5)宮城谷昌光『香乱記』(四)上
文庫本1冊を1ページのペースで要約してます。項羽が作った新しい天下の体制に、田横たちは背いた。
東方の旗
田横と実兄は、項羽の後ろ盾を得た別派の田氏と開戦した。
いま田横が頂いている斉王は、従兄の子だ。従兄の子は、項羽が怖くなって、田横を攻撃してきた。裏切りである。
実兄は、従兄の子を殺した!
実兄が斉王になった。これで初めの予言が、兄弟の2人目まで的中したことになる。
甥を殺して手を汚した実兄は、田横に言った。
「一人を殺す者は死刑に処せられ、項羽のように数十万人を殺した者は、覇王として崇敬される。それが時代の虚偽だとわかるときがくれば、項羽は大量殺人をおこなった者として、天に処罰されよう。いまの世の英雄豪傑のなかで、田横将軍ひとりが正しい」
南鄭(漢中)に封じ込められた劉邦が、三秦(関中)を攻めた。
劉邦を復活させたのが、股くぐりで有名な韓信。宮城谷氏は、のちに田横の宿敵となる韓信に、とても冷たい。
「あのときの恥辱をよく耐えた、と股くぐりを浪漫的に称めるむきがあるが、韓信とはそういう男に過ぎないのであり(中略)韓信は終生自立することができなかった」
という具合だ。
劉邦の軍師・張良は、項羽に言った。
「斉(田横たち)は、西楚(項羽)の害になるので、滅ぼすべきだ。漢(劉邦)は、東方にでる野望はないから、ご懸念には及びません」
・・・2人の英雄の対決は、田横の側から見れば、こうなる。
「項羽と劉邦はたがいに欺きあっているにすぎぬ」
馬上の影
趙にて。かつて「刎頚の交わり」を結んだ2人だったが、陳余は張耳を攻めた。張耳は破れて、劉邦にかくまわれた。陳余の趙は、田横の斉と同盟した。項羽でも劉邦でもない第三勢力となった。
項羽が、斉を攻めた。
「凶報です」
斉王の実兄が、項羽に攻め殺された。
次は田横が、項羽と戦わなければならない。夜に奇襲することにした。奇襲は成功した。だが項羽に「神力」があり、田横が項羽を討ち取ることはできなかった。
「もしかすると項羽は人ではなく時代の歪みの化身であり、秦という王朝が項羽を借りて自浄したにすぎず、時間から汚濁が消えると同時に項羽も滅ぶのかもしれない。(中略)まだ破壊と殺戮が足りないと天は考えて、項羽を生かしつづけるのか」
と、田横は戦さを振り返った。田横は次に、
「斉をどのような国にすればよいか」
を考えた。従兄と実兄がもっていた信念とは、
「斉は他国を侵略せず、また侵略をゆるす国であってはならない。皇帝とは人民の傲慢の象徴であるから、不要である」と。
田横はこの理想を継いだ。
斉の復興
劉邦は、項羽の根拠地を奪った。劉邦は趙の陳余を、項羽攻めに誘った。陳余は、劉邦が「仇讐」の張耳をかくまっているから、断った。
「劉邦の配慮のなさは、項羽のあつかましさに通うものがある」
と陳余は思い、
「張耳を殺せば、従うであろう」
と劉邦に返事した。劉邦は、張耳と似た男を殺して、その首を陳余に届けた。陳余は、ころっと騙された。劉邦は、
「陳余は、だまされて、ほろぶであろう」
と、趙の滅亡を予言した。ここに劉邦の「人の悪さ」が発揮されている、と。自分で騙しておいて、騙された人を笑うのだから、極悪である。
「項羽は殺すだけの人であり、劉邦は騙すだけの人だ。(中略)劉邦は肝心なところで怠放に明け暮れ、項羽の大反抗をゆるした。(中略)劉邦のやったことは殷のチュウ王とかわらぬ酒池肉林で、その愚佻のせいで、兵の大半が戦死してしまった」
司馬遼太郎氏の小説だと、負けっぷりもまた、劉邦に英雄性の一部だ。だが宮城谷氏は、歴史上の人物に対して、テキトーな愛し方をしない。
張耳と韓信(劉邦の将)が、陳余から趙を取り戻そうと、攻めてきた。韓信が背水の陣を布いたのは、このとき。
陳余は敗れて、惨殺された。
張耳は、趙王にしてもらった。だが、
「もっとも欲が深い者は、人にあたえたとみせて、ひとりじめにするものだ」
という劉邦の作戦であり、張耳ややがて駆逐される。
田横は、実兄の子と斉王の位を譲り合い、自分は宰相になった。
「無為を実現しようとしているのではないか。あたかも為さざるがごとき政治を理想としている。(中略)漢と楚が血みどろになって格闘しているとき、斉の国のありかたは戦争への大きな批判となる」
『史記』にもちゃんと載っているところだし、面白いで、詳しめに引用しています。次回に続きます。