表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝50・蔡邕伝を抄訳し、『三国志』を補う

宦官と対決し、董卓を掣肘する

吉川版で、蔡邕伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。

蔡邕伝は、引用文がながくて、むずかしい。だから、はぶきます。引用文のない蔡邕伝なんて、価値が10分の1です。知ってます。でも敬遠して、地の文すら読まないよりは、いいかと。蔡邕について、理解が深まるかと。

祖先は王莽をこばみ、太傅の胡広に師事

蔡邕字伯喈,陳留圉人也。六世祖勳,好黃、老,平帝時為眉阝令。王莽初,授以B446戎連率。勳對印綬仰天歎曰:「吾策名漢室,死歸其正。昔曾子不受季孫之賜,況可事二姓哉?」遂攜將家屬,逃入深山,與鮑宣、卓茂等同不仕新室。父棱,亦有清白行,諡曰貞定公。

蔡邕は、あざなを伯喈という。陳留の圉県の人だ。6世の祖父・蔡勳は、黄老をこのむ。平帝のとき、郿県の県令となる。王莽のはじめ、厭戎連率(隴西太守)となる。蔡勳は、印綬をもらい、天をあおいだ。「死んでも、漢臣がいい。新室に仕えない」と、家属をつれ、山ごもり。鮑宣(『漢書』72)、卓茂(『後漢書』列伝15)とともに、新室に仕えず。

新室に仕えなかった祖先。誇りになるだろうなあ。

蔡邕の父・蔡棱は、行いが清白。貞定公と贈る。

邕性篤孝,母常滯病三年,邕自非寒暑節變,未嘗解襟帶,不寢寐者七旬。母卒,廬於塚側,動靜以禮。有菟馴擾其室傍,又木生連理,遠近奇之,多往觀焉。與叔父從弟同居,三世不分財,鄉党高其義。少博學,師事太傅胡廣。好辭章、數術、天文,妙操音律。

蔡邕の性質は、篤孝だ。母が3年ねこみ、よく看病した。叔父、從弟と同居して、3世代で財産を分割せず。郷党は、蔡邕を評価した。
太傅の胡廣に師事した。辭章、數術、天文,音律がうまい。

175年、『六経』を校定して、碑文を立てる

桓帝時,中常侍徐璜、左悺等五侯擅恣,聞邕善鼓琴,遂白天子,敕陳留太守督促發遣。邕不得已,行到偃師,稱疾而歸。閒居玩古,不交當世。感東方朔《客難》及楊雄、班固、崔駰之徒設疑以自通,乃斟酌群言,韙其是而矯其非,作《釋誨》以戒厲雲爾。

桓帝のとき、中常侍の徐璜、左悺ら、五侯が擅恣した。五侯は、蔡邕が鼓琴をうまいと聞いた。五侯は天子をつうじて陳留太守に命じ、蔡邕をつれてくる。蔡邕は、仮病でゆかず。東方朔(『漢書』65)が書いた『客難』や、楊雄(『漢書』87)、班固(列伝30)、崔駰(列伝42)の文書を検討し、『釋誨』を著した。

蔡邕の著作の引用がある。はぶく。ごめんなさい。


建寧三年,辟司徒橋玄府,玄甚敬待之。出補河平長。召拜郎中,校書東觀。遷議郎。邕以經籍去聖久遠,文字多謬,俗儒穿鑿,疑誤後學,熹平四年,乃與五官中郎將堂谿典,光祿大夫楊賜,諫議大夫馬日磾,議郎張馴、韓說,太史令單颺等,奏求正定《六經》文字。靈帝許之,邕乃自書丹於碑,使工鐫刻立於太學門外。於是後儒晚學,鹹取正焉。及碑始立,其觀視及摹寫者,車乘日千餘兩,填塞街陌。

建寧三年(170)、橋玄の司徒府に辟された。敬待された。

司徒でなく司空が正しい。『後漢書集解』、袁宏『後漢紀』より。

河平の県長となる。郎中となり、東觀で校書する。議郎にうつる。蔡邕が考えるに、經籍は誤りがおおい。熹平四年(175)、五官中郎將の堂谿典,光祿大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎張馴(列伝69)、韓說(列伝72)、太史令の單颺(列伝72)らと、『六經』を校定した。霊帝に許され、蔡邕の自書を碑文とした。太学の門外につくる。碑文を書き写す人が、1日に1千余両ならぶ。

初,朝議以州郡相黨,人情比周,乃制婚姻之家及兩州人士不得對相監臨。至是複有三互法,禁忌轉密,選用艱難。幽、冀二州,久缺不補。邕上疏曰 (省略)、書奏不省。

朝廷は、州郡の長官に、身内ばかり任命できないように、三互の法をつくる。姻戚ある両家、両州の人間が、たがいに相手の監察官になれない。幽州と冀州には、刺史になれる人材がいない。蔡邕は、三互の法をやめろと言った。用いられず。

霊帝が鴻都門学をひらき、蔡邕が諌める

初,帝好學,自造《皇羲篇》五十章,因引諸生能為文賦者。本頗以經學相招,後諸為尺牘及工書鳥篆者,皆加引召,遂至數十人。侍中祭酒樂松、賈護,多引無行趣勢之徒,並待制鴻都門下,熹陳方俗閭裏小事,帝甚悅之,待以不次之位。又市賈小民,為宣陵孝子者,複數十人,悉除為郎中、太子舍人。時頻有雷霆疾風,傷樹拔木,地震、隕雹、蝗蟲之害。又鮮卑犯境,役賦及民。六年七月,制書引咎,誥群臣各陳政要所當施行。邕上封事曰 (省略)

霊帝は、学問をこのみ、『皇羲篇』50章をつくる。鴻都門に人をあつめた。破格の位をあたえた。数十人を、郎中、太子舍人にした。

鴻都門学は、上谷浩一氏の「後漢政治史における鴻都門学-霊帝期改革の再評価のために-」で読んだ。霊帝は、自分の手足になって、政策をつくってくれる人材を集めたのだと。べつに、趣味に長けた人を集めた、お遊びサークルでない。上谷氏の論文で、この蔡邕伝の史料が、元ネタになっていた。
上谷浩一氏の3論文を読み、霊帝&董卓を改革と捉える

天災と鮮卑がつづく。六年(177)、霊帝は意見を求めた。蔡邕は上封した。

蔡邕は、7つのことを言ってる。『資治通鑑』を抄訳したとき、かろうじて抄訳した。これも、よほどザツだけど。司馬光が省略したものを、さらに短縮してる。
『資治通鑑』 177年、霊帝が鴻都門に人材を集める


書奏,帝乃親迎氣北郊,及行辟雍之禮。又詔宣陵孝子為舍人者,悉改為丞尉焉。光和元年,遂置鴻都門學,畫孔子及七十二弟子像。其諸生皆敕州郡三公舉用辟召,或出為刺史、太守,入為尚書、侍中,乃有封侯賜爵者,士君子皆恥與為列焉。

霊帝は、蔡邕の意見を読んだ。霊帝は、みずから北郊で迎氣した。辟雍の禮をする。宣陵の孝子のうち、舍人となった人を、すべて丞、尉(県の長官の補佐)とした。
光和元年(178)、ついに鴻都門学をおく。孔子とその72弟子の像をおく。鴻都門の学生は、刺史と太守、三公に命じて、選ばせた。鴻都門を卒業すれば、地方で刺史や太守となり、中央で尚書、侍中となれる。侯爵に封じられる。士君子は、みな鴻都門と同僚になることを、恥とした。

霊帝は暗愚だから、趣味がうまい人を、高官につけた。立派な士大夫なら、そんなヤツラと一緒にされたら、かなわん。これが、范曄『後漢書』の価値観だそうで。霊帝を暗愚と、あたまから決めつけた記述。


霊帝が蔡邕に質問し、曹節が回答を盗み見る

時,妖異數見,人相驚擾。其年七月,詔召邕與光祿大夫楊賜、諫議大夫馬日磾、議郎張華、太史令單颺詣金商門,引入崇德殿,使中常侍曹節、王甫就問災異及消改變故所宜施行。邕悉心以對,事在《五行》、《天文志》。

ときに、しばしば妖異があらわれる。178年7月、詔して、蔡邕と、光祿大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎の張華、太史令の單颺を、金商門につれてくる。崇德殿に入れる。中常侍の曹節、王甫とともに、災異を消す方法を議論させた。蔡邕は、心をつくして答えた。『五行志』『《天文志』にある。

ぼくが省かなくても、はぶかれた。『続漢書』です。中常侍といっしょに、どんな議論ができたのだろう。中常侍を、批判してはいけないし。笑


又特詔問曰:「比災變互生,未知厥咎,朝廷焦心,載懷恐懼。每訪郡公卿士,庶聞忠言,而各存括囊,莫肯盡心。以邕經學深奧,故密特稽問,宜披露失得,指陳政要,勿有依違,自生疑諱。具對經術,以皁囊封上。」邕對曰 (省略)
章奏,帝覽而歎息,因起更衣,曹節於後竊視之,悉宣語左右,事遂漏露。其為邕所裁黜者,皆側目思報。

また霊帝は、とくに蔡邕に問うた。「災変がある。郡公や卿士に聞いても、よくわからない。蔡邕が、災変をなくす方法を教えてくれ」と。蔡邕は、こたえた。
霊帝は、蔡邕の回答をみて、嘆息した。トイレに行く。曹節らが、後ろから盗み見た。内容をバラした。蔡邕に批判された人は、蔡邕に復讐したい。

大鴻臚の劉郃とあらそい、朔北に徙刑

初,邕與司徒劉郃素不相平,叔父衛尉質又與將作大匠陽球有隙。球即中常侍程璜女夫也,璜遂使人飛章言邕、質數以私事請托於郃,郃不聽,邕含隱切,志欲相中。於是詔下尚書,召邕詰狀。邕上書自陳曰 (省略)

はじめ蔡邕は、司徒の劉郃と、仲がわるい。

劉郃の官位は、大鴻臚がただしい。司徒は、袁滂。

叔父の衛尉する蔡質は、將作大匠の陽球(列伝67)と、仲がわるい。陽球は、中常侍の程璜の娘をめとる。程璜は、いそいで上奏した。「蔡邕と蔡質は、しばしば私事で、劉郃にたのみごとする。劉郃が聞かないので、蔡邕は劉郃をうらみ、劉郃を傷つけたい」と。霊帝は、蔡邕に罪状を問う。蔡邕は、言い訳した。

蔡邕が劉郃の汚職を、批判する。またこんど。


於是下邕、質於洛陽獄,劾以仇怨奉公,議害大臣,大不敬,棄市。事奏,中常侍呂強湣邕無罪,請之,帝亦更思其章,有詔減死一等,與家屬髡鉗徙朔方,不得以赦令除。陽球使客追路刺邕,客感其義,皆莫為用。球又賂其部主使加毒害,所賂者反以其情戒邕,故每得免焉。居五原安陽縣。

蔡邕と蔡質は、洛陽の獄にくだされた。劉郃の悪口を言ったので、不敬である。棄市された。中常侍の呂強は、蔡邕を弁護した。蔡邕とその家属は、髡鉗され、朔方にうつされた。
陽球は、蔡邕を刺殺したいが、刺客は蔡邕を殺さず。陽球は、州牧や太守にワイロし、蔡邕を殺したい。ワイロされた人は、殺さず。五原の安陽県にうつる。

王甫の弟・五原太守の王智を怒らせ、呉郡で12年

邕前在東觀,與盧植、韓說等撰補《後漢記》,會遭事流離,不及得成,因上書自陳,奏其所著十意,分別首目,連置章左。帝嘉其才高,會明年大赦,乃宥邕還本郡。邕自徙及歸,凡九月焉。將就還路,五原太守王智餞之。酒酣,智起舞屬邕,邕不為報。智者,中常侍王甫弟也,素貴驕,慚於賓客,詬邕曰:「徒敢輕我!」邕拂衣而去。智銜之,密告邕怨於囚放,謗訕朝廷。內寵惡之。邕慮卒不免,乃亡命江海,遠跡吳會。往來依太山羊氏,積十二年,在吳。

蔡邕は東観で、盧植、韓說らと、『後漢記』を撰補した。朔方にゆき、完成せず。続きを書きたい。翌年の大赦で、蔡邕を、故郷の陳留にもどす。9ヶ月、朔方にいた。帰るとき、五原太守の王智が、はなむけした。王智は、中常侍の王甫の弟だ。王智は蔡邕を怨んだ。蔡邕は、また捕まりそうなので、呉郡や会稽にゆく。泰山の羊氏をたよる。12年、呉郡にいた。

吳人有燒桐以爨者,邕聞火烈之聲,知其良木,因請而裁為琴,果有美音,而其尾猶焦,故時人名曰「僬尾琴」焉。初,邕在陳留也。其鄰人有以酒食召邕者,比往而酒以酣焉。客有彈琴於屏,邕至門試潛聽之,曰:「憘!以樂召我而有殺心,可也?」遂反。將命者告主人曰:「蔡君向來,至門而去。」邕素為邦鄉所宗,主人遽自追而問其故,邕具以告,莫不憮然。彈琴者曰:「我向鼓弦,見螳螂方向鳴蟬,蟬將去而未飛,螳螂為之一前一卻。吾心聳然,惟恐螳螂之失之也。此豈為殺心而形於聲者乎?」邕莞然而笑曰:「此足以當之矣。」

吳人有燒桐以爨者,邕聞火烈之聲,知其良木,因請而裁為琴,果有美音,而其尾猶焦,故時人名曰「僬尾琴」焉。初,邕在陳留也。其鄰人有以酒食召邕者,比往而酒以酣焉。客有彈琴於屏,邕至門試潛聽之,曰:「憘!以樂召我而有殺心,可也?」遂反。將命者告主人曰:「蔡君向來,至門而去。」邕素為邦鄉所宗,主人遽自追而問其故,邕具以告,莫不憮然。彈琴者曰:「我向鼓弦,見螳螂方向鳴蟬,蟬將去而未飛,螳螂為之一前一卻。吾心聳然,惟恐螳螂之失之也。此豈為殺心而形於聲者乎?」邕莞然而笑曰:「此足以當之矣。」

蔡邕は、呉郡で良木を見つけ、いい琴をつくった。

蔡邕は、琴キャラ。はじめ宦官も、蔡邕の琴を聴きたくて、招いたほど。霊帝は、諸芸ができる人が好きだった。蔡邕も、おなじノリで、霊帝に重んじられたのかも。

はじめ陳留にいたとき、蔡邕の訪問先で、琴の音があった。音色に、殺意がまじった。蔡邕は、訪問をやめた。琴をひく人が説明した。「カマキリが、セミを殺しそうな場面を見て、琴をひいた」と。蔡邕は、納得した。

わずかな音色の変化でも、蔡邕はわかりますよと。


司空の董卓に辟され、「尚父」を阻止する

中平六年,靈帝崩,董卓為司空,聞邕名高,辟之,稱疾不就。卓大怒,詈曰:「我力能族人,蔡邕遂偃蹇者,不旋踵矣。」又切敕州郡舉邕詣府,邕不得已,到,署祭酒,甚見敬重。舉高第,補侍御史,又轉持書禦史,遷尚書。三日之間,周曆三台。遷巴郡太守,複留為侍中。

中平六年(189)、霊帝が崩じた。董卓は、司空となる。蔡邕を辟した。蔡邕は、就かず。董卓は大怒して、蔡邕を罵る。「私は、族殺だってできる」と。しきりに州郡に命じ、蔡邕をまねく。
蔡邕は、しぶしぶ、祭酒(名誉職の顧問)になる。董卓は、蔡邕を敬重する。高第にあげられ、侍御史、持書禦史(治書侍御史)、尚書となる。3日のうちに、3台をすべて歴任した。巴郡太守となるが、洛陽にとどまり、侍中となる。

初平元年,拜左中郎將,從獻帝遷都長安,封高陽鄉侯。
董卓賓客部典議欲尊卓比太公,稱尚父。卓謀之於邕,邕曰:「太公輔周,受命剪商,故特為其號。今明公威德,誠為巍巍,然比之尚父,愚意以為未可宜須並東平定,車駕還反舊京,然後議之。」卓從其言。

初平元年(190)、左中郎將となる。献帝にしたがい、洛陽にゆく。高陽郷侯に封じられた。
董卓の賓客と部典は、董卓を太公望になぞらえ、尚父としたい。董卓は、蔡邕に相談した。蔡邕は言った。「董卓の功績は、太公望ほどでない。献帝が洛陽にもどるのを待ち、そのあとで検討せよ」と。董卓は、蔡邕にしたがう。

董卓は、洛陽にもどるつもりがあった。李傕や郭汜に、潁川あたりに攻めさせた。これは、洛陽に戻るための地ならしだ。二袁を片づけて、洛陽にもどりたい。かりに董卓その人に、洛陽にもどる意思がなくても。少なくとも、長安の高官たちは、董卓の存命中でも、洛陽にもどることが、暗黙の総意だったようです。そりゃ、そうか。


二年六月,地震,卓以問邕。邕對曰:「地動者,陰盛侵陽,臣下逾制之所致也。前春郊天,公奉引車駕,乘金華青蓋,爪畫兩轓,遠近以為非宜。」卓於是改乘皁蓋車。
卓重邕才學,厚相遇待,每集宴,輒令邕鼓琴贊事,邕亦每存匡益。然卓多自佷用,邕恨其言少從,謂從弟谷曰:「董公性剛而遂非,終難濟也,吾欲東奔兗州,若道遠難達,且遁逃山東以待之,何如?」穀曰:「君狀異恒人,每行觀者盈集。以此自匿,不亦難乎?」邕乃止。

初平二年(191)6月、地震あり。董卓は蔡邕に、地震の理由を聞いた。蔡邕は答えた。「まえの春、献帝は南郊で天を祭った。董卓が乗った車のグレードが、高すぎた」と。董卓は、車を改めた。
董卓は蔡邕の学問を重んじた。宴席のたび、蔡邕に琴をひかせた。董卓は、蔡邕の意見を、あまり聞かない。蔡邕は、従弟の蔡谷に言った。「私は兗州ににげる。もしムリなら、華山の東で、逃げるチャンスをまつ。どうか」と。蔡谷は答えた。「蔡邕の容姿は、知れわたっている。隠れられない」と。蔡邕は、逃亡をやめた。

ドジな会話をしてますが。蔡邕が、董卓から逃げようとしたのは、ホントウかなあ。未遂の記事なので、なんとでも書ける。むしろ董卓は、蔡邕に掣肘をくわえられてたイメージだが。


馬日磾が弁護するが、王允に殺される

及卓被誅,邕在司徒王允坐,殊不意言之而歎,有動於色。允勃然叱之曰:「董卓國之大賊,幾傾漢室。君為王臣,所宜同忿,而懷其私遇,以忘大節!今天誅有罪,而反相傷痛,豈不共為逆哉?」即收付廷尉治罪。邕陳辭謝,乞黥首刖足,繼成漢史。士大夫多矜救之,不能得。太尉馬日磾馳往謂允曰:「伯喈曠世逸才,多識漢事,當續成後史,為一代大典。且忠孝素著,而所坐無名,誅之無乃失人望乎?」

董卓が死んだ。蔡邕は、司徒の王允と同席し、董卓の死を残念がる。王允は、蔡邕を叱った。「董卓は国賊だ。蔡邕は、董卓の味方をするのか」と。王允は、蔡邕を廷尉にあずけた。蔡邕はわびた。「クビに入墨していいから、漢室の歴史を書きたい」と。士大夫は、みな蔡邕を救いたい。太尉の馬日磾は、王允に言った。「蔡邕に歴史を書かせよ。蔡邕を殺せば、王允が人望をうしなう」と。

允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書,流於後世。方今國祚中衰,神器不固,不可令佞臣執筆在幼主左右。既無益聖德,複使吾党蒙其訕議。」日磾退而告人曰:「王公其不長世乎?善人,國之紀也;製作,國之典也。滅紀廢典,其能久乎!」邕遂死獄中。允悔,欲止而不及。時年六十一。搢紳諸儒莫不流涕。北海鄭玄聞而歎曰:「漢世之事,誰與正之!」兗州、陳留間皆畫像而頌焉。

王允は言った。「前漢の武帝は、司馬遷を殺さなかったから、そしられた」と。馬日磾は退き、人に言った。「王允の生命は、長くない。善き人は、国の紀だ。制作することは、国の典だ。これらを滅ぼし、どうして久しく政権を保てるか」と。

馬日磾のセリフは、『左伝』より。さすが、勉強してるなあ。笑
蔡邕の態度を見ると、蔡邕が董卓から逃げたいという記事は、ウソっぽい。また、前漢の武帝と、司馬遷の話を持ち出すあたり、これもウソっぽい。 こんな不用意なこと、いくらなんでも言わんよなあ。『後漢書』の編集方針として、王允を貶めたかったか。王允伝で、性格に難があるように描かれる。董卓にからむと、評価がブレるから、むずかしい。王允は、董卓を殺したものの、董卓の右腕だった。王允については、先週やりました。
『後漢書』王允伝を抄訳し、霊帝と献帝初を整理

蔡邕は、獄死した。王允は悔いたが、間に合わず。蔡邕は61歳。諸儒は泣いた。北海の鄭玄は言った。「漢世のことは、だれとともに正すのか」と。兗州、陳留のあたりで、みな蔡邕の肖像をかいた。

其撰集漢事,未見錄以繼後史。適作《靈紀》及十意,又補諸列傳四十二篇,因李傕之亂,湮沒多不存。所著詩、賦、碑、誄、銘、贊、連珠、箴、吊、論議、《獨斷》、《勸學》、《釋誨》、《敘樂》、《女訓》、《篆藝》、祝文、章表、書記,凡百四篇,傳於世。

蔡邕の歴史叙述は、つたわらず。いろいろ書いたが、李傕の乱で焼けた。その他、いろいろ、世に伝わる。

蔡邕は、ふつうに霊帝の宦官と、対決した人。みな、この時代の人は、おなじ経験をするなあ。曹節に、封書を盗み見られた。王甫の弟・太原太守の王智から逃れ、呉郡で12年ひそんだ。董卓がからむと、評価がブレて、よく分からなくなる。後日、董卓にからむ高官たちを、整理したい。おしまい。110425