表紙 > 三国前史 > 田横を知り、諸葛亮を知る。

8)田横を否定する諸葛亮

遠回りしましたが、やっと「諸葛亮を知る」という話です。
すなわち、諸葛亮が赤壁前に孫権と議論したとき、劉備を田横に例えた。諸葛亮は、どんな意図で田横を持ち出したのか。それを解き明かします。

『演義』が漏らしたこと

まずは結論。
「諸葛亮は、諸葛亮と合流する前の劉備を田横と重ねた。そして劉備を、田横のような体質から脱却させることが、自分の使命だと思っていた」
これだと思います。
諸葛亮が故事を持ち出すとき、例えば管仲・楽毅のときは、プラスのイメージだ。だが田横は、マイナスのイメージである。反面教師だ。

『三国志』で諸葛亮が言っていることを、再掲載する。

諸葛亮は、柴桑で孫権を説得した。赤壁前夜である。
「孫権将軍は、曹操に対抗する軍勢がないくせに、内政ばかりやっている。早く曹操に降伏しちゃいなさいよ」
諸葛亮の徴発に、孫権が反論した。
「軍勢の話をするなら、キミの主人の劉備は、もっと酷いじゃないか。劉備こそ、早く曹操に服従すべきじゃないか」
田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、義を守って、劉邦から屈辱を受けませんでした。まして劉備さまは、漢室の末裔で、田横よりも出自が貴い。劉備さまが曹操の下に付き、義を失い屈辱を受け、田横に劣る運命を選ぶわけがない


孫権のところに行った諸葛亮は、2つのことを言わねばならない。まず、孫権は曹操と開戦すべきであること。次に、劉備は曹操に負けてばかりいるが、決してダメ武将ではないこと。
曹操が荊州を南下中だ。純粋な議題としては前者で充分だが、後者を抜きにしては、諸葛亮の言葉が説得力を持たない。

『演義』や吉川英治氏の小説では、
「諸葛亮さんが付いていながら、劉備は荊州を得ることができず、長阪で敗走したよね」
と質問された諸葛亮は、
「瀕死の病人に、いきなり酒肉を飲み食いさせても、ショックを与えるだけ。粥からじわじわと慣らしていくのが道理です」
と言っている。
孫権の臣が寝ぼけて聞いていても、分かりやすい比喩である。だが、
「なぜリハビリ中の劉備に付き合わねばならないか」
という孫権側の疑問に、ちゃんと答えていない。諸葛亮は、劉備の出自や動機を説くばかりで、かみ合わない。
孫権は若いし、揚州は安定している。どうせ縁故も義理もない初対面の人と付き合うなら、健康な相手と、食べ放題・呑み放題の焼肉に行きたいじゃねえか。
それなのに孫権は、なぜ劉備との同盟を拒まなかったか。
『演義』ではニュアンスが落ちてしまっていると思うが、諸葛亮は、今後の劉備が有望であるという確かな証拠を、ちゃんと列伝で述べている。それが、田横との比較だ。

劉備の前半生の信念

「現状を改善しますよ」
と会社でプレゼンをするなら、どんな方法があるか。
まず「新しいことを始めます」がもっともありがち。ちょっと慣れてくると、「今やっていることを辞めます」という意見が言える。その他に、「今までとはやり方を変えます」というのもある。
「これまで結果が出ていないのは、決してやる気や能力がなかったからではない。やり方が悪かったからなんですよ」
と。 諸葛亮は劉備を指導して、やり方を根本から変えさせた。どう変えたかと言えば、
「道家の将から、儒家の王へ」
である。この一言で説明は充分だ。孫権が、後に利害が衝突することを予想せず、うっかり劉備の将来性に納得したのも、この部分だと思う。順に書いていきます。

「玄徳」とは、老子の言葉だ。
劉備は、あざなを「玄徳」というから、老子が好きである可能性がある。これは宮城谷氏が『三国志』で述べていることだ。ぼくもそうだと思う。
『香乱記』で田横は、「玄徳の王」を自認した。
老子を信望する王がやることは、領土を持たずに、天下に自分なりの正義を示し続けることだった。根拠地を持って、そこにしがみ付いては、他人を歪んで束縛して、不幸にすると考える。

『香乱記』で言われているが、老子を信じれば、
「人はひとりで生きられる」
と考えるようになる。だから、システマティックに体制を作ることに、心を砕かなくなる。世間の常識という不文律から見れば、老子的な生き方は、自分勝手である。
他者との付き合いが下手なのではなく、そもそも重要だと思っていない。自分が正しいと思うことを、言うだけだ。確信犯として、人とのつながりを拒む。社会では異分子となるが、本人は信念を持ってやっているから、教育で導くこともできない。「未成熟」ではなく「見解の相違」だから。


また、老子が好きな人は財産を築くことに執心しない。だから、他人が物差を当てると、老子好きは敗北者に見える。

世間にある多くの本では、老子との関わりに着目せず、
「劉備が根拠地を保てないのは、戦略を立てられる軍師が得られなかったからだ」
と決め付け、諸葛亮の登場の伏線とする。また、
「劉備は関羽や張飛を重んじた。名士を重んじなかったから、継続的に領国経営をすることができなかった」
という指摘もある。
それぞれ、正しい分析だと思う。だがどちらも、
「ほんとうは劉備も群雄になりたいのに、欠点があるため、不本意ながらも成功していない
というニュアンスがある。
違うと思う。ぼくは劉備は、選択的に、領土を手放してきたんだと思う。「漢室の復興」みたいなステレオタイプのスローガンがなくても、劉備なりの正義を持っていたのではないか。

『香乱記』の田横は、皇帝という極度の中央集権を嫌い、騙して盗んで殺しあうだけの楚漢戦争に、疑問を投げかけていた。
劉備が生きたのは後漢末で、田横のときと比べ物にならないくらい、
「天下は1つの王朝が統治すべきだ」
という空気が支配的だった。しかも、
「統治する王朝は、劉氏の漢であるべきだ」
というオプションまで付いている。奇しくも劉備は劉姓だから、漢室側の人間と思われがちだ。だから、劉備の中の老子を正しく感じ取ることは、田横のときよりも数百倍難しい。