表紙 > 漢文和訳 > 三国志を知るため『漢書』哀帝紀と平帝紀を抄訳する

03) 王莽の改革政策で、本紀が活況する

『漢書』哀帝紀と平帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。

詔書や上表は、意味を要約します。後世に『漢書』は、文章のお手本とされた。だが、ぼくらファンのニーズは、お手本を得ることじゃない。内容を知ることだと思う。これが抄訳の方針。


前1年:9歳の平帝が、王氏に迎えられる

孝平皇帝,元帝庶孫,中山孝王子也。母曰衛姬。年三歲嗣立為王。元壽二年六月,哀帝崩,太皇太后詔曰:「大司馬賢年少,不合眾心。其上印、綬,罷。」賢即日自殺。新都侯王葬為大司馬,領尚書事。秋七月,遣車騎將軍王舜、大鴻臚左鹹使持節迎中山王。辛卯,貶皇太后趙氏為孝成皇后,退居北宮,哀帝皇后傅氏退居桂宮。孔鄉侯傅晏、少府董恭等皆免官爵,徙合浦。九月辛酒,中山王即皇帝位,謁高廟,大赦天下。

孝平皇帝は、元帝の庶孫である。中山孝王の子である。母は、衛姬という。3歳で、中山王に立てられた。

いとこの哀帝も、3歳で定陶王になった。

元壽二年(前1年)6月、哀帝が報じた。太皇太后の王氏は詔した。
大司馬の董賢はわかく、人望がない。大司馬の印綬をかえせ」
董賢は、その日のうちに自殺した。

董賢は、王氏の対立してる。列伝を読むべし。

新都侯の王葬は、大司馬となり、尚書事を領した。

やっと、出てきました! 真打登場。

7月、車騎將軍の王舜と、大鴻臚の左鹹に節を持たせ、中山王を迎えさせた。
辛卯,皇太后の趙氏をランクダウンし、孝成皇后とした。哀帝の皇后である傅氏を、居桂宮にしりぞけた。孔郷侯の傅晏、少府の董恭らを、くびにして、合浦にうつした。
9月辛酉に、中山王は即位して、劉邦の廟にもうでた。大赦した。

帝年九歲,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。詔曰:「夫赦令者,將與天下更始,誠欲令百姓改行潔己,全其性命也。往者有司多舉奏赦前事,累增罪過,誅陷亡辜,殆非重信慎刑,灑心自新之意也。及選舉者,其曆職更事有名之士,則以為難保,廢而弗舉,甚謬於赦小過舉賢材之義。諸有臧及內惡未發而薦舉者,勿案驗。令士厲精鄉進,不以小疵妨大材。自今以來,有司無得陳赦前事置奏上。有不如詔書為虧恩,以不道論。定著令,佈告天下,使明知之。」

平帝は9歳なので、王太皇太后が臨朝した。大司馬の王莽が、政権をとった。百官は、すべて王莽に、決裁をあおいだ。王氏は、詔した。
「小さい欠点に目をつぶり、有能な人材をあげよ」

詔書は、念入りにチェックしてから、発表されるものだ。悪い内容が、書かれているはずがない。丹念に読んでも、ファン的にはおもしろくないと思う。だから、ひどい省略をやっています。


後1年:王莽の善政のはじまり、おおくの経済対策

元始元年春正月,越裳氏重譯獻白雉一,黑雉二,詔使三公以薦宗廟。
群臣奏言大司馬莽功德比周公,賜號安漢公,及太師孔光等皆益封。語在《莽傳》。賜天下民爵一級,吏在位二百石以上,一切滿秩如真。

元始元年(後1年)正月、越の裳氏が、通訳をかさねて朝貢した。白いキジ1羽と、黒いキジ2羽を献上した。三公にめいじ、キジを宗廟にそなえた。
郡臣が「王莽の功徳は、周公とおなじ」と云った。王莽は、安漢公の号をもらった。太師の孔光らは、みな封戸をふやされた。くわしくは《王莽傳》にある。

曹操が魏公になるとき、絶対に意識されたはずだ。

もと東平王の劉雲の太子・劉開明を、東平王とした。もと桃郷頃侯の子・劉成都を、中山王とした。宣帝の耳孫・劉信ら36人を、みな列侯に封じた。

ちくま注釈によれば「耳孫」とは、玄孫の子。もしくは玄孫の曾孫。耳に聞くだけで、血縁がとおい子孫をさす。
ぼくは思う。王莽は、前漢の皇族をおおく封じた。曹操と同じだ。曹操は、献帝の皇子たちを、たくさん封じてやった。許靖だかに「曹操は、漢室をうばおうと思うから、ぎゃくに与えたのだ」とコメントされた。曹操の真意は知らんが、王莽のマネではある。


立故東平王雲太子開明為王,故桃鄉頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號,守經法,不阿指從邪;右將軍孫建爪牙大臣,大鴻臚鹹前正議不阿,後奉節使迎中山王;及宗正劉不惡、執金吾任岑、中郎將孔永、尚書令姚恂、沛郡太守石詡,皆以前與建策,東迎即位,奉事周密勤勞,賜爵關內侯,食邑各有差。賜帝征即位所過縣邑吏二千石以下至佐史爵,各有差。又令諸侯王、公、列侯、關內侯亡子而有孫若子同產子者,皆得以為嗣。公、列侯嗣子有罪,耐以上先請。宗室屬未盡而以罪絕者,複其屬。其為吏舉廉佐史,補四百石。天下吏比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其身。遣諫大夫行三輔,舉籍吏民,以元壽二年倉卒時橫賦斂者,償其直。義陵民塚不妨殿中者勿發。天下吏民亡得置什器儲□。

王莽は、哀帝にあらがい、平帝をたすけた人を、関内侯にした。
太僕の王惲ら25人は、まえに傅太后の尊號を検討したとき、哀帝におもねらなかった。右將軍の孫建は、爪牙たる大臣である。大鴻臚の左鹹も、哀帝におもねらず、平帝を即位させる手柄があった。
宗正の劉不惡、執金吾の任岑、中郎將の孔永、尚書令の姚恂、沛郡太守の石詡は、平帝を即位させるのを、手伝った。関内侯になった。

個別の人名を、チェックしたい。
成帝-哀帝-平帝は、ともに政権交替だった。血なまぐさいのも、仕方がない。王莽が悪いのではない。笑

罪人の子孫を、復帰させた。引退した役人に、老後の生活資金をくばった。哀帝が死んだドサクサにまぎれ、税をとりすぎた役人に、つぐないをさせた。

二月,置羲和官,秩二千石;外史、閭師,秩六百石。班教化,禁淫祀,放鄭聲。乙未,義陵寢神衣在柙中,丙申旦,衣在外床上,寢令以急變聞。用太牢祠。
夏五月丁巳朔,日有蝕之。大赦天下。公卿、將軍、中二千石舉敦厚能直言者各一人。
六月,使少府左將軍豐賜帝母中山孝王姬璽書,拜為中山孝王后。賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯。賜帝女弟四人號皆曰君,食邑各二千戶。
封周公後公孫相如為褒魯侯,孔子後孔均為褒成侯,奉其祀。追諡孔子曰褒成宣尼公。罷明光宮及三輔馳道。

後1年2月に王莽は、羲和の官(大司農)をおいた。秩は二千石だ。外史、閭師をおき、秩は六百石だ。教化をひろめ、淫祀を禁じた
乙未,義陵の寢神で、ひとりでに衣がゆかに出た。太牢をそなえた。
5月みそか、日食した。大赦した。敦厚な人材をつのった。
6月、少府・左將軍の甄豊をやり、平帝の母系の親族に爵位や食邑をおくらせた。
周公の子孫と、孔子の子孫を、侯爵にした。孔子を尊んで「褒成宣尼公」とした。明光宮と、三輔の馳道をやめた。

天下女徒已論,歸家,顧山錢月三百。複貞婦,鄉一人。置少府海丞、果丞各一人;大司農部丞十三人,人部一州,勸農桑。
太皇太后省所食湯沐邑十縣,屬大司農,常別計其租入,以贍貧民。秋九月,赦天下徒。以中山苦陘縣為中山孝王后湯沐邑。

女囚人を、家に帰した。樹木を伐って、月300銭をおさめることが、家に帰る条件である。
少府に、海丞(海の税金をみる)果丞(果実の税金をみる)を1人ずつ、おいた。大司農に、部丞13人をおいて、1人1州を担当させ、農桑を勧めさせた。

山税、海税、果税、農業と桑業。王莽の経済政策は、論文が多そうだが、、とりあえず財政を立てなおしたと理解して、誤りじゃなかろう。

太皇太后の王氏は、10県を大司農にかえした。浮いた費用は、貧民にわけた。

めずらしく本紀が、充実している。改革政策がおおい。
王莽の登場する前、いかに漢室が無策だったか、分かります。つづく。