表紙 > 漢文和訳 > 三国志を知るため『漢書』成帝紀を抄訳する

01) 成帝が即位、王皇太后が誕生

『漢書』成帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。

曹操たちの時代、後漢の滅亡が想定されたとき、
ひとは『漢書』の結末を熟読にしたに、ちがいありません。
趣味とか参考でなく、リアルな教訓を得ようとしたはずだ。
三国志を知るため、後漢人の歴史認識を知りたい。『漢書』やります。
横目で、お付き合いくださいませ。

成帝は、定陶恭王と皇位をあらそった

孝成皇帝,元帝太子也。母曰王皇后。元帝在太子宮生甲觀畫堂,為世嫡皇孫。宣帝愛之,字曰太孫,常置左右。年三歲而宣帝崩,元帝即位,帝為太子。壯好經書,寬博謹慎。初居桂宮,上嘗急召,太子出龍樓門,不敢絕馳道,西至直城門,得絕乃度,還入作室門。上遲之,問其故,以狀對。上大說,乃著令,令太子得絕馳道雲。其後幸酒,樂燕樂,上不以為能。而定陶恭王有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以恭王為嗣。賴侍中史丹護太子家,輔助有力,上亦以先帝尤愛太子,故得無廢。

成帝は、元帝の太子だ。母は、王皇后だ。

この王皇后というのが、王莽のおばです。

まだ父の元帝が太子のとき、祖父の宣帝に愛され、あざなを太孫とつけられた。3歳のとき宣帝が死に、元帝が即位した。太子となった。経書をこのんだ。
あるとき成帝は、元帝の呼びだしに遅れた。元帝は、遅刻のわけを問うた。成帝は、長安に通れない道があり、遠回りしたことを云った。元帝は、ショートカットできる道の通行をゆるした。

成帝が、身の程をわきまえる性格だ。というエピソード?
父のお召しに遅れるのは、最悪。でも、太子の身分で(おそらく)皇帝専用の道を通らなかった。三国で、曹植が通行禁止の門をとおり、失点をした。皇帝のまわりは、かなり交通規制がきびしかったらしい。

のちに成帝は、酒と音楽におぼれた。父の元帝は、定陶恭王の才芸を愛し、定陶恭王をつぎの皇帝にしたいと考えた。定陶恭王は、母の傅昭儀が、元帝から寵愛をうけた。

王皇后の危機です。この皇位あらそいは、列伝でおぎなうべきだ。

しかし侍中の史丹が、太子である成帝をたすけた。また成帝は、祖父の宣帝に愛されたことから、つぎの皇帝になれた。

前33年、王鳳が大司馬となる

竟甯元年五月,元帝崩。六月已未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中衛尉陽平侯王鳳為大司馬大將軍,領尚書事。
乙未,有司言:「乘輿車、牛、馬、禽獸皆非禮,不宜以葬。」奏可。
七月,大赦天下。

前33年5月、元帝が崩じた。6月、成帝は即位した。母の王氏を、皇太后とした。母方のおじで、侍中衛尉をつとめる陽平侯の王鳳を、大司馬大将軍とし、尚書のことを領させた。

王莽のおじです。外戚が大司馬となり、政権を担当する。

7月、天下に大赦した。

前32年、外戚の王氏が関内侯になり、怪異ラッシュ

建始元年春正月乙丑,皇曾祖悼考廟災。立故河間王弟上郡庫令良為王。有星勃于營室。罷上林詔獄。
二月,右將軍長史姚尹等使匈奴還,去塞百餘裏,暴風火發,燒殺尹等七人。官吏千石以下至二百石及宗室子有屬籍者、三老、孝弟、力田、鰥、寡、孤、獨錢、帛,各有差,吏民五十戶牛、酒。
詔曰:「乃者火災降于祖廟,有星孛於東方,始正而虧,咎孰大焉!《書》雲:『惟先假王正厥事。』群公孜孜,帥先百寮,輔朕不逮。崇寬大,長和睦,凡事怒己,毋行苛刻。其大赦天下,使得自新。」
封舅諸吏光祿大夫關內侯王崇為安成侯。賜舅王譚、商、立、根、逢時爵關內侯。

前32年正月、宣帝の父・史皇孫の廟がもえた。彗星があった。
2月、右将軍長史の姚尹が、匈奴に使いした。焼け死んだ。
「火災や彗星は、私への咎めだ。大赦する。政治を刷新しよう」
おじで諸吏(兼務で定員なし)の光祿大夫をつとめる、関内侯の王崇を、安成侯とした。おじの王譚、王商、王立、王根、王逢は、ときに関内侯になった。

王莽のおじたちです。王莽の父・王曼はすでに死んでいる。


夏四月,黃霧四塞,博問公卿大夫,無有所諱。
六月,有青蠅無萬數集未央宮殿中朝者坐。
秋,罷上林宮、館希禦幸者二十五所。
八月,有兩月相承,晨見東方。
九月戊子,流星光燭地,長四五丈,委曲蛇形,貫紫宮。
十二月,作長安南北郊,罷甘泉、汾陰祠。是日大風,拔甘泉畤中大木十韋以上。郡國被災什四以上,毋收田租。

4月に黄色い霧。6月に青いハエが、朝臣の席にむれた。8月に、月が東の空にふたつ。9月、流星。12月、大風で税収減。

事件のない歳だなあ。『漢書』は、外戚の王氏の進出を、前漢の滅亡にむすびつけたいか。後漢末と同じくらい、怪異の連続だ。


前31年、許皇后をたてた

二年春正月,罷雍五畤。辛已,上始郊祀長安南郊。詔曰:「乃者徙泰畤、後士於南郊、北郊,朕親飭躬,郊祀上帝。皇天報應,神光並見。三輔長無共張徭役之勞,赦奉郊縣長安、長陵及中都官耐罪徒。減天下賦錢,算四十。」
閏月,以渭城延陵亭部為初陵。
二月,詔三輔內郡舉賢良方正各一人。
三月,北宮井水溢出。辛醜,上始祠後土於北郊。丙午,立皇后許氏。罷六廄、技巧官。
夏,大旱。東平王宇有罪,削樊、亢父縣。
秋,罷太子博望苑,以賜宗室朝請者。減乘輿廄馬。

前31年正月、長安の南郊でまつった。減税した。
2月、三輔と内郡から、賢良方正を1人ずつ挙げさせた。
3月、許氏(許嘉の娘)を、皇后にたてた。
夏、ひでり。東平王の劉宇は、罪により領地を削られた。
秋、皇族のもちものを倹約し、臣下にゆずった。

本紀って、こんなに少量&退屈だっけ。笑
『後漢書』の後半とちがうのは、フロンティアの反乱がまったく記されていないこと。范曄は、ぜったいに『漢書』を手本にした。差異を意識して、書いたにちがいない。


前30年、地震と日食により、人材をつのる

三年春三月,赦天下徒。賜孝弟、力田爵二級。諸逋租賦所振貸勿收。
秋,關內大水。
七月,シ上小女陳持弓聞大水至,走入橫城門,闌入尚方掖門,至未央宮鉤盾中。吏民驚上城。
九月,詔曰:「乃者郡國被水災,流殺人民,多至千數。京師無故訛言大水至,吏民驚恐,奔走乘城。殆苛暴深刻之吏未息,元元冤失職者眾。遣諫大夫林等循行天下。」
冬十二月戊申朔,日有蝕之。夜,地震未央宮殿中。詔曰:「蓋聞天生眾民,不能相治,為之立君以統理之。君道得,則草木、昆蟲鹹得其所;人君不德,謫見天地,災異婁發,以告不治。朕涉道日寡,舉錯不中,乃戊申日蝕、地震,朕甚懼焉。公卿其各思朕過失,明白陳之。『女無面從,退有後言。』丞相、禦史與將軍、列侯、中二千石及內郡國舉賢良方正能直言極諫之士,詣公車,朕將覽焉。」
越巂山崩。

前30年3月、国から民への借金を棒びきした。
秋、関中で洪水した。
7月、陳持弓という少女が、洪水を触れ回って、宮中に入りこんだ。役人も人民も、パニクった。9月、パニックをおさえるため、天下を巡察せよと詔した。

かくれた、神秘的な意味があるのかも知れないが、分からない。都市の住人が、自然災害をおそれまくった。

12月みそか、日食があり、未央宮で地震があった。
「日食も地震も、わたし成帝のせいだ。丞相、禦史與將軍、列侯、中二千石および内郡国のひとは、賢良方正で直言極諫の人材をあげよ。わたしが面接しよう」

大みそかに日食と地震があれば、へこむ。対策として「賢良方正」「直言極諫」をつのるのは、後漢と同じだ。いや、後漢がマネしたのだ。

越巂で山がくずれた。

前29年、司隷校尉が殺され、黄河が大洪水

四年春,罷中書宦官,初置尚書員五人。
夏四月,雨雪。
五月,中謁者丞陳臨殺司隸校尉轅豐于殿中。
秋,桃、李實。大水,河決東郡金堤。冬十月,御史大夫尹忠以河決不憂職,自殺。

前29年、中書の宦官をやめ、はじめて尚書員を5人おいた。

ちくま注釈はいう。もともとは、常侍尚書、二千石尚書、戸曹尚書、主客尚書の4人だった。これに、三公尚書をくわえた。断獄のことを司る。

夏4月、雪がふった。
5月、中謁者丞の陳臨が、司隸校尉の轅豐を、殿中で殺した。

どちらの人物も知らんが、大事件じゃないか!

秋、東郡で黄河がやぶれた。10月、御史大夫の尹忠が、治水を怠ったから、自殺した。

治水の失敗で自殺! 後漢や三国で、その例をぼくは知らない。つぎの歳、黄河がらみで改元している。まれにみる大洪水だった?


前28年、黄河の治水をもって、改元してしまう

河平元年春三月,詔曰:「河決東郡,流漂二州,校尉王延世堤塞輒平,其改元為河平。賜天下吏民爵,各有差。」
夏四月己亥晦,日有蝕之,既。詔曰:「朕獲保宗廟,戰戰慄栗,未能奉稱。傳曰:『男教不修,陽事不得,則日為之蝕。』天著厥異,辜在朕躬。公卿大夫其勉,悉心以輔不逮。百寮各修其職,□任仁人,退遠殘賊。陳朕過失,無有所諱。」大赦天下。
六月,罷典屬國並大鴻臚。秋九月,複太上皇寢廟園。

前28年正月、河平と改元した。
「東郡で黄河がやぶれた。校尉の王延世が、堤をつくった。河平と改元する」
4月末、日食した。大赦した。
6月、典属国をやめて、大鴻臚にあわせた。9月、宣帝をまつった。

あまりに記事がすくない。いま、太后の王氏が政治をしている。本紀の役割は、元后伝にうつしてしまった?
班固はひそかに、王莽を研究していた=王莽を史書でも、特別あつかいしたようだ。後日、くわしく考えるべきテーマ。


前27-25年、5人の王氏が列侯の時代

二年春正月,沛郡鐵官治鐵飛,語在《五行志》。夏六月,封舅譚、商、立、根、逢時皆為列侯。

前27年正月、沛郡で鉄が飛んだ。くわしくは「五行志」にある。

意味が分からない。沛郡は、劉邦の故郷だけど、、

6月、成帝のおじの王譚、王商、王立、王根、王逢は、列侯になった。

五侯です。王莽は父が死に、この栄華にあずかっていない。


三年春二月丙戌,犍為地震、山崩、雍江水,水逆流。秋八月乙卯晦,日有蝕之。光祿大夫劉向校中秘書。謁者陳農使,使求遺書於天下。

前26年、光禄大夫の劉向が、中秘書を校訂した。謁者の陳農をおくって、天下にある書物をあつめた。

劉向の父子は、とても王莽とからむ。儒学者だから、理解するのは難しいだろうが。禅譲を知るには、避けられない人だと思う。


四年春正月,匈奴單于來朝。赦天下徒,賜孝弟、力田爵二級,諸逋租賦所振貸勿收。二月,單于罷歸國。
三月癸醜朔,日有蝕之。遣光祿大夫博士嘉等十一人行舉瀕河之郡水所毀傷困乏不能自存者,財振貸。其為水所流壓死,不能自葬,令郡國給□櫝葬埋。已葬者與錢,人二千。避水它郡國,在所冗食之,謹遇以文理,無令失職。舉□厚有行、能直言之士。壬申,長陵臨涇岸崩,雍涇水。
夏六月庚戌,楚王囂薨。山陽火生石中,改元為陽朔。

前25年正月、匈奴の単于がきた。2月、単于はかえった。
3月、光祿大夫で博士の孟嘉ら11人に、黄河の被害をしらべさせた。生活の修復のため、金品をくばった。
6月、楚王の劉囂が死んだ。山陽郡で、火が石に生じた。陽気がはじまる兆しだから、陽朔と改元した。

なんの盛り上がりもない。ストーリーテリングとしては、まったく配慮ゼロですが。「陽朔」と改元して、世の中が変わることに期待しつつ、後半につづきます。