表紙 > 漢文和訳 > 三国志を知るため『漢書』哀帝紀と平帝紀を抄訳する

02) 亡国の神託におびえ、息切れ

『漢書』哀帝紀と平帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。

詔書や上表は、意味を要約します。後世に『漢書』は、文章のお手本とされた。だが、ぼくらファンのニーズは、お手本を得ることじゃない。内容を知ることだと思う。これが抄訳の方針。


前5年、漢の哀帝あらため、陳聖劉太平皇帝!

二年春三月,罷大司空,複御史大夫。
夏四月,詔曰:「漢家之制,推親親以顯尊尊。定陶恭皇之號不宜複稱定陶。尊恭皇太后曰帝太太後,稱永信宮;恭皇后曰帝太后,稱中安宮。立恭皇廟于京師。郝天下徒。」
罷州牧,複刺史。
六月庚申,帝太后丁氏崩。上曰:「朕聞夫婦一體。《詩》雲:『穀則異室,死則同穴。』昔季武子成寢,杜氏之殯在西階下,請合葬而許之。附葬之禮,自周興焉。『鬱鬱乎文哉!吾從周。』孝子事亡如事存。帝太后宜起陵恭皇之園。」遂葬定陶。發陳留、濟陰近郡國五萬人穿複土。

前5年3月、大司空をやめて、御史大夫にもどした。
4月、詔した。
「漢家のルールでは、親族を大切にする。私の父を、定陶恭皇とよんではいけない。恭皇帝とよべ」

定陶といえば、地方の王だとバレるからだ。敬意がたりない。笑

州牧をやめて、刺史にもどした。

大司空をやめ、州牧をやめた。まえの成帝の政策を、否定している。
中央=哀帝に、権力をあつめたのだろうね。

6月、哀帝の母・丁氏が死んだ。哀帝は云った。
「夫婦は、2人でひとつだ。母を、父とおなじ陵墓にほうむれ」
陳留や濟陰から、定陶に5万人を動員し、陵墓をつくった。

さっき倹約しろと命じたのは、哀帝なのに。傍系から即位した。自分の血筋を、採算を度外視して正統化したがるのは、成帝のホンモノのキャラなのだろうか。それとも、歴史家がつくる、ステレオタイプなのかなあ。


待詔夏賀良等言赤精子之讖,漢家曆運中衰,當再受命,宜改元、易號。詔曰:「漢興二百載,歷數開元。皇天降非材之佑,漢國再獲受命之符,朕之不德,曷敢不通!夫基事之元命,必與天下自新,其大赦天下。以建平二年為太初元年。號曰陳聖劉太平皇帝。漏刻以百二十為度。」
七月,以渭城西北原上永陵亭部為初陵。勿徙郡國民,使得自安。
八月,詔曰:「待詔夏賀良等建言改元、易號,增益漏刻,可以永安國家。朕過聽賀良等言,冀為海內獲福,卒亡嘉應。皆違經背古,不合時宜。六月甲子制書,非赦令也皆蠲除之。賀良等反道惑眾,下有司。」皆伏辜。
丞相博、御史大夫玄、孔鄉侯晏有罪。博自殺,玄減死二等論,晏削戶四分之一。語在《博傳》。

待詔の夏賀良らが、云った。
「赤精子之讖によれば、漢家の暦運は、衰退する時期にあたる。ふたたび天命を受けなおし、改元して、尊号をかえるべきだ」
哀帝は、太初元年と改元し、陳聖劉太平皇帝となのった。

ちくま訳では「太初元将元年」と書いてあったが、なんだかよく分からない。「元」の字は、「元年」が混ざりこんだようにも見えるし。

8月、詔した。
「夏賀良に、だまされた。改元しても、いいこと(嘉應)は起きなかった。夏賀良は、罪がある」
丞相の朱博、御史大夫の趙玄、孔鄉侯の傅晏は、罪をえた。朱博は自殺した。趙玄は、死二等を減じられた。傅晏は、4分の1の戸数をけずられた。くわしくは《朱博伝》にある。

朱博伝を読まねばなるまい。失脚の記事、多いなあ。


前4-3年、西王母が来るぞとパニクる

三年春正月,立廣德夷王弟廣漢為廣平王。癸卯,帝太太後所居桂宮正殿火。
三月己酉,丞相當薨。有星孛於河鼓。夏六月,立魯頃王子□鄉侯閔為王。
冬十一月壬子,複甘泉泰畤、汾陰後土祠,罷南、北郊。
東平王雲、雲後謁、安成恭侯夫人放皆有罪。雲自殺,謁、放棄市。

前4年正月、廣德夷王の弟の、劉廣漢を廣平王とした。癸卯、哀帝の祖母の宮殿が、焼けた。
3月、丞相の平当が死んだ。彗星がでた。
6月、魯頃王の子・□郷侯の劉閔を、魯王とした。
11月、甘泉の泰畤と汾陰で、後土を祠った。南北郊をやめた。

まえの成帝は、趣味みたいに、毎年やっていました。

東平王の劉雲、劉雲の后である謁、安成恭侯(王崇=王莽のおじ)の夫人は、みな罪をえた。劉雲は自殺した。謁は棄市された。

四年春,大旱。關東民傳行西王母籌,經歷郡國,西入關至京師。民又會聚祠西王母,或夜持火上屋,擊鼓號呼相驚恐。
二月,封帝太太後從弟侍中傅商為汝昌侯,太后同母弟子侍中鄭業為陽信侯。
三月,侍中駙馬都尉董賢、光祿大夫息夫躬、南陽太守孫寵皆以告東平王封列侯。語在《賢傳》。

前3年春、ひでりした。関東の民が、西王母があらわれるとウワサし、郡國をまわった。関所をとおり、長安に入った。ある人は火を持って建物をのぼり、ある人は太鼓をうった。パニックになった。

2年前に夏賀良から「天命を受けなおせ」という進言があった。王莽がいようが、いまいが、世論は前漢の行き詰まりを感じていたらしい。
なんで? どうやって? 後漢末を読むときに、ぜったいヒントになると思うので、理解をふかめたいなあ。

2月に哀帝は、祖母の從弟・侍中の傅商を、汝昌侯とした。母の同母弟の子・侍中の鄭業を、陽信侯とした。

哀帝が頼れるのは、じぶんの外戚です。哀帝は、まえの成帝の外戚・王氏をつぶしつつ、外戚というポジションそのものを、政治から除こうとしたのではない。
外戚のあつかいは、後漢の初期から、注目されたテーマだった。前漢からのつながりを知ると、後漢前期の皇帝のあたまの中も、分かるかも?

3月、前年に東平王・劉雲を告発した人たちが、列侯に封じられた。侍中・駙馬都尉の董賢、光祿大夫の息夫躬、南陽太守の孫寵らである。くわしくは《董賢傳》にある。

本紀がリンクを貼っている。読まねばなるまい。


夏五月,賜中二千石至六百石及天下男子爵。六月,尊帝太太後為皇太太後。
秋八月,恭皇園北門災。冬,詔將軍、中二千石舉明兵法有大慮者。

5月、天下の男子に、爵位をあげた。
6月、帝太太后をとうとび、皇太太后とした。

「帝」より「皇」が上? 分からんが、外戚だのみで必死。

8月、恭皇(哀帝の父)園の北門が焼けた。
冬に哀帝は、将軍と中二千石に命じて、兵法に明るく、大慮のある人を推薦させた。

この募集要件ははじめて。本紀には、軍事トラブルは載っていない。異民族とも、うまくいっているはず。西王母のパニック対策?


前2年、日食でおちこんだ上、哀帝の祖母が死ぬ

元壽元年春正月辛醜朔,日有蝕之。詔曰:「朕獲保宗廟,不明不敏,宿夜憂勞,未皇寧息。惟陰陽不調,元元不贍,未賭厥咎。婁敕公卿,庶幾有望。至今有司執法,未得其中,或上暴虐,假勢獲名,溫良寬柔,陷於亡滅。是故殘賊彌長,和睦日衰,百姓愁怨,靡所錯躬。乃正月朔,日有蝕之,厥咎不遠,在餘一人。公卿大夫其各悉心勉帥百寮,敦任仁人,黜遠殘賊,期於安民。陳朕之過失,無有所諱。其與將軍、列侯、中二千石舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。」
丁巳,皇太太後傅氏崩。三月,丞相嘉有罪,下獄死。
秋九月,大司馬票騎將軍丁明免。孝元廟殿門銅龜蛇鋪首鳴。

前2年正月みそか、日食した。哀帝は詔した。
「日食は、私1人の責任だ。賢良方正で直言できる人材をあげよ」
哀帝の祖母の傅氏が死んだ。
4月、丞相の王嘉が、罪をえて、獄死した。
9月、大司馬・票騎將軍の丁明を免じた。
元帝の廟の門につけた、銅製のヘビとカメが、鳴いた。

ちくま訳は「鳴き叫んだ」とある。しかし原文は「鳴」だ。「カーン」とか「キュ」とか、だけかも。っていうか、ヘビとカメって、なんて鳴くのか?
よく「銅人が鳴りひびいた」という話ならあるのだが。
銅製品は、鳴って王朝の衰退をつげる。王朝の評判を、落とすことはあっても、高めることはない。銅製品を、建造してはならない。笑


前1年、官制改革の途中に、哀帝は死ぬ

二年春正月,匈奴單于、烏孫大昆彌來朝。二月,歸國,單于不說。語在《匈奴傳》。
夏四月壬辰晦,日有蝕之。
五月,正三公官公職。大司馬衛將軍董賢為大司馬,丞相孔光為大司徒,御史大夫彭宣為大司空,封長平侯。正司直、司隸,造司寇職,事未定。
六月戊午,帝崩于未央宮。秋九月壬寅,葬義陵。

前1年、匈奴の単于と、烏孫の大昆彌が来朝した。2月、帰国した。単于は、よろこばず。くわしくは《匈奴傳》にある。
4月みそか、日食した。
5月、三公の担当を見直した。大司馬・衛將軍の董賢を、大司馬とした。丞相の孔光を、大司徒とした。御史大夫の彭宣を、大司空して、長平侯に封じた。
司直、司隸を見直し、司寇を設置しようとしたが、おわらなかった。 6月戊午、哀帝は未央宮で崩じた。九月壬寅、義陵に葬った。

班固の賛:藩国のウツワしかなかった

贊曰:孝哀自為籓王及充太子之宮,文辭博敏,幼有令聞。賭孝成世祿去王室,權柄外移,是故臨朝婁誅大臣,欲強主威,以則武、宣。雅性不好聲色,時覽卞射武戲。即位痿痹,末年B056劇,饗國不永,哀哉!

班固の賛はいう。哀帝は、定陶王から皇太子にうつった。文辞は、ひろく敏く、幼いときから、令聞があった。哀帝は、外戚や大臣を誅して、武帝や宣帝にのっとった。だが、皇帝になってからは、しびれがきて、長持ちしなかった。哀しいことだなあ。

「痿痹」を、ちくま訳は「萎縮して」とする。定陶王としては自信たっぷりでも、皇帝には通用しない。ありえる話で、分かりやすい。まえの成帝の後継が、中山王か、この哀帝かの二択だったのだから、仕方ないか、、


つぎ、前漢さいごの本紀、平帝紀です。