王龔伝、子の王暢伝
吉川版で、王龔伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
1ページ目は、王氏の父子。2ページ目は、种氏を3代。
陳蕃を引進した汝南太守、王龔伝
王龔は、あざなを伯宗という。山陽の高平の人だ。世よ豪族だ。孝廉、青州刺史。貪汚な太守を弾劾したので、安帝に嘉され、尚書。
建光元年(121)、司隸校尉。翌年、汝南太守。郡人の黃憲、陳蕃らを引進した。黄憲は屈さないが、陳蕃は吏に就いた。陳蕃の性氣は高明だ。はじめ王龔は、会えない。陳蕃は、病気だと書きおいた。王龔は怒り、陳蕃を名簿からはずす。功曹の袁閬は言った。陳蕃は賢い。非礼では、まねけない」と。王龔はミスを認めた。陳蕃を厚遇した。天下の知名の士が、王龔にあつまる。
袁閬は、あざなを奉高という。しばしば三公府の命を辞す。きわだつ節操はないが、同時代に名を知られた。
永和元年,拜太尉。在位恭慎,自非公事,不通州郡書記。其所辟命,皆海內長者。龔深疾宦官專權,志在匡正,乃上書極言其狀,請加放斥。諸黃門恐懼。各使賓客誣奏龔罪,順帝命亟自實。前掾李固時為大將軍梁商從事中郎,乃奏記于商曰:
永建元年(126)、太僕、太常。四年(129)、司空となる。地震で免ず。
永和元年(136)、太傅となる。州郡と、私事で通じない。海内の長者を辟した。王龔は、ふかく宦官の專權をにくむ。宦官は順帝に、王龔の罪をふきこむ。順帝は調べた。さきの掾の李固は、大将軍の梁商の從事中郎となる。李固は、梁商に奏記した。
商即言之於帝,事乃得釋。龔在位五年,以老病乞骸骨,卒於家。子暢。
「いま太尉の王龔が、宦官に陥れられた。外戚の梁商は、善人の王龔を救ってくれ」と。梁商は順帝に言い、王龔を救った。
王龔は、太尉を5年なり、老病で退職。在家で死んだ。子は、王暢。
劉表が倹約を諌めた、南陽太守の劉暢
王暢は、あざなを叔茂。交党しない。孝廉にあがり、病気で辞す。大將軍の梁商は、とくに茂才にあげた。4たび遷り、尚書令、齊相となる。司隸校尉、漁陽太守。嚴明をたたえられた。罪をえて免官。このとき政事は、おおく尚書に帰す。桓帝は三公に詔し、庸能(実績や実力ある人物)を高選させた。太尉の陳蕃は、王暢が清方公正だから、薦めた。尚書となる。
王暢は、南陽太守となる。前後の南陽太守は、後漢の光武帝の貴戚がいるから、職務を全うできない。王暢はこれを疾み、下車して威猛を奮厲した。豪党の取り締まった。賄賂したが自白しなければ、財産を没収。かくれたら、吏に屋敷を解体させ、樹木を切り、井戸をうめ、竈をこわした。豪党は震えた。功曹の張敞が、王暢を諌めた。
暢深納敞諫,更崇寬政,慎刑簡罰,教化遂行。
張敞はいう。「五教は寬を在(むね)とする。これを經典に著した。殷の湯王、周の武王、前漢の高帝、文帝の前例がある」と。王暢は、寛政にあらためた。刑罰をゆるめた。教化が行われた。
郡中の豪族は、奢靡が好き。王暢は、ボロい服と車で、風俗を矯正したい。同郡の劉表は、17歳だ。王暢に学問をならう。劉表は王暢を諌めた。「奢っても、上を越えない。倹約しても、下に逼らない。ほどほどがよい。王暢は、ほどほどの孔子でなく、やりすぎて餓死した、伯夷と叔斉と同じだ。やめろ」と。
王暢は言った。「倹約しすぎて、過失した人はすくない。伯夷は飢え死にしたが、烈ぶりを慕われてた」と。
袁術との差異を比較して読む、劉表伝 01) 南陽太守・王暢の人脈
のちに王暢は、長樂衛尉となる。建甯元年(168)、司空にうつる。数ヶ月で、水災により免ぜられた。翌年、在家で死んだ。子は王謙。王謙は、大將軍する何進の長史となる。王謙の子は、王粲。文才で知られた。王粲は『三国志』に列伝あり。
つぎは、种氏の列伝。三国と、よくからむ。つづく。