1)地方割拠の代名詞
三国志を知るために、三国志以前の時代を知ろうという企みです。今回は、田横です。ぼくは田横のことを、掲示板でリクエストを頂くまで知らなかったのですが、、読んでみるととても面白い。
そういうわけで、田横と三国志について書きます。
『三国志』の中の登場例
田横は、秦末漢初の人です。つまり、項羽や劉邦と同時代の人です。
彼が陳寿『三国志』の中でどのように登場するか、まずは全て確認しておきましょう。『三国志』との繋がりが切れてしまったら、このサイトで田横をやる意味が怪しくなるので(笑)
◆魏書
魏書の「公孫度伝」処注『魏名臣奏』より、夏侯献の上表。
「公孫淵に、曹魏へ帰順するように説得する使者は、奉車校尉のソウ弘が適任でしょう。彼ならば、斉王(田横)を説得したレキ生(レキ食其)よりも、うまくやれます」
田横は、劉邦の臣・レキ食其に、服属を説得されたことが分かりました。弁舌の腕前を強調するため、比較に持ち出された故事だ。田横はよほど巧妙に説得「されてしまった」らしい。
魏書「程昱伝」所注『魏略』より、程昱の進言。
「田横は、斉の名家でした。兄弟3人で順に斉王となり、千里四方の広い土地を支配し、百万の軍勢を従え、諸侯の一員となりました。しかし劉邦の漢が天下を取ると、田横は捕われ人となりました。そのとき田横は、どんな気持ちだったと思いますか」
曹操は応えた。
「田横は、平然としていたワケがない。最大の屈辱を味わった」
程昱は誘導尋問に成功したから、切り替えした。
「あらあら。私には、曹操さまの志が、田横に劣るように見えます。田横は劉邦に従うとき屈辱を感じたのに、あなたは袁紹の風下に立って平気ですか。へえ、ガッカリですね」
「うぐぅ・・・」
「その悔しさにウソをついてはいけません。さあ、兗州を取り戻す戦さを始めましょう!」
これは列伝本文に付けられた注なのですが、
本文では田横のところが、韓信と彭越に入れ替わっている。
つまり田横は、韓信や彭越と同じように、秦末に自立をし、韓信や彭越と同じように、劉邦に飲み込まれた、と。
魏書「諸葛誕伝」所注、干宝『晋紀』より。
「諸葛公のために死ぬのだ。心残りはない」
と言って、降伏を拒んだ。
数百人は、胸の前で手を組まされ、一列に並べられた。順に首を切り落とされた。1人が斬られるごとに、降伏を呼びかけたが、ついに1人も応じなかった。当時の人は、この様子を田横の配下の最期に似ていると言った。
田横の配下は、誇りを持って田横の道連れになったことが分かりました。当然、田横たちを死に追い込んだのは、劉邦だ。えげつないことである。
◆蜀書
蜀書「諸葛亮伝」より。田横が陳寿の本文に出てくるのは、ここが初めて。
「孫権将軍は、曹操に対抗する軍勢がないくせに、内政ばかりやっている。早く曹操に降伏しちゃいなさいよ」
諸葛亮の徴発に、孫権が反論した。
「軍勢の話をするなら、キミの主人の劉備は、もっと酷いじゃないか。劉備こそ、早く曹操に服従すべきじゃないか」
「田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、義を守って、劉邦から屈辱を受けませんでした。まして劉備さまは、漢室の末裔で、田横よりも出自が貴い。劉備さまが曹操の下に付き、義を失い屈辱を受け、田横に劣る運命を選ぶわけがない」
陳寿が使った比較表現はもっとやんわりしていますが、ぼくが明確にしました。つまり諸葛亮は、
「劉備は田横より優れている」
と言っている。
たびたび言いますが「比較できる」とは、ある一面が同じで、ある一面が違うということ。まるで次元の違うものや、まるで同じものの間には、比較という概念が成立しないから。
諸葛亮は、劉備と田横に共通点を見出している。そして劉備に、田横の失敗をくり返させないことが、軍師たる自分のミッションだと心得ている。
(後で見ますが、田横の方が血筋が貴い。それは別の話)
◆呉書
呉書「呉主伝」所注『魏略』より。
孫権の不誠実な対応に対して、魏の三公が上表した。
「もし蒯通(韓信の軍師、劉邦の味方)が、歴下で田横を急襲すると決めなければ、田横は勢力を保ち、漢の邪魔を続けたでしょう。もし曹丕さまが孫権を討たなければ、孫権は勢力を保ち、魏の邪魔を続けるでしょう。今こそ孫権を討ちましょう!」
田横は、蒯通の作戦に敗れて、割拠の基盤を失ったらしい。
◆『三国志』と田横
史料への登場順を優先したから、田横のエピソードの時系列が前後しまくりで、ストーリの繋がりを無視でした。お許し下さい。
これで『三国志』の田横の登場は全部です。
面白いのは、田横が曹操・劉備・孫権の3人の英雄に漏れなく例えられたこと。他にも、公孫淵になったり、諸葛誕になったり。田横は、それほど有名じゃないにも関わらず!
中国史はいつだってそうだろうが、『三国志』の時点でも、キャラ属性の代名詞となる人物は、だいたい相場が決まっている。
名君ならば、殷の湯王・周の文王。暴君ならば、夏のケツ王・殷のチュウ王。覇者ならば、斉の桓公・晋の文公。軍師ならば、管仲・楽毅。反逆者ならば、外戚の王莽・梁冀・・・
時代が下れば『三国志』の人物も代名詞に組み込まれ、謀反人なら董卓、軍師なら諸葛亮、ヒゲなら張飛・・・という具合になっていきます。
田横は、
「微力ながらも地方割拠した、志の高い人物」
の代名詞として、認識されていることが分かる。群雄が割拠した三国時代には、準える相手が多そうな人物です。
「後漢末の人は、自立して割拠するたび、田横と自分を引き比べて、何かを感じ取っていた」
と言っても、決して言いすぎではないでしょう。もっとも、『史記』なりを読むための学問がないと、そんな高等なことは出来ないのだけれど。
・・・このサイトで田横をやる理由が、明確になりました。よかった(笑)