表紙 > ~後漢 > 劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝

04) 193年劉虞の死、195年易京へ

劉虞と袁紹のことが気になるので、公孫瓚伝をやります。

公孫瓚が袁紹を責める10点

典略載瓚表紹罪狀曰:
(1) 臣聞皇、羲以來,始有君臣上下之事,張化以導民,刑罰以禁暴。今行車騎將軍袁紹,讬其先軌,寇竊人爵,既性暴亂,厥行淫穢。昔為司隸校尉,會值國家喪禍之際,太后承攝,何氏輔政,紹專為邪媚,不能舉直,至令丁原焚燒孟津,招來董卓,造為亂根,紹罪一也。
(2) 卓既入雒而主見質,紹不能權譎以濟君父,而棄置節傳,迸竄逃亡,忝辱爵命,背上不忠,紹罪二也。
(3) 紹為勃海太守,默選戎馬,當攻董卓,不告父兄,至使太傅門戶,太僕母子,一旦而斃,不仁不孝,紹罪三也。
(4) 紹既興兵,涉曆二年,不恤國難,廣自封殖,乃多以資糧專為不急,割剝富室,收考責錢,百姓籲嗟,莫不痛怨,紹罪四也。
(5) 韓馥之迫,竊其虛位,矯命詔恩,刻金印玉璽,每下文書,皁囊施檢,文曰'詔書一封,邟鄉侯印'。邟,口浪反。昔新室之亂,漸以即真,今紹所施,擬而方之,紹罪五也。

『典略』はいう。公孫瓚は袁紹の罪状を上表した。
(1) 司隷校尉として外戚・何氏にへつらい、丁原と孟津を焼き、董卓を招いた。
(2) 董卓の前で、官位を捨てて逃げた。

『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹は節を東門にかけて、冀州ににげた。

(3) 渤海太守となり、軍を動かし、袁氏一族を見殺しにした。

『後漢書』はいう。太傅・袁隗の一門は皆殺し。

(4) 2年間、領土の拡張につとめ、百姓を苦しめた。
(5) 韓馥から冀州刺史をうばい、金印や玉璽をつくり、王莽のマネをする。

恵棟はいう。『献帝起居注』はいう。袁紹は金璽をきざみ、ほしいままに劉虞に金銀の印を作らせた。孝廉や計吏は、みな袁紹のところにゆく。『漢官儀』は、官号を文書に捺すスタイルを定める。むずかしいので、はぶく。


(6)紹令崔巨業候視星日,財貨賂遺,與共飲食,克期會合,攻鈔郡縣,此豈大臣所當宜為?紹罪六也。
(7)紹與故虎牙都尉劉勳首共造兵,勳仍有效,又降伏張楊,而以小忿枉害于勳,信用讒慝,殺害有功,紹罪七也。
(8)紹又上故上谷太守高焉、故甘陵相姚貢,橫責其錢,錢不備畢,二人並命,紹罪八也。
(9)春秋之義,子以母貴。紹母親為婢使,紹實微賤,不可以為人後,以義不宜,乃據豐隆之重任,忝汙王爵,損辱袁宗,紹罪九也。
(10)又長沙太守孫堅,前領豫州刺史,驅走董卓,掃除陵廟,其功莫大;紹令周昂盜居其位,斷絕堅糧,令不得入,使卓不被誅,紹罪十也。

(6) 崔巨業をもてなし、都合よく星占いをしてもらう。

周寿昌はいう。崔巨業は、袁紹が公孫瓚を攻め、故安で公孫瓚をかこんだ部将だ。ぼくは補う。あとで、ちゃんと出てきます。

(7) もと虎牙都尉の劉勳は、張楊を降伏させた。袁紹は劉勲を殺した。
(8) もと上谷太守の高焉、もと甘陵相の姚貢から、金をうばった。2人はにげた。
(9) 袁紹は母が下賎だ。袁氏を辱めた。
(10) 孫堅は、豫州刺史となり、董卓をはらう。周昂に孫堅を攻めさせた。

ぼくは思う。袁紹が地位を獲得するために、かなり横車を押したことがわかる。とくに劉勲。袁紹といっしょに挙兵したらしいが、とちゅうで袁紹が殺してしまった。無名だなあ。同姓同名の人なら、すこし有名だが。袁紹が、洛陽にいたとき、同僚としてつきあった人だろうか。


臣又每得後將軍袁術書,雲紹非術類也。紹之罪戾,雖南山之竹不能載。昔姬周政弱,王道陵遲,天子遷都,諸侯背叛,於是齊桓立柯亭之盟,晉文為踐土之會,伐荊楚以致菁茅,誅曹、衛以彰無禮。臣雖闒茸,名非先賢,蒙被朝恩,當此重任,職在鈇鉞,奉辭伐罪,輒與諸將州郡兵討紹等。若事克捷,罪人斯得,庶續桓、文忠誠之效,攻戰形狀,前後續上。」遂舉兵與紹對戰,紹不勝。

袁術は、袁紹が親戚でないという。私(公孫瓚)は、袁紹をやっつけると。袁紹は公孫瓚に勝てず。

『後漢書』公孫瓚伝も、おなじ上表を載せる。意味は同じだが、言葉はけっこうちがう。


袁紹との2年戦争、193年 劉虞を殺害

以嚴綱為冀州,田楷為青州,單經為兗州,置諸郡縣。紹軍廣川,令將麹義先登與瓚戰,生禽綱。瓚軍敗走勃海,與範俱還薊,於大城東南築小城,與虞相近,稍相恨望。

公孫瓚は、三州に刺史を置いた。厳綱を冀州、田楷を青州、単経を兗州、の刺史とした。郡県を置いた。

『通鑑考異』はいう。『九州春秋』はいう。厳綱でなく、劉綱だと。ぼくは思う。州牧には、劉氏の例がおおい。劉虞、劉焉、劉繇、劉岱、劉表、劉岱など。公孫瓚が、劉氏を活用したとしたら、おもしろい。
『後漢書』公孫瓚伝はいう。三州の刺史をおき、郡県に守令を置いた。ぼくは補う。けっきょく、州、郡、県という行政区画に、あまねく自分の役人を任命したのだ。このときが、公孫瓚のピークだ。袁紹が冀州を獲得する直前まで。

袁紹は、広川(冀州の清河)に進軍する。

ヨウハンはいう。袁紹伝と比べたら、広川でなく広宗とすべきだ。

袁紹の部将・麹義は、さきに公孫瓚の冀州刺史・厳綱を生け捕りにした。公孫瓚は、渤海に敗走した。公孫範とともに、薊県にかえる。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。公孫瓚は、界橋で袁紹に大敗し、薊県にひく。袁紹は、部将の崔巨業をつかい、固安をかこむ。固安を降せず、ひく。公孫瓚は、崔巨業を追撃し、巨馬水で大破した。公孫瓚は攻めくだり、平原までいたる。公孫瓚は、部将の青州刺史・田楷に、斉国を領有させる。袁紹は、田楷と2年たたかう。どちらも軍糧がなくなる。百姓からぬすむ。袁紹は、子・袁譚を青州刺史とする。袁譚は田楷と戦ったが、敗れてもどる。
ぼくは思う。袁紹が韓馥から、冀州の長官を奪い取ったが。袁紹と公孫瓚の、海沿いでの戦いは、このときが一番ひどい。冀州東部、青州北部など。

公孫瓚は、劉虞のそばに築城して、恨みあう。

『後漢書』劉虞伝はいう。公孫瓚は、しばしば袁紹に敗れた。だが、公孫瓚は攻めつづける。劉虞は、公孫瓚のやり過ぎを患いた。だが劉虞は、公孫瓚を制することができない。公孫瓚と劉虞は、たがいの悪口を上表しまくった。公孫瓚は、薊城に「京」を築いた。
『三国志』田疇伝は『先賢行状』をひく。田疇は劉虞に、「早めに公孫瓚を片づけないと、後悔する」と言った。劉虞は、田疇を用いない。
ぼくは思う。幽州牧・劉虞は、部下の公孫瓚を制御できない。冀州刺史・袁紹は、隣国の癌・公孫瓚を、劉虞とともに攻撃する。そういう構図だ。袁紹が、冀州全土を獲得するため、2年にわたり死闘する。これは、曹操が兗州で、呂布と2年にわたり戦うのと似ている。時期も同じである。袁紹の冀州も、曹操の袁紹も、兵糧がなくなった。


虞懼瓚為變,遂舉兵襲瓚。虞為瓚所敗,出奔居庸。瓚攻拔居庸,生獲虞,執虞還薊。會卓死,天子遣使者段訓增虞邑,督六州;瓚遷前將軍,封易侯。瓚誣虞欲稱尊號,脅訓斬虞。

劉虞は、公孫瓚にやぶれ、居庸ににげる。

『後漢書』劉虞伝はいう。初平四年(193)冬、劉虞は公孫瓚を攻撃して、やぶれた。ぼくは思う。戦いの経緯は、劉虞伝にくわしい。劉虞伝を見ればわかるので、ここで引用しない。ただ、年号をハッキリさせておきたかった。劉虞は、袁紹と連戦した公孫瓚をめがけて、攻撃を開始したが、失敗しましたよと。

公孫瓚は、劉虞を生け捕り、薊県にかえる。たまたま董卓が死に、天子の使者・段訓が劉虞に領地をふやし、六州を督させると言う。

ぼくは思う。六州って、どこだろう。幽州、并州、冀州、青州、兗州、徐州か。知りません。適当に、地理的につながってそうな州名をあげただけです。
ぼくは思う。李傕政権は、州牧の官位をバラまいて、献帝への支持を維持させようとした。名目はバラまくから、見棄てないでねと。そのなかでも、劉虞に送られた「督六州」がトップだろう。董卓と双璧をなす、関東のリーダーだったにちがいない。

公孫瓚は、前將軍にうつり、易侯に封ぜらる。公孫瓚は、段訓に劉虞を斬らせた。劉虞が尊号を称したいから斬れ、と理由をつけて。

『後漢書』劉虞伝はいう。劉虞の妻は、ゼイタクだったと。ぼくは思う。あと盧弼は、『後漢書』劉虞伝の末尾と、范曄の「論」をひくだけ。そっちを、読めばいい。『後漢書』劉虞伝は、以前にやった。PDFが別ウィンドウで開きます。
『後漢書』劉虞伝 漢文を改行&スペース挿入
むかしのPDFで指摘したのは、公孫瓚が献帝を支持する人だということ。劉虞が皇帝になる話を、終始、目の仇にする。責める文句とする。たとえ未遂でも、袁紹と劉虞が、献帝とちがう皇統を立てることが、よほど許せなかった。董卓の死後、李傕は関東に官位をくばり、献帝への支持を集めた。公孫瓚は、李傕の融和政策をOKした。
公孫瓚は、公孫範をやり、袁術と連なり、董卓を攻めた。これは「董卓から献帝を救うため」という、きわめて常識的な行動。公孫瓚は、皇帝の正統については、いわゆる常識的な政見のもちぬしだろう。「名士」でなけりゃ、既成の価値観にのるのだ。


魏氏春秋曰:初,劉虞和輯戎狄,瓚以胡夷難禦,當因不賓而討之,今加財賞,必益輕漢,效一時之名,非久長深慮。故虞所賞賜,瓚輒鈔奪。虞數請會,稱疾不往。至是戰敗,虞欲討之,告東曹掾右北平人魏攸。攸曰:「今天下引領,以公為歸,謀臣爪牙,不可無也。瓚,文武才力足恃,雖有小惡,固宜容忍。」乃止。後一年,攸病死。虞又與官屬議,密令眾襲瓚。瓚部曲放散在外,自懼敗,掘東城門欲走。虞兵無部伍,不習戰,又愛民屋,敕令勿燒。故瓚得放火,因以精銳衝突。虞眾大潰,奔居庸城。瓚攻及家屬以還,殺害州府,衣冠善士殆盡。
典略曰:瓚曝虞于市而祝曰:「若應為天子者,天當降雨救之。」時盛暑,竟日不雨,遂殺虞。
英雄記曰:虞之見殺,故常山相孫瑾、掾張逸、張瓚等忠義憤發,相與就虞,罵瓚極口,然後同死。

『魏氏春秋』はいう。東曹掾する右北平の魏攸は、公孫瓚をかばった。魏攸が死に、劉虞は公孫瓚を攻めたが、放火を禁じた。
『典略』はいう。公孫瓚は劉虞に「天子なら、雨を降らせ」と言った。

ぼくは思う。『典略』は、袁術の皇帝としての正統性を伝えてくれる史料。劉虞の天子ネタといい、皇帝がらみの話が豊富です。

『英雄記』はいう。もと常山相の孫瑾、掾の張逸、張瓚らは、公孫瓚をののしり、劉虞とともに死んだ。

『後漢書』劉虞伝、公孫瓚伝はいう。劉虞の故吏・尾敦は、劉虞のクビをうばいかえす。


195年、袁紹、烏桓鮮卑、鮮于氏、田疇に敗れる

瓚上訓為幽州刺史。瓚遂驕矜,記過忘善,多所賊害。

公孫瓚は上表し、段訓を幽州刺史とした。公孫瓚はおごり、おおくの人が、賊に殺害された。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。公孫瓚は才力にたのみ、身分のたかい人と対立した。身分のひくい商人とむすんだ。百姓は、公孫瓚を怨んだ。
ぼくは思う。いわゆる「名士」の迫害だ。社会が、どういう人々で構成されていたか、その仮説をもたずして、この記事を鵜呑みにしてはいけない。「名士」は、魏晋の時代をひらいた勝者だ。勝者は、敗者をわるく書く。
公孫瓚は、朝廷の使者・段訓を、幽州刺史にした。公孫瓚が、幽州刺史になることも、できたはずだ。公孫瓚は、ただ無謀に上を目指しただけの人では、あるまい。段訓をトップにしたほうが、政治がうまくいくと思ったのだろう。劉虞伝はいう。劉虞を殺したあとも公孫瓚は、劉虞の子に、政治をさせた。公孫瓚は、純粋な軍人として、献帝の世の秩序回復を願ったのではなかろうか。魏晋に連なる、新たな秩序を模索する「名士」を弾圧し、漢室の継続をねがった。周囲から見て、どうこうでなく、少なくとも公孫瓚のなかでは。
後漢の中後期に、後漢のために戦闘に明け暮れたロールモデルがいそうだ。後漢に忠誠心はつよいが、異民族や政敵と妥協しない。軍事費用をふくらますタイプの人。


英雄記曰:瓚統內外,衣冠子弟有材秀者,必抑使困在窮苦之地。或問其故,答曰:「今取衣冠家子弟及善士富貴之,皆自以為職當得之,不謝人善也。」所寵遇驕恣者,類多庸兒,若故卜數師劉緯台、販繒李移子、賈人樂何當等三人,與之定兄弟之誓,自號為伯,謂三人者為仲叔季,富皆巨億,或取其女以配己子,常稱古者曲周、灌嬰之屬以譬也。

『英雄記』はいう。公孫瓚は、占師や商人らと兄弟を誓った。

劉備の桃園に、よく結合される史料。『三国演義』と史料を混同しても仕方ないが、公孫瓚が、劉備のようなアウトローと付き合ったのも、この性格ゆえだ。


虞從事漁陽鮮于輔、齊周、騎都尉鮮於銀等,率州兵欲報瓚,以燕國閻柔素有恩信,共推柔為烏丸司馬。柔招誘烏丸、鮮卑,得胡、漢數萬人,與瓚所置漁陽太守鄒丹戰於潞北,大破之,斬丹。袁紹又遣麹義及虞子和,將兵與輔合擊瓚。瓚軍數敗,乃走還易京固守。

劉虞の従事は、漁陽の鮮于輔、齊周だ。騎都尉の鮮于銀らとともに、幽州の兵をひきい、公孫瓚に復讐したい。燕国の閻柔を、烏丸司馬に推した。閻柔は、烏丸、鮮卑の兵をあつめた。公孫瓚の漁陽太守・鄒丹を、潞北で斬った。

田疇伝はいう。田疇は長安で騎都尉になったが、うけない。幽州にもどり、劉虞のために復讐したい。田疇は、鮮于銀、袁紹、劉嘉、鮮于輔とともに、公孫瓚を攻める。烏桓王、鮮卑と、麹義も、公孫瓚を攻める。
ぼくは思う。公孫瓚は、敵を作りすぎた。「後漢の名将」がよくやる失敗。
恵棟はいう。『後漢書』烏桓伝はいう。閻柔は、烏桓や鮮卑のなかで育つ。盧弼はいう。閻柔は、『三国志』烏丸伝にある。ぼくは思う。漢人の話が、烏丸伝にある。見落とし!
恵棟はいう。応邵『漢官儀』はいう。護烏桓校尉には、司馬が3人いる。秩禄は6百石。

袁紹は麹義と、劉虞の子・劉和をつかわした。鮮于輔とともに、公孫瓚を攻めた。公孫瓚はしばしば敗れ、易京をかたく守る。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。烏桓王は、劉虞に恩を感じた。鮮于輔は、劉和をむかえた。袁紹の部将・麹義とあわさる。興平2年(195)、公孫瓚を鮑丘でやぶる。公孫瓚は、易京にこもる。
ぼくは思う。公孫瓚は193年に劉虞を殺し、195年に易京に籠もった。劉虞を殺したのが、公孫瓚の没落の始まり。河北は、献帝を拒絶して、袁紹や曹操が、新しい秩序を作ろうとしている土地。献帝に忠実な公孫瓚は、「反逆者」たちに、包囲されてしまったような感じだ。もう少し長安に近ければ、まだ献帝に協調する勢力が多かっただろうが。なにせ河北は、長安から遠い。長安からの距離が、世論の形成に与える影響とか、考察の材料にしたらおもしろいかも。
195年は、曹操が兗州を平定する時期だ。袁紹が、公孫瓚を押し込めた時期と、ちょうど重なる。195年が、袁紹と曹操の連合にとって、天下統一の見通しがついた、おめでたいタイミングだ。袁術が劉繇を駆逐したのも、『資治通鑑』では195年だ。ひと段落。
しかし、195年は、献帝が長安を飛び出した歳でもある。曹操が、袁紹の傘下を飛び出して、またドロドロする。ポスト董卓の形成が完成し、同時にくずれ、再流動が始まるのが、195年ですね。重要な歳!


英雄記曰:先是有童謠曰:「燕南垂,趙北際,中央不合大如礪,惟有此中可避世。」瓚以易當之,乃築京固守。瓚別將有為敵所圍,義不救也。其言曰:「救一人,使後將恃救不力戰;今不救此,後將當念在自勉。」是以袁紹始北擊之時,瓚南界上別營自度守則不能自固,又知必不見救,是以或自殺其將帥,或為紹兵所破,遂令紹軍徑至其門。
臣松之以為童謠之言,無不皆驗;至如此記,似若無徵。謠言之作,蓋令瓚終始保易,無事遠略。而瓚因破黃巾之威,意志張遠,遂置三州刺史,圖滅袁氏,所以致敗也。

『英雄記』はいう。公孫瓚は、童謡を聴き、易京をさだめた。

2011年3月中旬、ツイッターでニセクロさん(@nisekuro_at)が、易京に拠点した戦略的な意味について、議論していらっしゃいました。燕国の長城の遺構をつかったらしいです。図示があったので、ぼくのローカルには、ダウンロードしました。攻撃を受けたら、公孫瓚の本軍が、易京から「機動防御」する構えだとか。ニセクロさんが、くわしく書いてくださる日を待ちます。ぼくが加えられることは、ありません。笑


次回、最終回。公孫瓚が死にます。