さん、あなたのことだ。盗賊がいて、献帝への道が閉ざされていれば、劉表が皇帝になるしかないだろう」

こんなザックリは云っていませんが、要はこういうこと。

曹操は、黙ってしまった。
劉先は劉表により、武陵太守となった。荊州が平定されると、後漢の尚書、魏国の尚書令となった。

おわりに

まったく違うものは、比べられません。同じところと違うところが両方混ざっているから、比較が成立する。比較したら面白い。

1メートルと1尺は比べられる。長さの単位という共通点があるから。でも1メートルと1キログラムは比べられない。次元がちがう。


劉表と袁術を比べたら、面白いと思う。
2人の共通点は、まず荊州を領有したこと。次に、献帝が曹操に収まった瞬間に、自ら皇帝を目指したところ。劉表は未遂したが。関連して、官位を乱発したのも、同じだ。
違うのは、どこか。
袁術は董卓と敵対したが、劉表は董卓にちかい。
それから、今回の劉表伝には出てきませんが、交州の地方官を、劉表は任命した。「呉志」で読める。とことん南を目指した人でした。袁術がつねに北・洛陽を向いていたのと、対照的だ。
さらに袁術は、荊州北部、すでに後漢が蓄積した財産をつかった。劉表は、荊州の中南部、後漢に収まっていなかった財産をねらった。ここも対照的です。

袁術が寿春に移ってから、劉表との接点が見えてこず、話が面白くならない。でも、190年代の前半の群雄を鑑賞する上で、2人の比較は意味があると思うのです。100603