表紙 > 漢文和訳 > 三国志を知るため『漢書』哀帝紀と平帝紀を抄訳する

04) 平帝14歳、遺言なし!

『漢書』哀帝紀と平帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。

詔書や上表は、意味を要約します。後世に『漢書』は、文章のお手本とされた。だが、ぼくらファンのニーズは、お手本を得ることじゃない。内容を知ることだと思う。これが抄訳の方針。


後2年:前漢の功臣の子孫を封じ、江湖が叛乱する

二年春,黃支國獻犀牛。
詔曰:「皇帝二名,通於器物,今更名,合于古制。使太師光奉太牢告祠高廟。」
夏四月,立代孝王玄孫之子如意為廣宗王,江都易王孫盱台侯宮為廣川王,廣川惠王曾孫倫為廣德王。封故大司馬博陸侯霍光從父昆弟曾孫陽、宣平侯張敖玄孫慶忌、絳侯周勃玄孫共、舞陽侯樊噲玄孫之子章皆為列侯,複爵。賜故曲周侯酈商等後玄孫酈明友等百一十三人爵關內侯,食邑各有差。
郡國大旱,蝗,青州尤甚,民流亡。安漢公、四輔、三公、卿大夫、吏民為百姓困乏獻其田宅者二百三十人,以口賦貧民。遣使者捕蝗,民捕蝗詣吏,以石、鬥受錢。天下民貲不滿二萬及被災之郡不滿十萬,勿租稅。民疾疫者,舍空邸第,為置醫藥。賜死者一家六屍以上葬錢五千,四屍以上三千,二屍以上二千。罷安定呼池苑,以為安民縣,起官寺市里,募徙貧民,縣次給食。至徙所,賜田宅什器,假與□、牛、種、食。又起五裏于長安城中,宅二百區,以居貧民。

後2年、黄支國は、犀牛を献上した。王氏は詔した。
平帝の名『箕子』は、器物につうじる。改名する」

皇帝の名前は、忌まねばならん。つかう頻度がたかい文字だと、万民が迷惑なのだ。そとから入った皇帝が、たびたび犯すあやまち。

4月、皇族の子孫や、霍光、張敖、周勃、樊噲の子孫を、列侯にした。酈商の子孫を、関内侯にした。
ひでり、いなご。青州がもっともひどかった。救済した。

秋,舉勇武有節明兵法,郡一人,詣公車。九月戊申晦,日有蝕之。赦天下徒。
使謁者大司馬掾四十四人持節行邊兵。
遣執金吾侯陳茂假以鉦鼓,募汝南、南陽勇敢吏士三百人,諭說江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。
冬,中二千石舉治獄平,歲一人。

秋、勇武で兵法に節明な人を、郡ごとにあげさせた。
9月みそか、日食した。罪人をゆるした。
謁者・大司馬掾44人に、節を持たせ、辺境の兵をチェックさせた。
執金吾侯の陳茂に、汝南と南陽で300人を集めさせた。陳茂は、江湖の賊・成重ら200余人を投降させた。成重は雲陽にうつり、家と田地をもらった。

前漢の首都は、長安だ。長安から見れば、汝南と南陽はフロンティアだ。荊州の南は、ほぼ外国である。
『後漢書』で、荊州や揚州の叛乱がおおく記録されるのは、後漢が弱っているからではない? 荊州や揚州も、治めるべき国内だと認識するから、後漢から見たら「叛乱」が増えてしまう。とか?

冬、公正な獄吏を、1人ずつあげさせた。

後3年、王莽が学校を建てつつ、息子を殺す

三年春,詔有司為皇帝納采安漢公莽女。語在《莽傳》。又詔光祿大夫劉歆等雜定婚禮。四輔、公卿、大夫、博士、郎、吏家屬皆以禮娶,親迎立軺並馬。
夏,安漢公奏車服制度,吏民養生、送終、嫁娶、奴婢、田宅、器械之品。立官稷及學官:郡國曰學,縣、道、邑、侯國曰校,校、學置經師一人;鄉曰庠,聚曰序,序、癢置《孝經》師一人。
陽陵任橫等自稱將軍,盜庫兵,攻官寺,出囚徒。大司徒掾督逐,皆伏辜。
安漢公世子宇與帝外家衛氏有謀。宇下獄死,誅衛氏。

後3年、有司は、王莽のむすめを、平帝の皇后にすべきだと云った。くわしくは《王莽傳》にある。詔して、光祿大夫の劉歆らに、婚姻の手続きを決めさせた。
夏、王莽は車服の制度をきめた。生活のスタイルについて、学官をおいて研究させた。学官は、郡國では「學」とよび、縣や道や邑や侯國では「校」とよんだ。
陽陵の任橫らが、将軍を称して、役所を襲撃した。鎮めた。
王莽の子・王宇と、外戚の衛氏が、はかりごとした。王宇は獄死し、衛氏は誅された。

息子を殺す、王莽。有名な話です。くわしく知りたい。


後4年、王莽が宰衡となり、官名と地名をシャッフル

四年春正月,郊祀高祖以配天,宗祀孝文以配上帝。改殷紹嘉公曰宋公,周承休公曰鄭公。
詔曰:「蓋夫婦正則父子親,人倫定矣。前詔有司複貞婦,歸女徒,誠欲以防邪辟,全貞信。及眊掉之人刑罰所不加,聖王之所以制也。惟苛暴吏多拘系犯法者親屬,婦女老弱,構怨傷化,百姓苦之。其明敕百僚,婦女非身犯法,及男子年八十以上七歲以下,家非坐不道,詔所名捕,它皆無得系。其當驗者,即驗問。定著令。」
二月丁未,立皇后王氏,大赦天下。
遣太僕王惲等八人置副,假節,分行天下,覽觀風俗。
賜九卿已下至六百石、宗室有屬籍者爵,自五大夫以上各有差。賜天下民爵一級,鰥、寡、孤、獨、高年帛。

後4年正月、前漢の高帝と文帝を、天に合わせて祭った。殷の子孫を、宋公とした。周の子孫を、鄭公とした。王氏は、詔した。
「役人が、罪のうたがいがある人を、よく調べずに捕える。家族がつれさられ、人民はうらみをもつ。捕える前に、よく調べよ」
2月、王莽の娘が皇后になった。天下に大赦した。
太僕の王惲ら8人に、天下の風俗をチェックさせた。

夏,皇后見於高廟。加安漢公號曰「宰衡」。賜公太夫人號曰功顯君。封公子安、臨皆為列侯。 安漢公奏立明堂、辟雍。尊孝宣廟為中宗,孝元廟為高宗,天子世世獻祭。
置西海郡,徙天下犯禁者處之。
梁王立有罪,自殺。
分京師置前輝光、後丞烈二郡。更公卿、大夫、八十一元士官名、位次及十二州名。分界郡國所屬,罷、置、改易,天下多事,吏不能紀。
冬,大風吹長安城東門屋瓦且盡。

王皇后は、高帝廟にまみえた。王莽に「宰衡」の称号をくわえた。王莽の子である、王安と王臨を、列侯とした。
王莽は、宣帝を中宗とし、元帝を高宗とした。天子は、代々これを祭ることになった。

代々って、だれ? 王莽のときに、前漢は終わるのだ。笑

西海郡をおいて、流刑地にした。
長安の周辺に、新しく「前輝光」「後丞烈」という2郡をおいた。官名と序列、12州の地名をあらためた。ややこしくて、役人すら理解できなかった。

王莽の失敗にかぞえられること。有名ですね。

冬、風がふいた。長安城の東門の瓦が、すべて飛んだ。

後5年:皇族1000人が集合して叱られ、平帝が崩御

五年春正月,□祭明堂。諸侯王二十八人、列侯百二十人、宗室子九百餘人征助祭。禮畢,皆益戶,賜爵及金、帛,增秩、補吏,各有差。
詔曰:「蓋聞帝王以德撫民,其次親親以相及也。昔堯睦九族,舜B129敘之。朕以皇帝幼年,且統國政,惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟吳頃、楚元之後,漢元至今,十有餘萬人,雖有王侯這屬,莫能相糾,或陷入刑罪,教訓不至之咎也。傳不雲乎?『君子篤于親,則民興於仁。』其為宗室,自太上皇以來族親,各以世氏,郡國置宗師以糾之,致教訓焉。二千石選有德義者以為宗師。考察不從教令有冤失職者,宗師得因郵亭書言宗信,請以聞。常以歲正月賜宗師帛各十匹。」

後5年正月、諸侯王28人、列侯120人、宗室の子900余人が、祭事をたすけた。
王氏は、詔した。
劉氏の皇族は、充分に助け合っていない。まず親族が助けあわねば、人民を助けることもできない」

1000人以上も皇族を集めて、王氏が叱ってしまった! 絵として、すごく面白い。そして、『漢書』本紀は、これが最後の歳になるのです。


羲和劉歆等四人使治明堂、辟雍,令漢與文王靈台、周公作洛同符。太僕王惲等八人使行風俗,宣明德化,萬國齊同。皆封為列侯。
征天下通知逸經、古記、天文、曆算、鐘律、小學、《史篇》、方術、《本草》及以《五經》、《論語》、《孝經》、《爾雅》教授者,在所為駕一封軺傳,遣詣京師。至者數千人。 閏月,立梁孝王玄孫之耳孫音為王。

羲和の劉歆ら4人に、周公にならった学問所をつくらせた。太僕の王惲ら8人に、諸国をめぐらせた。前漢の国土を、均質にさせた。劉歆や王惲らは、みな列侯に封じられた。
天下に散った書物をあつめた。数千人があつまった。
閏月、梁孝王の玄孫の耳孫である劉音を、梁王にした。

もう「誰やねん」という世界。ながい王朝が滅びそうになると、皇族の発掘が始まるのかも知れない。ひとりでも、有能な人物がでたら、ラッキーだから。有能さはランダムだ。母集団をふやし、確率をあげたい。
もちろんぼくは、劉備を意識して、これを書いています。笑


冬十二月丙午,帝崩于未央宮。大赦天下。有司議曰:「禮,臣不殤君。皇帝年十有四歲,宜以禮斂,加元服。」奏可。葬康陵。詔曰:「皇帝仁惠,無不顧哀,每疾一發,氣輒上逆,害於言語,故不及有遺詔。其出媵妾,皆歸家得嫁,如孝文明故事。」

12月丙午、平帝は未央宮で崩れた。天下を大赦した。
有司は、議した。
「礼のルールでは、臣下は君主を、若死にさせない。平帝は14歳にすぎないが、元服させよう。成人して、死んだことにしよう

前漢の皇帝としては、あまりに早い死だ。だから、王莽が平帝を毒殺したという人がいる。しかし、後漢の皇帝は、もっと安易に、わかく死にまくる。平帝の死は、不審ではない。笑

王氏は、元服をゆるした。康陵に葬った。詔した。
「平帝は病気により、言語に障害がでた。だから遺言がない。平帝のつまは、みな家に帰し、再婚をゆるせ」

班固の賛:王莽の政治は、異民族をも心服させた

贊曰:孝平之世,政自莽出,褒善顯功,以自尊盛。觀其文辭,方外百蠻,亡思不服;休征嘉應,頌聲並作。至乎變異見於上,民怨於下,莽亦不能文也。

班固の賛はいう。平帝の時代は、王莽が政治をした。善行をほめ、功績をあきらかにした。
王莽のだした声明を読めば、辺境の異民族まで、すべて前漢に心服したとある。 しかし、平帝が急死したとき、民は怨みをいだいた。王莽ですら、うまい政策を打てなかった。

原文「觀其文辭」とは、なにか。ちくま訳は、指示語のまま放置して、よく分からない。「莽亦不能文也」とあるから、王莽が発表した、公式文書じゃないかと思います。詔書とか。
ちくま訳は「莽亦不能文也」を、王莽もまたそれを粉飾することができなかった、とする。かたよった訳文だと思う。作文できなかった、とあるだけだ。粉飾がねらいだと、決めつけてはいけない。
「至乎變異見於上」は、平帝の死である。
民が怨んだ相手は、どちらだろう。皇帝の寿命がもたない、頼りない漢室か。平帝毒殺をうたがわれた王莽か。班固は、後漢の人だ。王莽をわるく描く立場だ。だから毒殺をにおわせつつ、わざと漢室が怨まれた可能性ものこした書き方になっている。?


おわり。唐突感があるのは、班固のせいだ。班固は、王莽伝につなげたいのだろう。つぎは『漢書』のどこを読もうかなあ。100724