01) 法家の哀帝が、王氏の土地を没収
『漢書』哀帝紀と平帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。
三国志を知るため『漢書』成帝紀を抄訳する
曹操たちの時代、後漢の滅亡が想定されたとき、
ひとは『漢書』の結末を熟読にしたに、ちがいありません。
趣味とか参考でなく、リアルな教訓を得ようとしたはずだ。
三国志を知るため、後漢人の歴史認識を知りたい。『漢書』やります。
横目で、お付き合いくださいませ。
定陶王となり、中山王とくらべられる
孝哀皇帝,元帝庶孫,定陶恭王子也。母曰丁姬。年三歲嗣立為王,長好文辭法律。元延四年入朝,盡從傅、相、中尉。時成帝少弟中山孝王亦來朝,獨從傅。上怪之,以問定陶王,對曰:「令,諸侯王朝,得從其國二千石。傅、相、中尉皆國二千石,故盡從之。」上令誦《詩》,通習,能說。他日問中山王:「獨從傅在何法令?」不能對。令誦《尚書》,又廢。及賜食於前,後飽;起下,襪系解。成帝由此以為不能,而賢定陶王,數稱其材。
孝哀皇帝は、元帝の庶孫で、定陶恭王の子である。母は丁姬という。3歳で定陶王となった。ながく文辞と法律をこのんだ。
元延四年(前9年)に入朝した。定陶王(のちの哀帝)は国許から、傅、相、中尉を、ことごとく従えた。おなじとき、成帝の弟である中山孝王も、また来朝した。中山孝王は、傅だけをしたがえた。成帝はあやしみ、定陶王にきいた。定陶王はこたえた。
「漢のルールでは、諸侯王が入朝するとき、自分の国の二千石を、連れてくることができます。傅、相、中尉は、みな二千石です。だから、すべて連れてきました」
成帝は、《詩経》を暗誦させた。定陶王は、うまく暗誦できた。
べつの日に成帝は、中山王にも、哀帝にしたのと同じ質問をした。
「おまえが、傅だけを連れてきたのは、どんなルールに基づくのか」
中山王は、答えられなかった。
成帝は、中山王に《尚書》を暗誦させたが、できない。成帝は、中山王に食事を与えた。中山王が立つと、襪のヒモがとけた。
成帝は、中山王をバカだと思い、定陶王の才能をほめた。
時王祖母傅太后隨王來朝,私賂遺上所幸趙昭儀及帝舅票騎將軍曲陽侯王根。昭儀及根見上亡子,亦欲豫自結為長久計,皆更稱定陶王,勸帝以為嗣。成帝亦自美其材,為加元服而遣之,時年十七矣。
明年,使執金吾任宏守大鴻臚,持節征定陶王,立為皇太子。謝曰:「臣幸得繼父守籓為諸侯王,材質不足以假充太子之宮。陛下聖德寬仁,敬承祖宗,奉順神祇,宜蒙福晁子孫千億之報。臣願且得留國邸,旦夕奉問起居,俟有聖嗣,歸國守籓。」書奉,天子報聞。後月余,立楚孝王孫景為定陶王,奉恭王祀,所以獎厲太子專為後之誼。語在《外戚傳》。
ときに定陶王の祖母・傅太后は、定陶王にしたがって来朝した。祖母は、成帝が気にいっている趙昭儀と、成帝のおじの票騎將軍で曲陽侯の王根に、ワイロした。趙昭儀と王根は、成帝に子がおらず、またみずからの政治的立場をたもつため、定陶王を皇太子におした。
成帝は、定陶王の才能をみとめた。成帝は、定陶王を元服させた。このとき定陶王は、17歳である。
翌年、執金吾の任宏を大鴻臚・持節として、定陶王を迎えにいかせ、皇太子とした。だが定陶王は、辞退した。
「私は父をつぎ、定陶国を守ります。私は、皇帝にふさわしくありません。成帝さまのお世継ぎの誕生を、のぞんでおります」
成帝は、定陶王が辞退したと聞いた。1ヶ月あまりして成帝は、楚孝王の孫・劉景を、定陶王にした。成帝は、
「定陶国の祭祀は、あなたの代わりに劉景が守る。皇太子になれ」
と口説いた。このことは《外戚傳》にある。
前7年、哀帝が即位し、外戚の王根が失脚する
綏和二年三月,成帝崩。四月丙午,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。大赦天下。賜宗室王子有屬者馬各一駟,吏民爵,百戶牛酒,三老、孝弟、力田、鰥、寡、孤、獨帛。太皇太后詔尊定陶恭王為恭皇。
五月丙戌,立皇后傅氏。詔曰:「《春秋》『母以子貴』,奠定陶太后曰恭皇太后,丁姬曰恭皇后,各置左右詹事,食邑如長信宮、中宮。」追尊傅父為崇祖侯、丁父為褒德侯。封舅丁明為陽安侯,舅丁滿為平周侯。追諡滿父忠為平周懷侯,皇后父晏為孔鄉侯,皇太后弟侍中光祿大夫趙欽為新成侯。
六月,詔曰:「鄭聲淫而亂樂,聖王所放,其罷樂府。」
前7年3月、成帝が崩じた。4月、哀帝は即位した。成帝は、父の定陶恭王を、恭皇とした。
5月、皇后に傅氏をたてた。哀帝は詔した。
「『春秋』はいう。子が貴ければ、母も貴くなるのだ」
哀帝は、祖母と母に、皇后号をおくった。母系につらなる人物に、爵位をあたえた。
6月、詔した。「楽府をやめよ」
曲陽侯根前以大司馬建社稷策,益封二千戶。太僕安陽侯舜輔導有舊恩,益封五百戶,太僕安陽侯舜輔導有舊恩,益封五百戶,及丞相孔光、大司空汜鄉侯何武益封各千戶。
詔曰:「河間王良喪太后三年,為宗室儀錶,益封萬戶。」
又曰:「制節謹度以防奢淫,為政所先,百王不易之道也。諸侯王、列侯、公主、吏二千石及豪富民多畜奴婢,田宅亡限,與民爭利,百姓失職,重困不足。其議限列。」有司條奏:「諸王、列侯得名田國中,列侯在長安及公主名田縣道,關內侯、吏民名田,皆無得過三十頃。諸侯王奴婢二百人,列侯、公主百人,關內侯、吏民三十人。年六十以上,十歲以下,不在數中。賈人皆不得名田、為吏,犯者以律論。諸名田、畜、奴婢過品,皆沒入縣官。齊三服官、諸官織綺繡,難成,害女紅之物,皆止,無作輸。除任子令及誹謗詆欺法。掖庭宮人年三十以下,出嫁之。官奴婢五十以上,免為庶人。禁郡國無得獻名獸。益吏三百石以下奉。察吏殘賊酷虐者,以時退。有司無得舉赦前往事。博士弟子父母死,予寧三年。」
曲陽侯の王根は、大司馬として国家をたすけたから、二千戸をふやされた。太僕で安陽侯の王舜にも旧恩があるから、五百戸を増やされた。丞相の孔光、大司空で汜郷侯の何武も、それぞれ千戸を増やされた。
詔した。「河間王の劉良は、3年喪をした。宗室の模範だ」
また哀帝は、詔した。
「奢淫をふせぐのは、君主にとって不変の仕事だ。皇族や官吏の、私有を制限したい。奴婢や田宅について、私有をゆるす上限を話し合え」
有司は、上奏した。
「諸王や列侯が、国許にもっている私田は、三十頃を越えません。身分を越えて、たくさん私有している人からは、没収しましょう」
秋,曲陽侯王根、成都侯王況皆有罪,根就國,況免為庶人,歸故郡。
詔曰:「朕承宗廟之重,戰戰兢兢,懼失天心。間者日月亡光,五星失行,郡國比比地動。乃者河南、潁川郡水出,流殺人民,壞敗廬舍。朕之不德,民反蒙辜,朕甚懼焉。已遣光祿大夫循行舉籍,賜死者棺錢,人三千。其令水所傷縣邑及他郡國災害什四以上,民貲不滿十萬,皆無出今年租賦。」
秋、曲陽侯の王根と、成都侯の王況は、罪があった。王根は任国にかえり、王況は庶人におとされて、帰郷した。
哀帝は、詔した。
「河南と潁川で、洪水があった。救済と減税をせよ」
前6年、外戚王氏の土地は、墓地だけ残して没収!
建平元年春正月,赦天下。侍中騎都尉新成侯趙欽、成陽侯趙皆有罪,免為庶人,徙遼西。
太皇太后詔外家王氏田非塚塋,皆以賦貧民。
二月,詔曰:「蓋聞聖王之治,以得賢為首。其與大司馬、列侯、將軍、中二千石、州牧、守、相舉孝弟□厚能直言通政事,延於側陋可親民者,各一人。」
三月,賜諸侯王、公主、列侯、丞相、將軍、中二千石、中都、郎吏金、錢、帛,各有差。
冬,中山孝王太后媛、弟宜鄉侯馮參有罪,皆自殺。
前6年、侍中・騎都尉・新成侯の趙欽と、成陽侯の趙キは、罪があった。庶人におとされ、遼西にうつされた。
哀帝が、敵対勢力を、きびしく裁いていることが分かる。さすが、法家の皇帝です。そして、つぎの行で、恐いことが起こる!
外戚の王氏の田地を、墓地をのぞき、すべて没収した。哀帝は、没収した土地を、貧民にあたえた。
2月、詔した。「孝弟かつ惇厚で、直言できる人材をあげよ」
3月、諸侯王や役人に、金などを賜った。
冬、中山孝王の太后である馮媛と、その弟で宜郷侯の馮参は、罪があった。自殺させられた。
次回、革命さわぎが起きます。哀帝が死にます。