03) 内は趙氏、外は王氏がみだす
『漢書』成帝紀をやります。ちくま訳を参照しつつ。
じかに三国志と関係ありませんが、三国志のための活動です。
元延:前12年-9年、本紀の記事がひどい過疎
元延元年春正月己亥朔,日有蝕之。三月,行幸雍,祠五畤。
夏四月丁酉,無雲有雷,聲光耀耀,四面下至地,昏止。赦天下。
秋七月,有星孛于東井。詔曰:「乃者,日蝕、星隕,謫見於天,大異重仍。在位默然,罕有忠言。今孛星見於東井,朕甚懼焉。公卿大夫、博士、議郎其各悉心,惟思變意,明以經對,無有所諱。與內郡國舉方正能直言極諫者各一人,北邊二十二郡舉勇猛知兵法者各一人。」
封蕭相國後喜為酂侯。
冬十二月辛亥,大司馬大將軍王商薨。
是歲,昭儀趙氏害後宮皇子。
前12年、正月に日食、3月に祭祀。
4月、雲がないのに雷。大赦。7月、彗星。詔した。
「公卿大夫、博士、議郎は、思うところを述べよ。方正で、直言極諫できる人材を、内郡から1人ずつあげよ。北辺の22郡は、勇猛で兵法を知る人を1人ずつあげよ」
蕭何の子孫・蕭喜を、酂侯にした。
12月、大司馬・大将軍の王商が薨じた。
この歳、趙飛燕の妹・昭儀の趙氏が、後宮の皇子を殺害した。
外戚伝に、くわしく載っているらしい。見るべきだ。
二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠後土。
夏四月,立廣陵孝王子守為王。
冬,行幸長楊宮,從胡客大校獵。宿萯陽宮,賜從官。
前11年、正月と3月に祭祀した。
4月、廣陵孝王の子・劉守を、王にした。
冬、成帝は長楊宮にゆき、胡族の客に狩猟のデモをさせた。
三年春正月丙寅,蜀郡岷山崩,雍江三日,江水竭。
二月,封侍中衛尉淳於長為定陵侯。三月,行幸雍,祠五畤。
前10年正月、蜀郡の岷山が崩れた。崩れた土のせいで、長江が3日せき止められた。
2月、侍中衛尉の淳於長を、定陵侯にした。
3月、雍で五畤をまつった。
四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。二月,罷司隸校尉官。 三月,行幸河東,祠後土。甘露降京師,賜長安民牛、酒。
前9年正月、甘泉でまつった。2月、司隷校尉の官をやめた。
3月、河東で后土をまつった。甘露がふったので、長安の民に、牛酒をたまわった。
綏和:前8-7年、在位25年で皇太子をたてて死ぬ
綏和元年春正月,大赦天下。
二月癸醜,詔曰:「朕承太祖鴻業,奉宗廟二十五年,德不能綏理宇內,百姓怨恨者眾。不蒙天晁,至今未有繼嗣,天下無所系心。觀于往古近事之戒,禍亂之萌,皆由斯焉。定陶王欣於朕為子,慈仁孝順,可以承天序,繼祭祀。其立欣為皇太子。封中山王舅諫大夫馮參為宜鄉侯,益中山國三萬戶,以慰其意。賜諸侯王、列侯金,天下當為父後者爵,三老、孝弟、力田帛,各有差。」
又曰:「蓋聞王者必存二王之後,所以通三統也。昔成湯受命,列為三代,而祭祀廢絕。考求其後,奠正孔吉。其封吉為殷紹嘉侯。」三月,進爵為公,及周承休侯皆為公,地各百里。行幸雍,祠五畤。
前8年正月、大赦した。2月、詔した。
「わたしは25年も皇帝をやっているが、政治は失敗し、後継がいない。定陶王の劉欣を、皇太子とする。中山王の舅・諫大夫をつとめる馮参を、宜郷侯として、中山国に3万戸をふやす。また孔子の子孫・孔吉を、殷紹嘉侯とする」
3月、孔吉の爵位を公にすすめた。周承休侯を公にした。
夏四月,以大司馬票騎將軍為大司馬,罷將軍官。御史大夫為大司空,封為列侯。益大司馬、大司空奉如丞相。
秋八月庚戌,中山王興薨。
冬十一月,立楚孝王孫景為定陶王。定陵侯淳於長大逆不道,下獄死。廷尉孔光使持節賜貴人許氏藥,飲藥死。
十二月,罷部刺史,更置州牧,秩二千石。
4月、大司馬・票騎將軍の王根を、大司馬として、將軍の官をやめた。御史大夫を大司空と改め、列侯に封じた。大司馬と大司空のサラリをふやし、丞相と同じにした。
8月、中山王の劉興が薨じた。
11月、楚孝王の孫・劉景を、定陶王とした。定陵侯の淳於長は、大逆不道であるから、獄死した。
廷尉の孔光に持節させ、貴人の許氏を服毒死させた。
12月、刺史をやめて、州牧をおいた。秩は二千石だ。
二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。二月壬子,丞相翟方進薨。
三月,行幸河東,祠後土。
丙戌,帝崩于未央宮。皇太后詔有司複長安南北郊。四月己卯,葬延陵。
前7年正月、成帝は甘泉にいった。2月、丞相の翟方進が薨じた。
3月、河東でまつった。
3月丙戌、成帝は未央宮で崩じた。皇太后は詔して、長安の南北郊で成帝をまつらせた。4月己卯、成帝を延陵にほうむった。
班固の賛:趙氏と王氏にみだされた皇帝
贊曰:臣之姑充後宮為婕妤,父子昆弟侍帷幄,數為臣言:成帝善修容儀,升車正立,不內顧,不疾言,不親指,臨朝淵嘿,尊嚴若神,可謂穆穆天子之容者矣!博覽古今,容受直辭。公卿稱職,奏議可述。遭世承平,上下和睦。然湛于酒色,趙氏亂內,外家擅朝,言之可為於邑。建始以來,王氏始執國命,哀、平短祚,莽遂篡位,蓋其威福所由來者漸矣!
賛にいう。わたし(班固)のおばは、成帝の後宮にはいった。父たちは、成帝につかえた。おばや父は、しばしば話してくれた。
「成帝は、天子としての外見や態度をそなえていた。
しかし成帝は、酒色におぼれた。趙氏が宮中をみだし、外戚が朝廷をほしいままにした。
外戚の王氏は、つぎの哀帝と平帝のみじかい治世で、政権をにぎる。さいごは王莽が、王氏の手柄の大きさを理由に、漢室をほろぼす。そのキッカケは、すでに成帝のときにあったのだ」
おわりに
周囲の列伝を、まったく読んだことがない。うすっぺらいページですみません。徐々に、肉づけして、イメージをつくっていきます。
班固がいったように、前漢の滅亡は、成帝のときから始まる。後漢末の人たちは、あたかも「現代史」として、「自分のこと」として、成帝紀を読んでいたと思います。
『漢書』シリーズ、ちょっとずつやります。100723