10)田横のままだった劉備
老子を好んで「持たざる」将軍だった劉備は、諸葛亮によって、儒学風の「持つ」将軍に変節させられた。
漢中王のせいだ
劉備は『三国志』の中で、いちばん分かりにくい人物だ。
陳寿を読んでも、捉えどころがない。後世、正閏論に引っかき回された。民衆の期待に応えて、『演義』で善人になった。手垢が付きまくっている。
劉備が分かりにくい原因は、
「劉備には、劉邦の面影があった」
という陳寿の評だ。『香乱記』を読んだ直後のぼくに言わせれば、はなはだおかしな血迷った記述である。
儒者は歴史をアレンジして、「なりふり構わず盗んだ」劉邦から、「仁徳によって手に入れた」劉邦に変換した。字面は違うが劉邦は、皇帝権力を「得た」ことには違いはない。そんな「持つ」人である劉邦を、本性が「持たざる」劉備とイコールで結んだのだから、ワケが分からなくなるのだ。
例えば、
「リンゴとバナナは色が違う。リンゴは赤く、バナナは黄色だ」
という命題もあったとする。ところが誰かが、
「リンゴとバナナは、同じ色である」
と言い出したとする。この誤りを疑わずに、議論の前提とすれば、
「リンゴが黄色いのか?バナナが赤いのか?そもそも赤と黄色とは、同じ色のことを指すのか?」
という具合に、ぐちゃぐちゃになる。同じだ。
なぜ劉邦と劉備の性質を結びつけるというミスを犯しがちかと言えば、劉備が漢中王を名乗ったからだ。
「諸葛亮の戦略に基づき、劉備は『持つ』王に化けましたよ」
と天下に宣言したのが、この即位である。
なんとなしに、
「劉備は劉氏だから、劉邦になぞらえても自然だ」
と思いがちだが、そう感じている時点で、1800年経っても諸葛亮の広報作戦に引っかかっている。
劉氏なんてゴマンといた。日本でしか通じないジョークだが、劉邦をなぞるなら、劉備よりも相応しい人物が、魏にいたじゃないか。孫資とともに曹叡の遺言を左右にした劉放である(笑)
劉備の皇帝即位もまた、劉備に、もっと「持たせる」ための演出である。
もし劉備が、諸葛亮の言いなりになって、「持つ」人に性格が変わっていれば、まだ分かりやすかった。だがぼくは、劉備は死ぬまで老子を信じていたような気がする。その証拠が、夷陵開戦だ。
人物の実際と、史料の中での呼称がズレているから、分かりにくい。
夷陵の意図
晩年に劉備は、夷陵の戦いを起こす。ぼくは劉備が夷陵に出発したのは、老いて再び「手放す美学」の衝動に取り憑かれたからだと思う。
もし諸葛亮による教育が成功し、劉備が「漢帝」を自覚していたなら、夷陵を開戦した理由はこうなる。
「天下統一するには、荊州は不可欠だった。益州と荊州の2方面から、曹魏に圧力をかけることが、諸葛亮の軍事戦略だったからだ。また益州の国力だけでは、軍人・官吏を養いきれない。また劉備の臣下は、荊州出身者が多かったから、荊州奪還は悲願となった」
ああ!
なんという「持つ」人の側から見た言い分であることか。
劉備は、荊州を失った。だが劉備は、心の底では、それほどダメージを受けていないと思う。領土を失うことなど、劉備自身の存在価値を脅かさないからだ。劉備は、徐州を失ったときに、しぶとかった。呂布と、主客の立場が逆転しても、屈辱にあえいだりしなかった。
老子者の強みである。
関羽が討たれた。劉備は、こちらを許せなかった。昔のままの1人の将軍となり、無策の長期滞陣をやった。三国ファンの間の風潮として、『演義』による脚色は眉唾とする。だが実は的を射ていて、
「関羽を欺き殺した孫権の不誠実を、天下に宣伝する」
という、『香乱記』の田横みたいな動機が、劉備にあったのかも知れない。領土を取れなくてもいい。負けてもいい。ただ抵抗だけはやめず、天下が気づくのを待っている。そういう戦い方だ。
孫権側から見れば、荊州は劉備が盗み取ったものだから、弾劾される覚えはない。乱世である。軍事的に強い方が、領土を拡張するのは、当たり前のことだ。同じロジックで、劉備も動いただろ。
だが劉備としては、荊州を保ったのは諸葛亮がヤレと言ったからであり、もともと自分が重視したことではなかった。それなのに、たかが領土問題で最愛の義兄弟を失ってしまったから、その「理不尽」を怒ったのだ。
怒りの矛先は、諸葛亮だったかも知れない。だから諸葛亮は、このとき劉備に話を聞いてもらえなかった。
田横の『三国志』への登場例を1)で見たが、三国時代の田横は、
「微力ながらも地方割拠した、志の高い人物」
と捉えられていた。劉備は田横と似たところがあるから、
「天下統一のための対決相手は魏だ。呉じゃない」
と諫止されても、東征を思いとどまる理由にはならない。地域に割拠することは、決して挫折ではない。
劉備の遺言の意味
劉備は死に目に、
「劉禅がアホだったら、諸葛亮が代われ」
と言った。世間では、
「諸葛亮の目標は、漢室の復興である。劉氏の皇帝を退けてしまったら、目標が達成できない。矛盾した命令だ」
というところに注目し、
「劉備は矛盾した命令を出してしまうほど、私心がなくて謙虚で、漢の前途を思いやっていた」
と褒めてみたり、
「劉備は、忠臣ヅラをした諸葛亮の腹の内を試した」
と疑ってみたり、劉備論はいろいろだ。
――違うんだ。
劉備は、わが劉氏が益州の王であることに執着していない。
「劉氏による漢室が永続する」
というのは、儒者が作った虚構だし、諸葛亮が勝手に持ち出したことである。劉備にとっては、正直どちらでもいい。むしろ、潔く手放してこそ、美しい。求心力のない人から、主導権が去っていくのは、いわば必然である。それを、血筋の正統がどうの、忠義がどうの、と言い出すから、ワケが分からなくなるんだ。
後漢は、知恵も腕力もない幼い皇帝が連続で即位した。そのせいで外戚や宦官が勝手をして、ダラダラと民衆を苦しめた。
「皇帝権力なんて、ない方がいい」
『香乱記』の田横のような主張を、劉備が継いだかも知れない。
「諸葛亮は、劉氏ではない。彼が益州を仕切れば、漢帝でも漢王でもいられない。儒教に固められた漢とは無関係の、身の丈にあった地方政権ができる。国のスケールとは、それぐらいがいい」
これが劉備の真意だったのではないか。漢魏の正統論争は、劉備にとって対岸の火事である。
おわりに
劉邦は項羽と戦っているとき、宮殿の美女や財宝に手をつけなかったり、子供を捨てて逃げたり、臣下を王に封じたりする。だから「持たざる」人に見える。執着のなさが、劉邦を英雄に見せるが、ウソだった。劉邦は一貫して「持ちたい」人だった。
劉備は、諸葛亮を得てから、荊州を孫権から奪い、益州を劉璋から奪い、皇帝を名乗り、夷陵へ荊州を取り戻しに行く。だから「持つ」人に見える。その執着ぶりが、劉備を漢室の後継者、儒教的な有徳者に見せるが、ウソだった。劉備は一貫して「持たざる」人だった。
劉邦と劉備は元来の性質は正反対で、「歴史の印象」はさらにまたその反対だから、捩れてしまってワケが分からない。田横という基準を置き、定点観測すれば整理ができた。そういう考察文でした。
090807