表紙 > 漢文和訳 > 三国志を知るため『漢書』成帝紀を抄訳する

02) 参加人数の細かい叛乱

『漢書』成帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。

陽朔:前24-21年、鉄官の申屠聖ら180人の叛乱

陽朔元年春二月丁未晦,日有蝕之。三月,赦天下徒。
冬,京兆尹王章有罪,下獄死。

前24年2月、日食。3月、大赦した。
冬、京兆尹の王章が、獄死した。

二年春,寒。詔曰:「昔在帝堯,立羲、和之官,命以四時之事,令不失其序。故《書》雲『黎民于蕃時雍』,明以陰陽為本也。今公卿大夫或不信陰陽,薄而小之,所奏請多違時政。傳以不知,周行天下,而欲望陰陽和調,豈不謬哉!其務順四時月令。」
三月,大赦天下。夏五月,除吏八百石、五百石秩。
秋,關東大水,流民欲入函穀、天井、壺口、五阮關者,勿苛留。遣諫大夫博士分行視。八月甲申,定陶王康薨。
九月,奉使者不稱。詔曰:「古之立太學,將以傳先王之業,流化於天下也。儒林之官,四海淵原,宜皆明於古今,溫故知新,通達國體,故謂之博士。否則學者無述焉,為下所輕,非所以尊道德也。『工欲善其事,必先利其器。』丞相、禦史其與中二千石、二千石雜舉可充博士位者,使卓然可觀。」
是歲,御史大夫張忠卒。

前23年、寒かった。「四季が乱れたから、反省せよ」3月、大赦。
5月、秩禄を切り下げ、800石と500石を、600石と400石とした。
秋、関東で洪水があった。関中への人口の流入を、とどめないようにした。諌大夫や博士をおくり、洪水の被害をしらべた。
8月、定陶王の劉康が死んだ。

成帝と、皇位をあらそった人。劉康の子が、つぎの哀帝になる。

9月、使者が役割を果たさず。「博士にふさわしい人材をあげよ」
この歳、御史大夫の張忠が死んだ。

三年春三月壬戌,隕石東郡,八。
夏六月,潁川鐵官徒申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷九郡。遣丞相長史、禦史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜。 秋八月丁已,大司馬、大將軍王鳳薨。

前22年4月、東郡に隕石が8つおちた。
潁川郡で、鉄官の申屠聖ら180人が、ボスを殺して将軍を称し、9郡をめぐった。討伐したので、申屠聖らは罪にふくした。
8月、大司馬で大将軍の王鳳が死んだ。

四年春正月,詔曰:「夫《洪範》八政,以食為首,斯誠家給刑錯之本也。先帝劭農,薄其租稅,寵其強力,令與孝弟同科。間者,民彌惰怠,鄉本者少,趨末者眾,將何以矯之?方東作時,其令二千石勉勸農桑,出入阡陌,致勞來之。《書》不雲乎?『服田力嗇,乃亦有秋。』其□之哉!」
二月,赦天下。秋九月壬申,東平王宇薨。
閏月壬戌,御史大夫于永卒。

前21年正月、詔した。「農業をおこせ」
2月、大赦した。9月、東平王の劉宇が死んだ。
閏月、御史大夫の于永が死んだ。

鴻嘉:前20-17年、広漢郡の叛乱が、1年もつ

鴻嘉元年春二月,詔曰:「朕承天地,獲保宗廟,明有所蔽,德不能綏,刑罰不中,眾冤失職,趨闕告訴者不絕。是以陰陽錯謬,寒暑失序,日月不光,百姓蒙辜,朕甚閔焉。《書》不雲乎?『即我禦事,罔克耆壽,咎在厥躬。』方春生長時,臨遣諫大夫理等舉三輔、三河、弘農冤獄。公卿大夫、部刺史明申敕守、相,稱朕意焉。其賜天下民爵一級,女子百戶牛、酒,加賜鰥、寡、孤、獨、高年帛。逋貸未入者勿收。」壬午,行幸初陵,赦作徒。以新豐戲鄉為昌陵縣,奉初陵,賜百戶牛、酒。
上始為微行出。冬,黃龍見真定。

前20年2月、成帝は詔した。
「天候不順は、わたしのせいだ。減税する。減刑する」
はじめて成帝は、おしのびで外出した。
冬、真定県で、黄龍があらわれた。

黄色は、漢室にとって不吉なんだよなあ。


二年春,行幸雲陽。
三月,博士行飲酒禮,有雉蜚集於庭,曆階升堂而雊,後集諸府,又集承明殿。詔曰:「古之選賢,傅納以言,明試以功。故官無廢事,下無逸民,教化流行,風雨和時,百谷用成,眾庶樂業,咸以康寧。朕承鴻業十有餘年,數遭水、旱、疾疫之災,黎民婁困於饑寒,而望禮義之興,豈不難哉!朕既無以率道,帝王之道日以陵夷,意乃招賢選士之路鬱滯而不通與,將舉者未得其人也?其舉敦厚有行義、能直言者,冀聞切言嘉謀,匡朕之不逮。」
夏,徒郡國豪傑貲五百萬以上五千戶於昌陵。賜丞相、禦史、將軍、列侯、公主、中二千石塚地、第宅。
六月,立中山憲王孫雲客為廣德王。

前19年3月、成帝は博士と酒を飲んだ。キジがあらわれた。
「わたしの政治は、成功していない。まだ人材が足りないのだ」

現任の博士たちを前にして、こんな詔を出しますか。つまり「お前たちが無能だから、天はお怒りなのだ」という、アテツケである。責任転嫁である。マネジメントとして、最低の発言である。

夏、役人に土地や邸宅をプレゼントした。
6月、中山憲王で、弟の孫の劉雲客を、廣德王とした。

三年夏四月,赦天下。令吏民得買爵,賈級千錢。大旱。
秋八月乙卯,孝景廟闕災。
冬十一月甲寅,皇后許氏廢。廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺,篡囚徒,盜庫兵,自稱山君。

前18年、爵位を販売した。1級のランクアップが、1千銭だった。
8月、景帝廟の門が燃えた。11月、皇后の許氏を廃した。
広漢郡で、鄭躬ら60余人が、役所の武器倉庫をぬすんだ。鄭躬は、みずから「山君」と称した。

王朝がもうすぐ滅びるのに、叛乱がすくない!
前漢の叛乱の少なさでなく、後漢の叛乱の多さにおどろくべきなのだろうか。三国志の見方を変えねば。黄巾の乱より、はるか前。100年代に入ってからを「乱世」と呼んで、さしつかえない
班固が『漢書』を書いたのは、全国が統一されたとき。范曄が『後漢書』を書いたのは、全国が分裂したとき。この環境のちがいも、影響しているのかも知れないが。范曄は、分裂を強調したくなる。


四年春正月,詔曰:「數敕有司,務行寬大,而禁苛暴,訖今不改。一人有辜,舉宗拘系,農民失業,怨恨者眾,傷害和氣,水旱為災,關東流冗者眾,青、幽、冀部尤劇,朕甚痛焉。未聞在位有惻然者,孰當助朕憂之!已遣使者循行郡國。被災害什四以上,民貲不滿三萬,勿出租賦。逋貸未入,皆勿收。流民欲入關,輒籍內。所之郡國,謹遇以理,務有以全活之。思稱朕意。」
秋,勃海、清河河溢,被災者振貸之。
冬,廣漢鄭躬等黨與浸廣,犯曆四縣,眾且萬人。拜河東都尉趙護為廣漢太守,發郡中及蜀郡合三萬人擊之。或相捕斬,除罪。旬月平,遷護為執金吾,賜黃金百斤。

前17年、詔した。
「苛暴な役人が、重税をかけている。民力をやしなえ」

言外のメッセージを推測するなら、、
役人が中間搾取するせいで、人民は疲弊するし、国家は苦しいままだと。

秋、渤海と清河で、黄河があふれた。
冬、廣漢鄭の躬等の叛乱は、4県で1万人にふくらんだ。河東都尉の趙護を、廣漢太守とした。趙護は、3万人で平定をした。趙護は、執金吾になった。

叛乱を1年放置したことになる。ただ、乱世も序の口だ。4県なんて、黄巾の乱にくらべたら、かわいいものだ。笑


永始:前16~13年、王莽のおじの死、庶民の叛乱

永始元年春正月癸醜,太官淩室火。戊午,戾後園闕火。夏四月,封婕妤趙氏父臨為成陽侯。
五月,封舅曼子侍中騎都尉光祿大夫王莽為新都侯。
六月丙寅,立皇后趙氏。大赦天下。
秋七月,詔曰:「朕執德不固,謀不盡下,過聽將作大匠萬年言昌陵三年可成。作治五年,中陵、司馬殿門內尚未加功。天下虛耗,百姓罷勞,客土疏惡,終不可成。朕惟其難,怛然傷心。夫『過而不改,是謂過矣』。其罷昌陵,及故陵勿徒吏民,令天下毋有動搖之心。」立城陽孝王子俚為王。
八月丁醜,太皇太后王氏崩。

前16年正月、太官淩室と、戾後園闕で火災した。4月、婕妤である趙氏の父・趙臨を、成陽侯とした。
5月、成帝のおじ王曼の子で、侍中・騎都尉・光祿大夫をつとめる王莽を、新都侯とした。

本紀に、はじめて王莽が出てきました。

6月、皇后に趙氏をたてた。大赦した。
7月、詔した。「將作大匠の解萬年が、3年でできると云った昌陵が、5年かかってもできない。中止せよ」と。城陽孝王の子・劉俚を、王とした。
8月、太皇太后の王氏が崩じた。

二年春正月己醜,大司馬車騎將軍王音薨。
二月癸未夜,星隕如雨。乙酉晦,日有蝕之。詔曰:「乃者,龍見於東萊,日有蝕之。天著變異,以顯朕郵,朕甚懼焉。公卿申敕百寮,深思天誡,有可省減便安百姓者,條奏。所振貸貧民,勿收。」又曰:「關東比歲不登,吏民以義收食貧民、入穀物助縣官振贍者,已賜直,其百萬以上,加賜爵右更,欲為吏,補三百石,其吏也,遷二等。三十萬以上,賜爵五大夫,吏亦遷二等,民補郎。十萬以上,家無出租賦三歲。萬錢以上,一年。」
冬十一月,行幸雍,祠五畤。
十二月,詔曰:「前將作大匠萬年知昌陵卑下,不可為萬歲居,奏請營作,建置郭邑,妄為巧作,積土增高,多賦斂徭役,興卒暴之作。卒徒蒙辜,死者連屬,百姓罷極,天下匱謁。常侍閎前為大司農中丞,數奏昌陵不可成。侍中衛尉長數白宜早止,徙家反故處。朕以長言下閎章,公卿議者皆合長計。長首建至策,閎典主省大費,民以康寧。閎前賜爵關內侯,黃金百斤。其賜長爵關內侯,食邑千戶,閎五百戶。萬年佞邪不忠,毒流眾庶,海內怨望,至今不息,雖蒙赦令,不宜居京師。其徙萬年敦煌郡。」
是歲,御史大夫王駿卒。

前15年正月、大司馬・車騎將軍の王音が薨じた。

成帝と王莽の、共通のおじですね。

2月、隕石と日食。詔した。「東莱に龍があらわれ、日食したのは、私のせいだ。また関東は、収穫がすくない。公費で救済せよ」
11月、成帝は雍にゆき、五畤をまつった。
12月、詔した。
「前の將作大匠・解萬年は、昌陵の建設を長びかせ、民に負担をかけた。解萬年を、敦煌郡にうつせ。常侍の王閎と、侍中衛尉の淳于長は、しばしば建設をいさめた。彼らが正しかったから、関内侯とせよ」
この歳、御史大夫の王駿が卒した。

三年春正月乙卯晦,日有蝕之。詔曰:「天災仍重,朕甚懼焉。惟民之失職,臨遣太中大夫嘉等循行天下,存問耆老,民所疾苦。其與剖刺史舉□朴遜讓有行義者各一人。」
冬十月庚辰,皇太后詔有司複甘泉泰畤、汾陰後土、雍五畤、陳倉陳寶祠。語在《郊祀志》。
十一月,尉氏男子樊並等十三人謀反,殺陳留太守,劫略吏民,自稱將軍。徒李譚等五人共格殺並等,皆封為列侯。
十二月,山陽鐵官徒蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷郡國十九,殺東郡太守、汝南都尉。遣丞相長史、禦史中丞持節督趣逐捕。汝南太守嚴訢捕斬令等。近訢為大司農,賜黃金百斤。

前14年正月、日食した。詔した。
「天災は、わたしのせいだ。太中大夫の許嘉らに、天下を巡らせよ」
10月、皇太后は、各地の祠を再開させた。詳細は《郊祀志》にある。
11月、尉氏県の男子・樊並ら13人が、謀反した。樊並らは、陳留太守を殺し、吏民を劫略し、みずから將軍を称した。庶民の李譚ら5人が、樊並らを殺した。李譚らは、列侯に封じられた。

規模の小さな事件だ。前漢末の平穏がわかる。

12月、山陽郡の鐵官徒・蘇令ら282人が、長吏を殺して、庫兵をぬすみ、みずから将軍を称した。19の郡国をめぐり、東郡太守と汝南都尉を殺した。成帝は、丞相長史や禦史中丞に持節させ、逮捕させた。汝南太守の嚴訢は、蘇令らを斬った。嚴訢は、大司農にうつった。

人数の記録が細かい。すぐ鎮圧できる。


四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤,神光降集紫殿。大赦天下。賜雲陽吏民爵,女子百戶牛、酒、鰥、寡、孤、獨、高年帛。
三月,行幸河東,祠後士,賜吏民如雲陽,行所過無出田租。
夏四月癸未,長樂臨華殿、未央宮東司馬門皆災。
六月甲午,霸陵園門闕災。出杜陵諸未嘗禦者歸家。詔曰:「乃者,地震京師,火災婁降,朕甚懼之。有司其悉心明對厥咎,朕將親覽焉。」
又曰:「聖王明禮制以序尊卑,異車服以章有德,雖有其財,而無其尊,不得逾制,故民興行,上義而下利。方今世俗奢僭罔極,靡有厭足。公卿列侯親屬近臣,四方所則,未聞修身遵禮,同心憂國者也。或乃奢侈逸豫,務廣第宅,治園池,多畜奴婢,被服綺□,設鐘鼓,備女樂,車服、嫁娶、葬埋過制。吏民慕效,浸以成俗,而欲望百姓儉節,家給人足,豈不難哉!《詩》不雲乎?『赫赫師尹,民具爾瞻。』其申敕有司,以漸禁之。青、綠民所常服,且勿止。列侯近臣,各自省改。司隸校尉察不變者。」
秋七月辛未晦,日有蝕之。

前13年、行幸して祭祀した。通過した地を、免税した。
4月、長樂臨華殿と、未央宮の東司馬門が火災した。6月、霸陵園の門闕が火災した。杜陵(宣帝陵)を護衛していない役人を、家に帰した。

前漢は後漢より、圧倒的に火事がおおい。どんな意味が?

詔した。「倹約せよ。司隷校尉は、ぜいたくを取り締まれ」
秋7月末日、日食した。

あと6年で、成帝は死にます。
紀元0年=王莽の政権獲得だと思えばいい。紀元前の数字が減っているのは、前漢滅亡へのカウントダウンのようだ。