种暠、子の种払、孫の种邵
吉川版で、种暠伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
1ページ目は、王氏の父子。2ページ目は、种氏を3代。
辺境を平定し、匈奴に国ぐるみで慕われた种暠
時河南尹田歆外甥王諶,名知人。歆謂之曰:「今當舉六孝廉,多得貴戚書命,不宜相違,欲自用一名士以報國家,爾助我求之。」明日,諶送客于大陽郭,遙見暠,異之。還白歆曰:「為尹得孝廉矣,近洛陽門下史也。」歆笑曰:「當得山澤隱滯,乃洛陽吏邪?」諶曰:「山澤不必有異士,異士不必在山澤。」歆即召暠於庭,辯詰職事。暠辭對有序,歆甚知之,召署主簿,遂舉孝謙,辟太尉府,舉高第。
种暠は、あざなを景伯。河南の洛陽の人だ。仲山甫(周の宣王の賢臣)の後裔だ。父は定陶令となり、財産が三千萬ある。父が死ぬと、种暠は、宗族や貧者にプレゼントした。名声や利益がほしい人とは、交通せず。縣の門下史(県令が自ら選ぶ属吏)となる。
ときに河南尹する田歆の外甥・王諶は、人物眼がある。田歆は王諶に言った。「6人の孝廉をあげる。人選は、貴戚の書命にさからうな。しかし1人の枠だけ、名士をあげて国家に報いよう。人物の選定を手伝ってくれ」と。
王諶は、种暠を異とした。「河南尹の田歆がお探しの、孝廉がいた。洛陽の門下吏だ。田歆は笑った。「山沢でなく、足もとに人材がいた」と。田歆に認められ、种暠は河南尹の主簿となる。孝廉にあがり、太尉府に辟された。高第にあがる。
順帝の末、侍禦使となる。順帝がおくった八使のうち、光祿大夫の杜喬、周舉らは、おおくを糾奏した。大將軍の梁冀や宦官は、糾奏をやめてほしい。順帝は、糾奏を握りつぶした。
种暠は侍御史だから、検挙をつかさどる。八使がリストアップした、蜀郡太守の劉宣を検挙した。种暠は順帝に言った。「三公と大将軍の府に命じ、近親の父兄で、刺史や太守として殘穢する人を検挙させよ」と。順帝は、种暠にしたがう。
种暠を抜擢し、承光宮で太子(のちの沖帝)を監督させた。中常侍の高梵は、車1台で太子を迎えた。太傅の杜喬は、宦官にびびり、文句を言えない。种暠は言った。「太子は、国の儲副だ。いま中常侍は、詔書がないのに太子を連れ出した。死罪だ」と。高梵は、順帝に許可をもとめた。杜喬は种暠の行動を見て、宦官にびびった自分を愧じた。順帝は、种暠をほめた。
益州刺史となる。3年務め、岷山の雜落が、漢德を慕ってきた。白狼らの種族は、前任の益州刺史・朱輔が死んでから、後漢から去った。种暠がくると、交流を再開した。
ときに永昌太守は、黄金の蛇を梁冀にあげたい。种暠が賄賂をとがめた。司徒と司空は怖気づき、梁冀をとがめない。梁冀は、种暠に怒った。
たまたま巴郡の人が「天王」を自称した。种暠は、巴郡太守の應承ともに討伐したが、勝てない。梁冀はこれを理由に、种暠と應承を捕らえた。太尉の李固が弁護した。梁太后が、种暠と應承を救った。免官されただけ。
涼州の羌族がさわぐ。种暠は、涼州刺史となる。任期が終わっても、宮城でとどめられた。梁太后は嘆じた。「种暠ほど、人気のある刺史はいない」と。梁太后は、涼州刺史の留任をみとめた。
涼州刺史を1年延長し、漢陽太守となる。羌胡がなつく。使匈奴中郎將となる。遼東で烏桓が反叛し、遼東太守となる。烏桓も慕ってきた。罪があり免ぜられた。
のちに司隷校尉は、种暠を賢良方正にあげる。応じず。議郎、南郡太守、尚書。匈奴が、并州と涼州を寇した。度遼將軍となる。郡県にいる、羌族の人質を返した。羌胡、龜茲、莎車、烏孫らは、みな順服した。狼煙や展望の台をのぞく。辺境は、警戒しなくてよい。
大司農となる。延熹四年(161)、司徒となる。名臣の橋玄、皇甫規らを推達した。太尉の肩書きに恥じない太尉だった。3年つとめ、61歳で死んだ。并州、涼州の人は服喪した。匈奴は、国をあげて服喪した。朝貢のたび、种暠の墳墓で祭祀した。
2子がいる。种岱と、种払だ。
剣をふるい、李傕と戦って敗死した种払
初,岱與李固子燮同征議郎,燮聞岱卒,痛惜甚,乃上書求加禮於岱。曰:「臣聞仁義興則道德昌,道德昌則政化明,政化明而萬姓寧。伏見故處士種岱,淳和達理,耽悅《詩》、《書》,富貴不能回其慮,萬物不能擾其心。稟命不永,奄然殂殞。若不槃桓難進,等輩皆已公卿矣。昔先賢既沒,有加贈之典,《周禮》盛德,有銘誄之文,而岱生無印綬之榮,卒無官諡之號。雖未建忠效用,而為聖恩所拔,遐邇具瞻,宜有異賞。」朝廷竟不能從。
种岱は、あざなを公祖。孝廉、茂才、三公府に辟された。就かず。三公府の車が、とくに徵した。病没した
はじめ种岱hあ、李固の子・李燮とともに、議郎にめされた。李燮は、种岱が死んだと聞き「种岱に加禮したい」と求めた。朝廷は、种岱に加礼せず。
李C765、郭B023之亂。長安城潰,百官多避兵沖,拂揮劍而出曰:「為國大臣,不能止戈除暴,致使凶賊兵刃向宮,去欲何之!」遂戰而死。子劭。
种払は、あざなを穎伯という。司隸從事、宛令。ときに南陽の郡吏は、休暇に百姓をわずらわす。种払は下車して、郡吏にむけ、公人として挨拶した。郡吏は恥じて、百姓の前に出てこない。光祿大夫となる。
初平元年(190)、荀爽にかわり司空となる。翌年、地震で免ぜらる。太常となる。李傕と郭汜が、長安をつぶす。种払は剣をふるった。「大臣なのに、暴を除けない。凶賊の兵刃が、宮城にむかう。どうして、くれよう」と。种払は、戦士した。子は、种邵。
董卓を河南で足止めし、馬騰と同盟した种邵
大將軍何進將誅宦官,召並州牧董卓,至澠池,而進意更狐疑,遣劭宣詔止之。卓不受,遂前至河南。劭迎勞之,因譬令還軍。卓疑有變,使其軍士以兵脅劭。劭怒,稱詔大呼叱之,軍士皆披,遂前質責卓。卓辭屈,乃還軍夕陽亭。
种邵は、あざなを申甫。中平末(189)、諫議大夫となる。
大將軍の何進が、宦官を殺したい。并州牧の董卓を、澠池に召す。何進は董卓の意思をうたがい、种払に詔を持たせ、董卓を止めさせる。董卓は受けず。董卓は、河南にすすむ。种邵は、董卓をねぎらう。种払は董卓をさとし、軍を戻させた。董卓は、事変をうたがう。軍士は、种邵をおどす。种邵は怒り、詔を読み上げ、董卓をしかる。軍士は、种払になびき、董卓を質した。董卓は言葉を屈し、軍を夕陽亭にもどす。
献帝が即位し、种邵は侍中となる。
董卓は、种邵の強力を悪む。議郎に左遷した。益、涼二州刺史とする。
たまたま父の种払が死んだので、赴任せず。服もが終わり、少府、大鴻臚となるが、受けず。「李傕を除けないのに、なんの面目で官位につけるか」と。馬騰、韓遂、左中郎の劉範、諫議大夫の馬宇とともに、李傕と郭汜を攻めた。父の仇討だ。長平觀のもと、敗死した。馬騰と韓遂は、涼州にかえる。
李賢注、もっとふくらましてほしいのに。おわりです。110426
『後漢書』陳球伝、陽球伝を抄訳し、『三国志』を補う