表紙 > 三国前史 > 田横を知り、諸葛亮を知る。

9)劉備が領土を持つ窮屈さ

劉備の前半生は、老子を信じた武将だった。

主人をコロコロ変える劉備

劉備はひとところに執着しない。だから、世話になった人への恩返しに熱心ではない。丁原と董卓を斬った呂布からですら、
いちばん信用できないのは、このウサギ野郎だ」
と暴言を吐かれた。
劉備ファンは耳を塞ぎたくなる言葉だが、事実である。呂布が死んだ後も、曹操を裏切り、袁紹を裏切り、劉表の客将になった。
「なぜそんな不義理を平気でできるのか」
というのは、儒者の感想である。劉備は、自然の流れに身を任せている。自分たちを養ってくれた人に魂を売ったつもりはないから、離脱しても、いわゆる裏切りではない。成り行きである(笑)
ところで、死に際に劉備をあんな風に罵ったとは、呂布はけっこう社会人としての常識がある。もっと言えば、呂布は充分に儒者である(笑)他者への期待が旺盛だから、裏切られたときにキレるのだ。

劉備に呂布ほどの武力がなかったという理由もあるが、劉備は他人の下を去るとき、飼い主の手を噛まない。べつに人徳者だから、綺麗に去るのではない。他人に関心が薄いから、叛逆という邪魔くさくてリスキーなことを、わざわざしないだけ。
徐州で自立して、曹操が自ら攻めてきたと知るや、潔く逃げた。予想に反して曹操が自分で討ちに来たから、驚いて逃げたのではない。相手が誰であろうと、劉備は戦いを避けただろう。

劉表のところで、劉備は新野城を任された。
「曹操が攻めてきたら、最前線となる。長く客将をやっても、自前の勢力は永遠に築けない。それなのに矢面に立たされるとは、劉備は損であることよ。そんな境遇に7年もいたから、脾肉を嘆いたんだ」
と言われるが、違う。
劉備は、これで良かった。
例え話をします。
マンションの高い家賃を払い続けても、自分の資産にならないんだから、損だよね。そのお金をローンに回せば、夢のマイホームが手に入るのに」
という意見は、必ずしもいつも正しくない。
引越しできないリスク、老朽化して資産価値の下がるリスク、修繕して維持するコスト、固定資産税。賃貸ならば、それらを大家さんが背負ってくれる。経済的にプラマイの分岐点が微妙なら、賃貸の気楽さは捨てがたい。
劉備を、ひいては老子を理解しようと思えば、マンション住まいの感覚に照らせばいい気がしてきた(笑)

隆中対の本質

諸葛亮の隆中対は、平たく言えば、
「荊州を領有し、益州を領有し、天下を領有しましょう」
である。この構想の、どこが秀逸なのか。
「荊州と益州だけが、まだ後漢の残骸のような州牧が残っており、攻め取る余地がある
こんなことは、万人が知っている。
「強大な第一勢力があり、中くらいの第二勢力がある状況下で自立するなら、第三勢力を作るしかない
アホみたいな一般論である。劉備に聞かれたら、ぼくでも答えられる。韓信に蒯通が説いた先例があるが、わざわざそれを持ち出すまでもなく、当たり前の話だ。
――諸葛亮は、大したことを言ってない。つまらん話に箔をつけるために、劉備に3回も訪問させたのか?詐欺じゃないか?
という流れになってきたが、違う。
諸葛亮が凄いのは、
「手放す美学を持っていた老子好きな劉備に、『保ち続ける』という儒家風の教義を叩き込んだ
ことである。
「 荊州を、益州を、関中を」
なんて諸葛亮が喋っているから、その地名の順序に目を奪われがちになるが、違う。そもそも根拠地を持て!ということに、説得の主眼がある。劉備にとっては異教徒の話であり、少なからず抵抗しただろう。親みたいな歳の、根強い老子者をねじ伏せたから、諸葛亮はすごいのだ。

『三国志』には出てこないが、諸葛亮が劉備に向けて、こんな説得をしたかも知れない。
「あなたは田横のように、弱小ながらも正義を主張し、負けて惨めに自殺するんですか。田横が自殺したとき、配下は殉死をしましたね。劉備さまと臣下の結合の強さを拝見すると、きっと田横もこうであったんだろうな、と理解できます。そして、悲惨な最期の光景が目に浮かぶのです」
と。もうこれは脅迫ですね。

劉邦の必要「濁」

必要悪という言葉に引っ掛けて、必要「濁」としました。

漢室の復興を掲げ、天下三分の道を歩み始めた劉備は、汚くなりました。まるで『香乱記』に描かれている劉邦のように、
「諸侯と属将を騙しつづけて皇帝となる陰険者」
に変質した。この変質をプロデュースしたのは、諸葛亮だ。
赤壁で大して役に立ってないくせに、周瑜から荊州南部を騙し取った。益州を攻めたいという周瑜を、不誠実に妨げた。魯粛と、荊州の貸借問題を起こして、横車を押した。
「益州を得たら、孫権に荊州をお返しします」
と約束しながら、益州を得たら、
「やっぱり、涼州を得たらお返しすることにします」
と言い出した。
益州も同じだ。
張魯を討つと言って入国したはいいが、歓待した劉璋を討つ気である。劉備が完全に道家から儒家に化けていたら、龐統の提案を受け入れて、劉璋を一撃で殺したでしょう。だが、まだ老子を重んじる田横のような気質が残っていたから、劉璋を討たなかった。

「劉備は、儒教の美徳の持ち主で、思いやりがあった。だから劉璋を殺さなかった。好意には、きちんと報いた――」
これは『演義』の物言いだが、ちょっと違う。
儒教のように、
「人間とは、かくあるべきだ」
というベキ論を集めた儒教は、突き詰めると他人と衝突する。人と人との関係を重視するとは、他人が自分と同じ正義を守るよう、期待することだ。だから儒者は、正義の完遂を名目にして、他人の言動にヤキモキする。思い通りにならないと、殺人さえする。
一神教が持つ歴史に通じる。
「徳の薄い劉璋は、州牧を失格だ。それが天下のため」
と言い出すのが、儒教の言い分だろう。
老子は、自己完結して安穏としている。他人に無関心だと、社会不適応者のようにも見える。だが、他人のあるがままを受け流す強靭さがある。言い方を変えれば、他人に優しい。
劉備が劉璋を殺害しなかったのは、こちらの優しさによる。

『史記』でも『項羽と劉邦』でも『香乱記』でも、劉邦は儒者を小馬鹿にしている。 諸葛亮が劉備に提示した王の姿とは、
「儒学の理想を体現し、劉邦のようになれ」
でした。
「劉邦は儒者が嫌いだったのに・・・」
と、話が矛盾しているように見える。だが諸葛亮の念頭にあったのは、「事実の」劉邦ではなくて、漢室の儒者が厚化粧をほどこした、「書物の中だけにいる」劉邦である。だから、ぼくが推測している諸葛亮の主張は、おかしくはないと思います。