宦官と対決し、董卓を掣肘する
吉川版で、蔡邕伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
蔡邕伝は、引用文がながくて、むずかしい。だから、はぶきます。引用文のない蔡邕伝なんて、価値が10分の1です。知ってます。でも敬遠して、地の文すら読まないよりは、いいかと。蔡邕について、理解が深まるかと。
祖先は王莽をこばみ、太傅の胡広に師事
蔡邕は、あざなを伯喈という。陳留の圉県の人だ。6世の祖父・蔡勳は、黄老をこのむ。平帝のとき、郿県の県令となる。王莽のはじめ、厭戎連率(隴西太守)となる。蔡勳は、印綬をもらい、天をあおいだ。「死んでも、漢臣がいい。新室に仕えない」と、家属をつれ、山ごもり。鮑宣(『漢書』72)、卓茂(『後漢書』列伝15)とともに、新室に仕えず。
蔡邕の父・蔡棱は、行いが清白。貞定公と贈る。
蔡邕の性質は、篤孝だ。母が3年ねこみ、よく看病した。叔父、從弟と同居して、3世代で財産を分割せず。郷党は、蔡邕を評価した。
太傅の胡廣に師事した。辭章、數術、天文,音律がうまい。
175年、『六経』を校定して、碑文を立てる
桓帝のとき、中常侍の徐璜、左悺ら、五侯が擅恣した。五侯は、蔡邕が鼓琴をうまいと聞いた。五侯は天子をつうじて陳留太守に命じ、蔡邕をつれてくる。蔡邕は、仮病でゆかず。東方朔(『漢書』65)が書いた『客難』や、楊雄(『漢書』87)、班固(列伝30)、崔駰(列伝42)の文書を検討し、『釋誨』を著した。
建寧三年(170)、橋玄の司徒府に辟された。敬待された。
河平の県長となる。郎中となり、東觀で校書する。議郎にうつる。蔡邕が考えるに、經籍は誤りがおおい。熹平四年(175)、五官中郎將の堂谿典,光祿大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎張馴(列伝69)、韓說(列伝72)、太史令の單颺(列伝72)らと、『六經』を校定した。霊帝に許され、蔡邕の自書を碑文とした。太学の門外につくる。碑文を書き写す人が、1日に1千余両ならぶ。
朝廷は、州郡の長官に、身内ばかり任命できないように、三互の法をつくる。姻戚ある両家、両州の人間が、たがいに相手の監察官になれない。幽州と冀州には、刺史になれる人材がいない。蔡邕は、三互の法をやめろと言った。用いられず。
霊帝が鴻都門学をひらき、蔡邕が諌める
霊帝は、学問をこのみ、『皇羲篇』50章をつくる。鴻都門に人をあつめた。破格の位をあたえた。数十人を、郎中、太子舍人にした。
上谷浩一氏の3論文を読み、霊帝&董卓を改革と捉える
天災と鮮卑がつづく。六年(177)、霊帝は意見を求めた。蔡邕は上封した。
『資治通鑑』 177年、霊帝が鴻都門に人材を集める
霊帝は、蔡邕の意見を読んだ。霊帝は、みずから北郊で迎氣した。辟雍の禮をする。宣陵の孝子のうち、舍人となった人を、すべて丞、尉(県の長官の補佐)とした。
光和元年(178)、ついに鴻都門学をおく。孔子とその72弟子の像をおく。鴻都門の学生は、刺史と太守、三公に命じて、選ばせた。鴻都門を卒業すれば、地方で刺史や太守となり、中央で尚書、侍中となれる。侯爵に封じられる。士君子は、みな鴻都門と同僚になることを、恥とした。
霊帝が蔡邕に質問し、曹節が回答を盗み見る
ときに、しばしば妖異があらわれる。178年7月、詔して、蔡邕と、光祿大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎の張華、太史令の單颺を、金商門につれてくる。崇德殿に入れる。中常侍の曹節、王甫とともに、災異を消す方法を議論させた。蔡邕は、心をつくして答えた。『五行志』『《天文志』にある。
章奏,帝覽而歎息,因起更衣,曹節於後竊視之,悉宣語左右,事遂漏露。其為邕所裁黜者,皆側目思報。
また霊帝は、とくに蔡邕に問うた。「災変がある。郡公や卿士に聞いても、よくわからない。蔡邕が、災変をなくす方法を教えてくれ」と。蔡邕は、こたえた。
霊帝は、蔡邕の回答をみて、嘆息した。トイレに行く。曹節らが、後ろから盗み見た。内容をバラした。蔡邕に批判された人は、蔡邕に復讐したい。
大鴻臚の劉郃とあらそい、朔北に徙刑
はじめ蔡邕は、司徒の劉郃と、仲がわるい。
叔父の衛尉する蔡質は、將作大匠の陽球(列伝67)と、仲がわるい。陽球は、中常侍の程璜の娘をめとる。程璜は、いそいで上奏した。「蔡邕と蔡質は、しばしば私事で、劉郃にたのみごとする。劉郃が聞かないので、蔡邕は劉郃をうらみ、劉郃を傷つけたい」と。霊帝は、蔡邕に罪状を問う。蔡邕は、言い訳した。
蔡邕と蔡質は、洛陽の獄にくだされた。劉郃の悪口を言ったので、不敬である。棄市された。中常侍の呂強は、蔡邕を弁護した。蔡邕とその家属は、髡鉗され、朔方にうつされた。
陽球は、蔡邕を刺殺したいが、刺客は蔡邕を殺さず。陽球は、州牧や太守にワイロし、蔡邕を殺したい。ワイロされた人は、殺さず。五原の安陽県にうつる。
王甫の弟・五原太守の王智を怒らせ、呉郡で12年
蔡邕は東観で、盧植、韓說らと、『後漢記』を撰補した。朔方にゆき、完成せず。続きを書きたい。翌年の大赦で、蔡邕を、故郷の陳留にもどす。9ヶ月、朔方にいた。帰るとき、五原太守の王智が、はなむけした。王智は、中常侍の王甫の弟だ。王智は蔡邕を怨んだ。蔡邕は、また捕まりそうなので、呉郡や会稽にゆく。泰山の羊氏をたよる。12年、呉郡にいた。
蔡邕は、呉郡で良木を見つけ、いい琴をつくった。
はじめ陳留にいたとき、蔡邕の訪問先で、琴の音があった。音色に、殺意がまじった。蔡邕は、訪問をやめた。琴をひく人が説明した。「カマキリが、セミを殺しそうな場面を見て、琴をひいた」と。蔡邕は、納得した。
司空の董卓に辟され、「尚父」を阻止する
中平六年(189)、霊帝が崩じた。董卓は、司空となる。蔡邕を辟した。蔡邕は、就かず。董卓は大怒して、蔡邕を罵る。「私は、族殺だってできる」と。しきりに州郡に命じ、蔡邕をまねく。
蔡邕は、しぶしぶ、祭酒(名誉職の顧問)になる。董卓は、蔡邕を敬重する。高第にあげられ、侍御史、持書禦史(治書侍御史)、尚書となる。3日のうちに、3台をすべて歴任した。巴郡太守となるが、洛陽にとどまり、侍中となる。
董卓賓客部典議欲尊卓比太公,稱尚父。卓謀之於邕,邕曰:「太公輔周,受命剪商,故特為其號。今明公威德,誠為巍巍,然比之尚父,愚意以為未可宜須並東平定,車駕還反舊京,然後議之。」卓從其言。
初平元年(190)、左中郎將となる。献帝にしたがい、洛陽にゆく。高陽郷侯に封じられた。
董卓の賓客と部典は、董卓を太公望になぞらえ、尚父としたい。董卓は、蔡邕に相談した。蔡邕は言った。「董卓の功績は、太公望ほどでない。献帝が洛陽にもどるのを待ち、そのあとで検討せよ」と。董卓は、蔡邕にしたがう。
卓重邕才學,厚相遇待,每集宴,輒令邕鼓琴贊事,邕亦每存匡益。然卓多自佷用,邕恨其言少從,謂從弟谷曰:「董公性剛而遂非,終難濟也,吾欲東奔兗州,若道遠難達,且遁逃山東以待之,何如?」穀曰:「君狀異恒人,每行觀者盈集。以此自匿,不亦難乎?」邕乃止。
初平二年(191)6月、地震あり。董卓は蔡邕に、地震の理由を聞いた。蔡邕は答えた。「まえの春、献帝は南郊で天を祭った。董卓が乗った車のグレードが、高すぎた」と。董卓は、車を改めた。
董卓は蔡邕の学問を重んじた。宴席のたび、蔡邕に琴をひかせた。董卓は、蔡邕の意見を、あまり聞かない。蔡邕は、従弟の蔡谷に言った。「私は兗州ににげる。もしムリなら、華山の東で、逃げるチャンスをまつ。どうか」と。蔡谷は答えた。「蔡邕の容姿は、知れわたっている。隠れられない」と。蔡邕は、逃亡をやめた。
馬日磾が弁護するが、王允に殺される
董卓が死んだ。蔡邕は、司徒の王允と同席し、董卓の死を残念がる。王允は、蔡邕を叱った。「董卓は国賊だ。蔡邕は、董卓の味方をするのか」と。王允は、蔡邕を廷尉にあずけた。蔡邕はわびた。「クビに入墨していいから、漢室の歴史を書きたい」と。士大夫は、みな蔡邕を救いたい。太尉の馬日磾は、王允に言った。「蔡邕に歴史を書かせよ。蔡邕を殺せば、王允が人望をうしなう」と。
王允は言った。「前漢の武帝は、司馬遷を殺さなかったから、そしられた」と。馬日磾は退き、人に言った。「王允の生命は、長くない。善き人は、国の紀だ。制作することは、国の典だ。これらを滅ぼし、どうして久しく政権を保てるか」と。
蔡邕の態度を見ると、蔡邕が董卓から逃げたいという記事は、ウソっぽい。また、前漢の武帝と、司馬遷の話を持ち出すあたり、これもウソっぽい。 こんな不用意なこと、いくらなんでも言わんよなあ。『後漢書』の編集方針として、王允を貶めたかったか。王允伝で、性格に難があるように描かれる。董卓にからむと、評価がブレるから、むずかしい。王允は、董卓を殺したものの、董卓の右腕だった。王允については、先週やりました。
『後漢書』王允伝を抄訳し、霊帝と献帝初を整理
蔡邕は、獄死した。王允は悔いたが、間に合わず。蔡邕は61歳。諸儒は泣いた。北海の鄭玄は言った。「漢世のことは、だれとともに正すのか」と。兗州、陳留のあたりで、みな蔡邕の肖像をかいた。
蔡邕の歴史叙述は、つたわらず。いろいろ書いたが、李傕の乱で焼けた。その他、いろいろ、世に伝わる。
蔡邕は、ふつうに霊帝の宦官と、対決した人。みな、この時代の人は、おなじ経験をするなあ。曹節に、封書を盗み見られた。王甫の弟・太原太守の王智から逃れ、呉郡で12年ひそんだ。董卓がからむと、評価がブレて、よく分からなくなる。後日、董卓にからむ高官たちを、整理したい。おしまい。110425