表紙 > 三国前史 > 田横を知り、諸葛亮を知る。

7)ふたりの劉邦

宮城谷氏の『香乱記』のあらすじを見てきました。他で見たことのない漢字を使うかと思いきや、平凡な述語が平仮名で書かれていたり、引用が大変でした。きっと誤字だらけだ。
いまのぼくの知識で『史記』を紐解き、田横のところを拾い読むことは、最低限はできると思います。しかし、列伝に恒例のデメリットで、横のつながりがさっぱり分からない。それを克服するという意味で、小説から田横に取っ付いたことは、有意義だったと思います。

スタンダードは司馬遼太郎

ぼくは高校生のとき、『史記』で鴻門の会を読まされました。奇しくも宮城谷氏も、鴻門の会を読まされたらしい。『香乱記』のあとがきで仰っている。
いや、「奇しくも」なんてことはなく、数十年来、高校の漢文の教科書は同じなのかな。ぼくも宮城谷氏と同じ愛知県で、高校生をやっていた。まあ、それはいい。
高校の古典の先生は、司馬遼太郎『項羽と劉邦』を勧めた。10年前のぼくは漢文に興味などなかったが、とりあえず『項羽と劉邦』を読んだ。

日本人の劉邦のイメージは『項羽と劉邦』がスタンダードだと思う。決まって教科書に登場し、そのたびに先生が読むことを進める本だから、そりゃ定着するでしょうよ。
開けっぴろげな性格で、逃げるために子供を投げ捨てるけれど、部下の信頼は厚い。どれだけ負けても、優秀な部下のサポートが途絶えることなく、ついに残忍な項羽を破る。日本人50人分くらいの性格を足し算したような、器の大きな好人物だ。

宮城谷氏が『香乱記』で描いたのは、スタンダードではない劉邦だ。ただの陰険な盗賊であり、それ以上でも以下でもない。
無頼だった青年時代、粘り強い項羽との闘争、名臣を殺し匈奴に捕われた晩年、呂后にひっくり返された死後。それぞれの人生のステージにおいて、宮城谷氏は劉邦を区別しない。区別しなくても、説明がつく。
ぼくは、司馬遼太郎氏を無批判に呑んで、劉邦を英雄だと思っていた。だから、劉邦が理解できなかった。「不良青年が大人物に化ける」くらいの成功話なら、ギリギリ理解が付いてくるんだが、晩年が本当に分からなかった。呂后のせいにしようとしても、限界があった。
『香乱記』は、まず劉邦を知るという意味で、読んでよかった。

三国ファンは「劉邦教徒」だ

レ点をやっと覚えた高校生のぼくが、他の何と比較するでもなく、唯一絶対の教義として読んだのが『項羽と劉邦』でした。
史料批判なんて知らず、ただ信じ込む。こういうとき、本は、まるで宗教のようなパワーを持ちます。もしくは、どの本を読んでも同じことが書いてあれば、批判の目が閉ざされる。疑義の余地のない真実だと錯覚する。
「劉邦は好ましい英雄だ。欠点があるように見えても、やがて劉邦は天下を統一できるのだから、むしろ長所である」
・・・これと似た思い込みが、三国ファンの間でも起きていないか。
そうです。
登場人物が、誰ひとりとして漢の悪口を言わない『三国志』は、さながら「劉邦教」の布教パンフレットです。後漢末は、どんな賊であっても、ふた言目には、
「漢室の復興を」
と口走る時代だ。この時代の話にハマッていると、いつのまにか頭の中が「劉邦教」に染められていくのです。

漢の時代、王朝は400年かけて、儒教というツールに磨きをかけ、劉氏の正当性を練り上げてきた。その巨大な魔物が、曹操や劉備を媒介にして、免疫のない三国ファンの心の中に入ってくるのです。
「曹操が正しい」
「いいや、劉備だ」
「むしろ孫権が」
という議論は起こるんだが、
「そもそも劉邦の資質が・・・」
切り出すことのできる三国ファンは、あまりいない。『三国志』に入れ込めば入れ込むほど、三国時代の人に、歴史認識が寄り添っていくからね。
いまは2009年。漢室への利害関係者なんて生き残っていないから、価値観に偏りがあっても、きっと実害はない。デリケートな論争にもならない。
だが、
「先入観に染まっていることに気づかない」
というのは、本を読む者として、かなり危機的な状況です。

劉邦を英雄視するという意味で、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』と中国の正史は近い。きっと司馬遼太郎氏は、面白い小説が書きたかっただけだ。だから、初代皇帝を神格化しようとする正史と、執筆の動機が違う。だが結果として、似たものができてしまった。
『漢書』『後漢書』が劉邦を持ち上げるのは当然として、後漢末の人の生き様を多く描き、漢から禅譲を受けた魏を正統だとした『三国志』も、劉邦を肯定的に扱う。
「わが張子房だ」
と曹操が荀彧の合流を喜び、
「劉邦に似た人柄を持ち合わせた」
と劉備は器量を称えられた。
陳寿は晋の役人だ。晋は魏から禅譲を受けたのだから、晋も漢を肯定すべき立場にある。禅譲という理想的な王朝交代手法(方便とも言う)が発明されたおかげで、前王朝は次王朝にとって、否定ではなく、肯定の対象になった。劉邦はくり返しくり返し、英雄に祭り上げられてきた。磨きすぎて原型が分からなくなった石みたいなものだ。

英雄と盗賊、ふたりの劉邦がいる。このことを、三国ファンは認識しなおさねばならない。『香乱記』を読んで、まずはそう思った。