6)宮城谷昌光『香乱記』(四)下
『香乱記』の最終巻を読んでいます。
不屈の人
田横のところに、レキ食其(劉邦の臣)がきた。
「レキ食其は奇抜なことはいわなかった。項羽がいかに狭量で不正をおこなってきたか、それにひきかえ劉邦がいかに宏器で正道を踏んできたかを滔々と述べた」
レキ食其は凡庸だった。だが、劉邦が項羽に勝ちそうなのは事実だ。田横たちは、ひとまず劉邦に従うことにした。弁舌に眩まされたのではなく、主体的に劉邦を選んだ。
「劉邦を援けた諸侯と諸将は、やがて劉邦の本性に気づき、いっせいに背くことになろう。そのとき、かれらが奉戴するのは、かならず田広(実兄の子、斉王)であろう」
という長期的な視野を、田横は秘めている。
宮城谷氏はワザとやってるのだが、劉邦の晩年は功臣が続々と裏切る。もし斉王が生き残っていれば、前漢が滅びる可能性は、充分にあった。斉による天下統一も、あった。心憎い演出である。
和睦のしるしに田横は、斉の重要な拠点である歴城に、韓信を迎えることにした。だが韓信は、招待された客として入城しなかった。
韓信は、歴城を急襲した。
「かつてこれほど卑劣な騙し討ちがあったであろうか」
劉邦の軍は、斉の首都・臨淄にむけて驀進した。斉の民が、多く死んだ。
斉王(実兄の子)は、レキ食其を煮殺した。
「連日のごとくレキ食其と語りあって、かれに親しみをおぼえていただけに、騙された、と痛感したことが烈しい憎悪を産んだ」
というわけ。田横の近臣は、嘆いた。
「漢王は諸侯と属将を騙しつづけて皇帝になるつもりでしょうが、そんな王朝が永続するのでしょうか。王朝は創業者の徳がすべてです。騙して建てた王朝であれば、騙されて倒される。わたしは、あの生きにくい秦の世で生きていたくせに、漢の世では生きたいとおもわない」
「項羽が勝とうが劉邦が勝とうが、またいやな世になる。とくに劉邦は秦の制度を復興させているので、天下を取れば、始皇帝よりひどい皇帝となろう。そういう世を、みたくはない」
劉邦の軍は、斉の諸城を攻略した。
「斉王は戦死なさったようです」
田横の実兄の子は、劉邦の軍に殺された。
領地がほとんど残っていないが、田横が自ら斉王になった。これで三兄弟が残らず王になった。小説の冒頭で約束された予言が、現実のものになった。
「生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず、という玄徳の王になろう」
老子の思想を体現した王だ。
決まった城を保たず、独力で戦い、敗れては退いた。劉邦と敵対しているが、項羽に援兵を求めることはなかった。ぼくが省略してしまっているが、同時代の彭越を手本とした戦い方だ。
海中の国
もと斉の首都・臨淄にいるのは、韓信だ。
韓信は蒯通から、「天下三分の計」を教わった。劉邦をそこそこに困らせておき、項羽と膠着させる。三すくみの状態を作り出して、自分の存在感を発揮する作戦だ。
韓信は、劉邦に自治権を求めた。劉邦は、腸が煮えくり返った。
「韓信のように世間を忌憚してこなかった男には、劉邦の性質にある陰険さを軽視する癖があり、人への観察力は劉邦より劣り、兵略で発揮される詐術は劉邦には通じなかった」
と宮城谷氏は韓信を分析した。
蒯通は、
「韓信は、自分の危うさがわからないのか、と苛立った。張耳と陳余の刎頚の交わりはどうであったか。韓信と劉邦の交わりは、それよりゆるいのであるから、韓信がどうなるかは、あきらかである」
と、韓信の失敗を確信した。
韓信が王を気取って動かないから、斉の平定は、曹参がやった。田横は、曹参にゲリラ戦をしかけた。曹参は、田横に言った。
「弱者は弱者らしく強者にショウ伏すればよく、意地を張って死んでゆくことが賢いはずはない。むだな戦いはせぬことだ」
対する田横は、
「むだであるのは、あなたの弁舌だ。あなたの臭い息で、清らかな谷気がけがれる」
と言い返した。曹参の後ろから彭越が現れ、停戦となった。
劉邦は項羽を滅ぼしたが、田横が屈さない。
「田横を捕らえられないのは、斉の人民が田横を護ろうとしているからだ。韓信に、斉の歴城を急襲させなければよかった。韓信を趙にとどめておけば、レキ食其の策によって、田横たちは漢に服属したのに・・・」
『史記』のニュアンスを確認していないが、『香乱記』でレキ食其は、田横を説得して降伏させようとした。穏健派だ。韓信が軍事に訴えて、レキ食其の努力をダメにした。レキ食其は、韓信に殺されたようなものだ。
こう劉邦は後悔しつつ、皇帝になった。
即位のニュースに触れた田横の側近に、宮城谷氏が言わせた。
「劉邦を生かしたのは天かもしれないが、王(田横)を殺さないのは道です。天は人を殺すが、道は殺さない」
また別のところに、
「人はひとりでは生きられないと考えるのが儒家で、山中にはいって独行することができるのが道家です」
という言葉もある。天と儒家、道と道家が通じます。前者は秦漢で、後者は田横です。秦と漢が同質だから、
「多くの人が血をながしたことにいかなる意義があったのか」
という問いかけが生じている。
田横は、劉邦に会うために洛陽にむかった。
「劉邦は項羽を嗤えない殺戮者であった。項羽と戦っていたころの劉邦は英雄の風景にふさわしい人物であったが、皇帝となってからは醜悪となった、というのは歴史の印象にすぎず、劉邦の実相は挙兵まえからさしたるちがいはない」
と総括した上で、宮城谷氏は田横を殺す。
「陛下(劉邦)がわたしをみたいわけは、ひとたびわたしの面貌をみたいだけである。陛下は洛陽に在る。ここでわたしの頭を斬って、三十里を馳せても、容貌はまだくずれず、陛下が観ることができるであろう」
と、田横に独白させた。
「田横は宥されて王侯となることを恐れた。王侯となれば、劉邦が皇帝であることを認めることになる。田氏三兄弟が戦ってきたのは、皇帝という呼称を消滅させるためであり、唯一人のための天下にさせないためである」
残された配下は、つぎつぎ自刎した。