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- 前元年(前179)周勃の引退、南越王の帰順
『資治通鑑』巻13の後半に収められた、文帝期。
『資治通鑑』の漢文帝を読み始めました。『資治通鑑』だけから、漢文帝の生涯を「歴史小説」にしてみる習作をしてみたいかも。『史記』や『漢書』を未読なだけに、『資治通鑑』から膨らます実験ができそう。あとで『漢書』と答え合わせして、「この逸話は欲しかった!」と悔しがりたい。
冬、周勃が文帝をしのぎ、袁盎が諫める
冬,十月,庚戌,徙琅邪王澤為燕王;封趙幽王子遂為趙王。
陳平謝病。上問之,平曰:「高祖時,勃功不如臣,及誅諸呂,臣功亦不如勃,願以右丞相讓勃。」十一月,辛巳,上徙平為左丞相,太尉勃為右丞相,大將軍灌嬰為太尉。諸呂所奪齊、楚故地,皆復與之。冬10月庚戌、琅邪王の劉沢をうつして燕王とした。趙幽王の子の劉遂を趙王とした。
劉沢は、宗室の最年長でもっとも頼れる人。陳平は病を謝した(辞官を申し出た)。文帝が陳平に問い、陳平はいう。「高祖のとき、周勃の功績は、私より小さかった。呂氏を誅するとき、私の功績は周勃より小さかった。だから(上位の)右丞相を周勃に譲りたい」と。
11月辛巳、文帝は陳平左丞相に、太尉の周勃を右丞相とした。大將軍の灌嬰を太尉とした。呂氏によって奪われた、斉・楚の故地を、劉氏が取り戻した。
呂太后は、呂台を魯王にして、梁地を与えた。斉・楚の地をうばって、呂王の封地に加えた。
論誅諸呂功,右丞相勃以下益戶、賜金各有差。絳侯朝罷趨出,意得甚。上禮之恭,常目送之。郎中安陵袁盎諫曰:「諸呂悖逆,大臣相與共誅之。是時丞相為太尉,本兵柄,適會其成功。今丞相如有驕主色,陛下謙讓。臣主失禮,竊為陛下弗取也!」後朝,上益莊,丞相益畏。呂氏を誅した功績を論じた。右丞相の周勃より以下に、封戸を増やして、それぞれ金を賜った。周勃は、朝廷から出るときに走って、とても得意そうだった。文帝は、周勃を礼遇することは恭しく、つねに(朝廷から出る周勃を)見送った。
郎中の安陵の袁盎が諫めた。「諸呂が悖逆して、大臣らがともに誅したのだ。このとき丞相(周勃)は太尉であり、兵権があったから、たまたま功績があっただけだ。いま丞相には、主君をうわまわる態度であり、陛下は謙譲する。臣下と君主が礼の秩序を失うやり方を、採用すべきではない」と。
のちに朝廷では、文帝は荘重にふるまい、丞相は文帝を畏れるようになった。
十二月,詔曰:「法者,治之正也。今犯法已論,而使無罪之父母、妻子、同產坐之,及為收帑,朕甚不取!其除收帑諸相坐律令。」十二月、詔した。「法は、これを治めることを正しいとする。いま法を犯して、すでに判決があったものでも、その罪を父母・妻子・兄弟におよぼすな。また子を捕らえるという刑罰を、私は相応しくないと思う。子を捕らえるなどの連座の規則をやめろ」と。
秦制では、1人に罪があれば、室家が連座した。この律を除いた。
春、のちの景帝を立太子する
春,正月,有司請蚤建太子。上曰;「朕既不德,縱不能博求天下賢聖有德之人而禪天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。其安之!」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟、社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也;吳王,兄也;淮南王,弟也,豈不豫哉?今不選舉焉,而曰必子,人其以朕為忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也!」有司固請曰:「古者殷、周有國,治安皆千餘歲,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝平天下為太祖,子孫繼嗣世世不絕,今釋宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子啟最長,純厚慈仁,請建以為太子。」上乃許之。春正月、有司は文帝に「太子を建てろ」と請うた。文帝「私は不徳である。もしひろく天下の賢聖・有德の人を求められなくても、(適任者がいれば発見した範囲で手を打って)天下を譲るつもりだ。しかし、あらかじめ太子を立てれば(賢聖・有徳に天下を譲れなくなるので)私の不徳をますます重くする。心が安まらず、汲々となってしまう」と。
曹丕が太子を建てずに臨終したのは、曹叡や甄氏を悪んだからだけではなさそう。もし曹丕に徳がなければ、曹氏でなく、べつの者のゆずらねば。だって舜は、子に君位をゆずらず、禹を選んだ。
師古は「汲々とすること宜しからざるを言うなり」とする。曹丕も「禅代衆事」で、「汲々」としていた。2人の文帝をつなぐキーワードは「汲々」ということで。
有司「あらかじめ太子を建てるのは、宗廟・社稷を重んじて、天下を忘れないためだ」と。文帝「楚王は、季父である。呉王は、兄である。淮南王は、弟である。どうして適任でないことがあろうか。いま彼らを天子の候補からはずし、わが子を太子にすれば、人々は『天子(文帝)は賢者・有徳な者を忘れ、わが子だけに候補を絞った。天下を憂わないのだな』と言うだろう」と。
有司はつよく要請した。「古代の殷周は、国をたもって、どちらも1千余年の統治をしたが、適切な道を用いた(後嗣への継承を適切に行った)からだ。子を後嗣に立てるのは、古来からの方法に従うものだ。高帝が天下を平らげて太祖となり、子孫は世々、絶えずに継嗣するものだ。いま諸侯や宗室から、つぎの天子を改めて選ぶというのは、高帝の意志ではない。改めて議論すべきでない。最年長の子・劉啓(のちの景帝)は、純厚・慈仁である。彼を太子に立てなさい」と。文帝は許した。
三月,立太子母竇氏為皇后。皇后,清河觀津人。有弟廣國,字少君,幼為人所略賣,傳十餘家,聞竇后立,乃上書自陳。召見,驗問,得實,乃厚賜田宅、金錢,與兄長君家於長安。絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不為擇師傅、賓客;又復效呂氏,大事也!」於是乃選士之有節行者與居。竇長君、少君由此為退讓君子,不敢以尊貴驕人。3月、太子母の竇氏を皇后とした。
『春秋』の法にて、母は子を以て貴い。皇后は、清河の觀津の人。弟がいて、竇広国といい、あざなは少君。幼いときに売り飛ばされ、10余家で使役された。姉の竇后が立つと聞き、上書して自らのべた。文帝に召されて会い、質問に的確に答え、田宅・金銭を賜った。兄の長君とともに長安に家をかまえた。
周勃と灌嬰らは、「われらは死ねない。外戚の竇氏2人が心配だからだ。2人は微賤の出身なのに(外戚だから)天子の師傅や賓客に取り立てられた。呂氏の反復であり(対処すべき)重大事である」と。
ここにおいて周勃と灌嬰は、節行ある士を、竇氏とともに居させた。竇長君・少君の兄弟は、これにより君子に気をつかい、あえて(外戚ゆえに)尊貴だからといって、驕慢になることはなかった。
詔振貸鰥、寡、孤、獨、窮困之人。又令:「八十已上,月賜米、肉、酒;九十已上,加賜帛、絮。賜物當稟鬻米者,長吏閱視,丞若尉致;不滿九十,嗇夫、令史致;二千石遣都吏循行,不稱者督之。」
楚元王交薨。詔して賑恤した。二千石は吏を循行させ、役人を取り締まった。
楚元王の劉交が薨じた。
夏、周勃が陳平にかなわず、引退する
夏,四月,齊、楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。
時有獻千里馬者。帝曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行三十里。朕乘千里馬,獨先安之?」於是還其馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也。其令四方毋求來獻。」
帝既施惠天下,諸侯、四夷遠近歡洽。乃修代來功,封宋昌為壯武侯。夏四月、齊・楚で地震あり。29の山が、同日に崩れて、大水が潰出した。
時に千里馬を献ずる者有り。文帝曰く、「鸞旗 前に在り、属車 後に在り。吉行すること日に五十里、師行すること三十里。朕 千里馬に乗りて、独り先んじて安にか之かん」と。
天子の前にも後にも、行列をくむ人がいる。通常の移動、軍事の移動においても、1日にすすむ距離が決まっている。天子だけが、みょうに速い馬で飛ばしても、誰もついてこれない。そんな馬は意味がない。
関羽の赤兎馬の伝説に水をさす一言。その馬を返還し、長安までの移動にかかった費用を与えて、詔した。「私は献物を受けない。四方からの献上を求めるな」と。
文帝は天下に恩をほどこした。諸侯・四夷は、遠近が調和した。代国から文帝を招いた功績により、宋昌を壯武侯に封じた。
帝益明習國家事。朝而問右丞相勃曰:「天下一歲決獄幾何?」勃謝不知。又問:「一歲錢谷出入幾何?」勃又謝不知,惶愧,汗出沾背。上問左丞相平。平曰:「有主者。」上曰:「主者謂誰?」曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢谷,責治粟內史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「陛下不知其駑下,使待罪宰相。宰相者,上佐天子,理陰陽,順四時;下遂萬物之宜;外鎮撫四夷諸侯;內親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」帝乃稱善。文帝は、ますます国家のことを理解した。朝廷にでて右丞相の周勃に問う。文帝「天下にて、1年で刑罰の判決を下すのはどれだけか」と。周勃「すみません、知りません」と。また問う。文帝「1年の銭穀の出入はどれだけか」と。周勃「それも知りません」と。周勃は恥じて、汗びっしょり。
文帝は左丞相の陳平に問う。陳平「それぞれ担当者がいます」と。文帝「だれが担当か」と。陳平「陛下が判決のことを問うなら、廷尉に聞け。銭穀のことを問うなら、治粟内史に聞け」と。文帝「それぞれ担当者がいるなら、陳平はなにの担当か」と。陳平「宰相の仕事は、上は天子をたすけ、下は万物をととのえ、外に四夷と諸侯をしずめ、内に百姓をなつけ、卿大夫にそれぞれの職務をさせることです」と。文帝は納得した。
右丞相大慚,出而讓陳平曰:「君獨不素教我對!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數,君欲強對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,人或說勃曰:「君既誅諸呂,立代王,威震天下。而君受厚賞,處尊位,久之,即禍及身矣。」勃亦自危,乃謝病,請歸相印,上許之。秋,八月,辛未,右丞相勃免,左丞相平專為丞相。周勃は恥じて、朝廷を出てから、陳平に官位をゆずった。陳平は笑った。「周勃は右丞相の地位にいて、じぶんの職務を知らないのか。もし陛下が長安のなかの盗賊の人数を聞いても、むりに答えようと努力するか(答えられないことは答えなくてよい)」と。
ここにおいて周勃は、陳平にかなわないと知った。ある人が周勃にいう。「きみは呂氏を誅して、代王を天子に立て、天下を震わせた。だがきみは厚遇され賞賜を受けて、高い地位に長くいる。身に禍いが及ぶぞ」と。
周勃は自分が危ないと思い、病気だといって辞職し、官印を返却した。文帝は許した。秋8月辛未、右丞相の周勃を免じて、左丞相の陳平が(左右を統合した)丞相となった。
文帝が南越王の趙佗をなつける
初,隆慮侯灶擊南越,會暑濕,士卒大疫,兵不能隃領。歲餘,高后崩,即罷兵。趙佗因此以兵威財物賂遺閩越、西甌、駱,役屬焉。東西萬餘里,乘黃屋左纛,稱制與中國侔。はじめ、隆慮侯の灶は、南越を撃つが、熱くて病んだ。1年余して、高后が崩じ、兵をやめた。趙佗は、勢力をのばして中原と張り合った。
こまかい地名とその胡注は見ません。
帝乃為佗親塚在真定者置守邑,歲時奉祀;召其昆弟,尊官、厚賜寵之。復使陸賈使南越,賜佗書曰:「朕,高皇帝側室之子也,棄外,奉北籓於代。道里遼遠,壅蔽樸愚,未嘗致書。高皇帝棄群臣,孝惠皇帝即世;高后自臨事,不幸有疾,諸呂為變,賴功臣之力,誅之已畢,朕以王、侯、吏不釋之故,不得不立。今即位。乃者聞王遺將軍隆慮侯書,求親昆弟,請罷長沙兩將軍。朕以王書罷將軍博陽侯;親昆弟在真定者,已遣人存問,修治先人塚。前日聞王發兵於邊,為寇災不止。當其時,長沙苦之,南郡尤甚。雖王之國,庸獨利乎!必多殺士卒,傷良將吏,寡人之妻,孤人之子,獨人父母,得一亡十,朕不忍為也。朕欲定地犬牙相入者,以問吏,吏曰:『高皇帝所以介長沙土也。』朕不得擅變焉。今得王之地,不足以為大;得王之財,不足以為富。服領以南,王自治之。雖然,王之號為帝。兩帝並立,亡一乘之使以通其道,是爭也;爭而不讓,仁者不為也。願與王分棄前惡,終今以來,通使如故。」文帝は、趙佗のために真定に守邑をおいて、(趙佗の祖先を)祭祀してあげた。趙佗の昆弟を召して、官職と財物を与えた。陸賈を南越への使者にして、趙佗に文書を与えた。
ぼくは思う。これは、曹丕が孫権にやろうとしたことでは。ちゃんと読みたいので、書き下しに切り替えます。「朕 高皇帝の側室の子なり。外に棄てられ、代に北籓を奉ず。道里 遼遠たりて、壅蔽にして樸愚、未だ嘗て書を致さず。高皇帝 群臣を棄て、孝惠皇帝 世に即く。高后 自ら臨事すれども、不幸にして疾有り。諸呂 變を為す。功臣の力を賴み、之を誅すこと已に畢る。朕 王侯を以て、吏 釈かざるが故に(即位の辞退を許されずに)立たざるを得ず。今 位に即く。乃者 聞くならく、王 將軍たる隆慮侯の書を遺はして、親たる昆弟を求め、長沙の両將軍を罷むことを請ふ。
胡三省はいう。趙佗は真定の人である。親たる昆弟は、みな真定にいるから、来て求めた。呂后7年、趙佗が漢にそむいて長沙を攻めたとき、2人の将軍を配置して、漢は趙佗に備えた。朕 王の書を以て將軍の博陽侯(陳濞)を罷む。親なる昆弟の真定に在る者、已に人を遣りて問ふもの存り、先人の塚を修治す。
ぼくは思う。もし孫権の故郷が北方にあれば、曹丕はこれを修復して、みずから祭って、孫権の帰順を呼びかけただろうなあ。前日 王(趙佗)兵を辺に発して、寇災を為して止まざると聞く。其の時に当たり、長沙 之を苦とし、南郡 尤も甚だし。王の国と雖も、庸(なんぞ)ぞ独り利するや。
師古はいう。越兵が侵掠すると、長沙とどちらも被害を受ける。しかも漢兵が防戦をやるから、越兵も被害を受ける。どちらも利がない。必ず多く士卒を殺し、良き將吏、寡人の妻、孤人の子、獨人の父母を傷つけ、一を得て十を亡ふ。朕 為に忍びず。朕 地を定めて犬牙 相ひ入る者は、以て吏に問はんと欲す。吏曰く、『高皇帝 長沙の土を介(へだ)つ所以なり』と。朕 變を擅ままにするを得ず。今 王の地を得るとも、以て大と為すには足らず。王の財を得るとも、以て富と為すには足らず。領(五嶺)より南を以て服せしめ、王 自ら之を治む。然ると雖も、王の号して帝と為る。両帝 並立すれば、一乗の使の以て其の道を通ずるを亡なふ。是れ争なり、争ひて譲らざるは、仁者の為さざるなり。願はくは王と与に前惡を分け棄て、終に今より以來、使を通じること故の如くせよ」と。
ぼくは思う。漢文帝が、かるく趙佗を脅しているのが良い!
賈至南越,南越王恐,頓首謝罪,願奉明詔,長為籓臣,奉貢職。於是下令國中曰:「吾聞兩雄不俱立,兩賢不並世。漢皇帝,賢天子。自今以來,去帝制、黃屋、左纛。」因為書,稱:「蠻夷大長、老夫臣佗昧死再拜上書皇帝陛下:老夫,故越吏也,高皇帝幸賜臣佗璽,以為南越王。孝惠皇帝即位,義不忍絕,所以賜老夫者甚厚。高后用事,別異蠻夷,出令曰:『毋與蠻夷越金、鐵、田器、馬、牛、羊。即予,予牡,毋予牝。』老夫處僻,馬、牛、羊齒已長。自以祭祀不修,有死罪,使內史籓、中尉高、御史平凡三輩上書謝過,皆不反。又風聞老夫父母墳墓已壞削,兄弟宗族已誅論。吏相與議曰:『今內不得振於漢,外無以自高異。』故更號為帝,自帝其國,非敢有害於天下。高皇后聞之,大怒,削去南越之籍,使使不通。老夫竊疑長沙王讒臣,故發兵以伐其邊。老夫處越四十九年,於今抱孫焉。然夙興夜寐,寢不安席,食不甘味,目不視靡曼之色,耳不聽鐘鼓之音者,以不得事漢也。今陛下幸哀憐,復故號,通使漢如故;老夫死,骨不腐。改號,不敢為帝矣!」陸賈 南越に至る。南越王 恐れ、頓首・謝罪す。明詔を奉り、長く籓臣たりて、貢職を奉ることを願ふ。是に於て国中に令を下して曰く、「吾 両雄 俱に立たず、両賢 世に並ばざると聞く。漢の皇帝、賢なる天子なり。今より以來、帝制・黃屋・左纛を去る」と。
因りて書を為(つく)りて稱す。「蠻夷の大長、老夫たる臣の佗 昧死して再び上書して皇帝陛下に拜す。老夫、故の越吏なり。高皇帝 幸いにも臣の佗に璽を賜り、以て南越王と為す。孝惠皇帝 即位し、義 絶つに忍びず、以て老夫に賜る所 甚だ厚し。高后 用事し、蠻夷を別異し、令を出して曰く、『蛮夷なる越に、金・鐵・田器・馬・牛・羊を与ふるなかれ。即ち予ふるならば、牡(雄牛)を予へ、牝(雌牛)を予ふるなかれ』と。老夫 僻むる處の馬・牛・羊 歯(年齢)は已に長ず。自りて祭祀の修めざるを以て、死罪有り。内史の藩、中尉の高、御史の平凡の三輩をして上書せしめて過を謝すとも、皆 反らず。又 風聞すらく、老夫の父母の墳墓 已に壞削せられ、兄弟・宗族 已に誅論せらる。吏相 与に議して曰く、『今 内は漢よりも振ふことを得ず、外は以て自ら高異すること無し』と。故に号を更めて帝と為し、自ら其の国に帝たる。敢へて天下に害有るに非ず。高皇后 之を聞き、大怒して、南越の籍を削去し、使をして通ぜしめず。老夫 竊かに長沙王の讒臣なるを疑ひ、故に兵を發して以て其の辺を伐つ。
なーにを言ってるんだw老夫 越に處ること四十九年、今 孫を抱く。然るに夙に興き夜に寐ね、寢れども席を安ぜず、食へども味を甘しとせず。目は靡曼の色を視ず、耳は鐘鼓の音を聽かず。以て漢に事ふるを得ざればなり。今 陛下 幸いにも哀憐し、故の号を復し、漢に使を通ずること故の如くす。老夫 死すれども骨 腐らず。号を改めて、敢へて帝と為ざるか」と。
呂太后はしめつけたから反発したけど、漢文帝が優しいなら、自立するのは辞めます。という、口先での恭順。
齊哀王襄薨。
上聞河南守吳公治平為天下第一,召以為廷尉。吳公薦洛陽人賈誼,帝召以為博士。是時賈生年二十餘。帝愛其辭博,一歲中,超遷至太中大夫。賈生請改正朔,易服色,定官名,興禮樂,以立漢制,更秦法。帝謙讓未遑也。齊哀王の劉襄が薨じた。
文帝は、河南守の吳公による統治が天下第一だと聞いて、召して廷尉とした。吳公は、洛陽の人の賈誼を薦めたので、文帝は賈誼を召して博士とした。このとき賈誼は年20余歳。文帝は、賈誼の博識を愛して、1年のうちに太中大夫まで引き上げた。賈誼は、「正朔を改め、服色を易え、官名を定め、禮樂を興せ。漢制を立て、秦法を改めろ」と言った。文帝は謙譲して、まだ着手しない。
ぼくは思う。「正朔と服色を、即位の直後に改める」というのは、デフォルトではない。曹丕が、漢魏革命の直後に、正朔と服色をすぐに変えなかったのは、漢文帝と同じ。
まだ漢文帝の段階では、徐々に秦制をのぞいていくとき。王朝の交代は、何月何日の何時何分何秒に、ぴたっと行われるわけじゃない。こんな当然のことも、見えなくなっている自分にガッカリだよ。
正朔と服色の変遷について、447頁。
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- 前二年(前178)賈山、袁盎、賈誼の言説
冬、
冬十月,曲逆獻侯陳平薨。
詔列侯各之國,為吏及詔所止者,遣太子。
十一月,乙亥,周勃復為丞相。
癸卯晦,日有食之。詔:「群臣悉思朕之過失及知見之所不及,匄以啟告朕。及舉賢良、方正、能直言極諫者,以匡朕之不逮。」因各敕以職任,務省繇費以便民,罷衛將軍。太僕見馬遺財足,餘皆以給傳置。冬10月、曲逆獻侯の陳平が薨じた。
詔して、諸侯に封国にゆかせた。吏となった者や(文帝がとくに恩愛して)詔により(長安に留めた者は、本人の代わりに)太子を封国にゆかせた。
周勃は長安にのこり、子を就国させたようです。11月乙亥、周勃がふたたび丞相となる。
癸卯みそか、日食あり。詔した。「群臣は、私の過失や、知見の及ばないところに気をかけ、指摘してくれ。賢良・方正と、直言・極諫できる者をあげて、私の及ばない所を正してくれ」と。民の負担、軍備を軽くした。太僕は、馬の飼育にあまった財物があるので、それを(長安から出して)駅伝に配置した。
賈山が秦を反面教師にせよと説く
穎陰侯騎賈山上書言治亂之道曰:
「臣聞雷霆之所擊,無不摧折者;萬鈞之所壓,無不糜滅者。今人主之威,非特雷霆也;執重,非特萬鈞也。開道而求諫,和顏色而受之,用其言而顯其身,士猶恐懼而不敢自盡;又況於縱欲恣暴、惡聞其過乎!震之以威,壓之以重,雖有堯、舜之智,孟賁之勇,豈有不摧折者哉!如此,則人主不得聞其過,社稷危矣。穎陰侯の騎たる賈山 上書して治亂の道を言ひて曰く、
「臣 聞く。雷霆の撃つ所、摧折せざる者無し。萬鈞の圧す所、糜滅せざる者無し。今 人主の威,雷霆を特とするに非ず。重を執ること、萬鈞を特とするに非ず(文帝のほうが万能である)。道を開きて諫を求め、顏色を和ませて之を受うく。其の言を用ゐて其の身に顯はすとも、士 猶ほ恐懼して敢へて自盡せず。又 況んや縱欲・恣暴して、其の過を惡聞するをや。
文帝は万能だから、いくら「私の欠点を指摘せよ、聞き入れるから」と言ったところで、本音を言えるはずがないのだと。之を震はすに威を以てし、之を圧すに重を以てす。堯舜の智、孟賁の勇有ると雖も、豈に摧折せざる者有らんや。此の如くんば、則ち人主 其の過を聞くことを得ず、社稷 危ふし。
だれも本音を言わないから、君主はつねに裸の王様。
昔者周蓋千八百國,以九州之民養千八百國之君,君有餘財,民有餘力,而頌聲作。秦皇帝以千八百國之民自養,力罷不能勝其役,財盡不能勝其求。一君之身耳,所自養者馳騁弋獵之娛,天下弗能供也。秦皇帝計其功德,度其後嗣世世無窮;然身死才數月耳,天下四面而攻之,宗廟滅絕矣。秦皇帝居滅絕之中而不自知者,何也?天下莫敢告也。其所以莫敢告者,何也?亡養老之義,亡輔弼之臣,退誹謗之人,殺直諫之士。是以道諛、媮合苟容,比其德則賢於堯、舜,課其功則賢於湯、武;天下已潰而莫之告也。昔者 周 千八百国を蓋ひ、九州の民を以て千八百国の君を養ふ。君 餘財有り、民 餘力有りて、聲作を頌す。
秦皇帝 千八百国の民を以て自ら養ひ、力 罷みて其の役に勝ふ能はず、財 盡きて其の求に勝ふ能はず。一君の身のみ、自ら養ふ所 馳騁・弋獵の娯にして、天下 能く供することなし。秦皇帝 其の功德を計り、其の後嗣の世世 無窮たるを度る。然るに身 死して数月ばかりのみ、天下 四面より之を攻め、宗廟 滅絶す。孝秦皇帝 滅絕の中に居りて自ら知らざるは、何ぞや。天下 敢へて告げざるなり。其の敢へて告ぐる者莫き所以は、何ぞや。養老の義を亡し、輔弼の臣を亡し、誹謗の人を退け、直諫の士を殺せばなり。是を以て道諛・媮合なるもの苟容し、其の德を比して則ち堯舜よりも賢にして、其の功を課して則ち湯武よりも賢なりとす。天下 已に潰へども之に告ぐるもの莫し。
始皇帝が「オレ完璧」と思い込んだので、だれも警告しなかった。
今陛下使天下舉賢良方正之士,天下皆欣欣焉曰:『將興堯舜之道、三王之功矣。』天下之士,莫不精白以承休德。今方正之士皆在朝廷矣;又選其賢者,使為常侍、諸吏,與之馳驅射獵,一日再三出。臣恐朝廷之解馳,百官之墮於事也。陛下即位,親自勉以厚天下,節用愛民,平獄緩刑;天下莫不說喜。臣聞山東吏布詔令,民雖老羸癃疾,扶杖而往聽之,願少須臾毋死,思見德化之成也。今功業方就,名聞方昭,四方鄉風而從;豪俊之臣,方正之士,直與之日日獵射,擊兔、伐狐,以傷大業,絕天下之望,臣竊悼之。古者大臣不得與宴遊,使皆務其方而高其節,則群臣莫敢不正身修行,盡心以稱大體。夫士,修之於家而壞之於天子之廷,臣竊愍之。陛下與眾臣宴遊,與大臣、方正朝廷論議,游不失樂,朝不失禮,議不失計,軌事之大者也。」今 陛下 天下をして賢良・方正の士を舉げしむ。天下 皆 焉に欣欣として曰く、『將に堯舜の道、三王の功を興さん』と。天下の士、精白して以て休德を承けざるもの莫し。今 方正の士 皆 朝廷に在り。又 其の賢なる者を選び、常侍・諸吏に為らしめ、之と与に馳驅・射獵し、一日に再三 出づ。臣 朝廷の馳に解(ゆる)み、百官の事に墮つるを恐るなり。
陛下 即位し、親ら自ら勉めて以て天下を厚くし、用を節して民を愛し、獄を平げて刑を緩む。天下 説喜せざる莫し。臣 聞く、山東の吏 詔令を布けば、民 老羸・癃疾と雖も、扶杖して往きて之を聽き、少かに須臾も死せざるを願み、德化の成を見んと思ふ。
ただのヘツライじゃないのか?これ。つぎに続く、文帝と臣下が遊猟することを、諫めるための準備か。はじめに心地の良いことを言い、「惜しいなあ。遊猟さえなければ、完璧なのにな」と、本題を押し込むパターンだ。今 功業 方に就き、名聞 方昭たりて、四方 郷風して從ふ。豪俊の臣、方正之士、直に之と与に日日獵射し、兔を撃ち、狐を伐ち、以て大業を傷ね、天下の望みを絶つ。臣 竊かに之を悼む。古者の大臣 宴遊を与にするを得ず、皆 其の方に務めて其の節を高めしむ。則ち群臣 敢へて不身を正して行を修むるもの莫く、心を尽して以て大體を稱ふ。夫士、之を家に修めども之を天子の廷に壞す。臣 竊かに之を愍れむ。陛下 衆臣と与に宴遊し、大臣・方正と与に朝廷にて論議せよ。游びて樂を失はず、朝 禮を失はず、議 計を失はず。事の大なるに軌れ」と。
上嘉納其言。
上每朝,郎、從官上書疏,未嘗不止輦受其言。言不可用置之,言可用采之,未嘗不稱善。上 其の言を嘉納す。
上 朝するごとに、郎・從官 書疏を上す。未だ嘗て輦を止めて其の言を受けざることなし。言 用ゐる可からざれば之を置き、言 用ゐる可きは之を采る。未だ嘗て善を稱へずんばあらず。
めっちゃ名君だなあ。曹丕が即位してから、尭にならって、諫言を吸い上げる仕組みをつくれと詔を出すが、漢文帝を踏まえたものとわかる。
袁盎が、文帝のわがままを諫める
帝從霸陵上欲西馳下峻阪。中郎將袁盎騎,並車攬轡。上曰:「將軍怯邪?」盎曰:「臣聞『千金之子,坐不垂堂』。聖主不乘危,不徼幸。今陛下騁六飛馳下峻山,有如馬驚車敗,陛下縱自輕,奈高廟、太后何!」上乃止。文帝は、霸陵(京兆)の上から、西に馳せて峻阪を下りたい。
アップダウンの激しい道を、馬車で遊びたいらしい。中郎將の袁盎は騎乗して、文帝の馬車に並走した。文帝「将軍はひるんだか」と。袁盎「私が聞くには、『千金の子、垂堂に坐せず』と。
師古はいう。富人の子は、自愛する。「垂堂」とは、坐道の外辺のことで、墜落するリスクがある。そういう危ないところに坐らないと。聖主 危ふきに乗ぜず、幸に徼せずと。いま陛下が危険な山道を駆けおりて、馬が驚いて車が壊れたら、陛下は自分を粗末にしたことになる。高廟や太后のことをどうするのか」と。文帝は駆け下りるのを辞めた
ぼくは思う。漢文帝にもこんな人間味が!
上所幸慎夫人,在禁中常與皇后同席坐。及坐郎置,袁盎引卻慎夫人坐。慎夫人怒,不肯坐;上亦怒,起,入禁中。盎因前說曰:「臣聞『尊卑有序,則上下和』。今陛下既已立后,慎夫人乃妾。妾、主豈可與同坐哉!且陛下幸之,即厚賜之。陛下所以為慎夫人,適所以禍之也。陛下獨不見『人彘』乎!」於是上乃說,召語慎夫人,慎夫人賜盎金五十斤。文帝は、慎夫人を寵愛した。禁中でも、慎夫人を皇后と同席させた。袁盎が別に席を設けて、慎夫人を移したい。慎夫人は怒り、別の席に移動しない。文帝は怒って、禁中に入ろうとした。
袁盎は文帝の前で説いた。「私が聞くには、『尊卑 序有れば、則ち上下 和す』と。今 陛下 既に已に后を立つ。慎夫人 乃ち妾なり。妾・主(夫人と皇后)豈にともに坐を同じくするや。且つ陛下 之を幸し、即ち厚く之に賜ふ。陛下 以て慎夫人に為す所、適 之に禍いとする所以なり。陛下 独り『人彘』を見ざるや」と。
文帝は袁盎に説得され、慎夫人を召して(皇后とは違う席に座ってくれと)話した。慎夫人は袁盎に、金五十斤を賜った。
賈誼が『管子』から経済政策を述べる
賈誼說上曰:
「《管子》曰:『倉廩實而知禮節,衣食足而知榮辱。』民不足而可治者,自古及今,未之嘗聞。古之人曰:『一夫不耕,或受之饑;一女不織,或受之寒。』生之有時而用之亡度,則物力必屈。古之治天下,至纖至悉,故其畜積足恃。今背本而趨末者甚眾,是天下之大殘也!淫侈之俗,日日以長,是天下之大賊也!殘、賊公行,莫之或止;大命將泛,莫之振救。生之者甚少而靡之者甚多,天下財產何得不厥。賈誼 上に説きて曰く、
「『管子』曰く、『倉廩 実ちて禮節を知り、衣食 足りて榮辱を知る』と。民 足らずして治むる可きは、古より今に及ぶまで、未だ嘗て聞かず。古の人曰く、『一夫 耕さざれば、或ひと之に饑を受く。一女 織らざれば、或ひと之に寒を受く』と。生の時有りて之を亡度に用ゐれば、則ち物力 必ず屈す。古の天下を治むるに、纖に至りて悉に至り、故に其の畜積 恃むに足る。今 本に背きて末に趨る者 甚だ衆し。是れ天下の大残なり。淫侈の俗、日日以て長ず。是れ天下の大賊なり。残・賊 公行すれば、之を或止する莫し。大命 將に泛きんとし、之を振救すること莫し。生くる者 甚だ少なくして之に靡く者 甚だ多く、天下の財産 何ぞ厥かざるを得るか。
みんな耕作や織布をサボるから、天下の総体で財産が不足すると。
漢之為漢,幾四十年矣,公私之積,猶可哀痛。失時不雨,民且狼顧;歲惡不入,請賣爵子。既聞耳矣,安有為天下阽危者若是而上不驚者!
世之有饑、穰,天之行也;禹、湯被之矣。即不幸有方二三千里之旱,國胡以相恤?卒然邊境有急,數十百萬之眾,國胡以饋之?兵、旱相乘,天下大屈,有勇力者聚徒而衡擊,罷夫、羸老,易子上咬其骨。政治未畢通也,遠方之能僭擬者並舉而爭起矣;乃駭而圖之,豈將有及乎!夫積貯者,天下之大命也。苟粟多而財有餘,何為而不成!以攻則取,以守則固,以戰則勝,懷敵附遠,何招而不至!漢の漢と為りて、四十年に幾し。公私の積、猶ほ哀痛す可し。時を失へば雨ふらず、民 且に狼顧す。歲 惡しくて入らず、爵・子を売らんと請ふ。既に耳に聞こゆ。安(いづく)にか天下の為に阽危(失墜)する者有ること是の若くして、上 驚かざるか。
みんな貯蓄できずヘトヘトなのに、漢文帝は気にかけないのかと。世の饑・穰(飢饉と豊穣)有るは、天の行なり。禹・湯も之に被る。即ち不幸にして方二三千里の旱有れば、国 胡ぞ以て相ひ恤ふや。卒然として邊境に急有れば、十百萬の衆を數へ、国 胡ぞ以て之に饋するや。兵・旱 相ひ乗じ、天下 大いに屈し、勇力有る者 徒を聚めて衡擊す。
日照による不作と、国境の軍事が同時に起きてしまえば、どんな名君であっても、国を保つことが難しい。夫を罷め、老を羸へしめ、子を易へて其の骨を上咬す。政治 未だ通ずることを畢へず。遠方の能く僭擬する者 並びに舉ちて爭起す。乃ち駭きて之を圖れば、豈に將に及ぶこと有らんか。
貯蓄がないと、もう滅ぶしかない。夫れ貯を積むは、天下の大命なり。苟しくも粟 多くして財 餘有れば、何為(なんす)れぞ成らざるか。攻を以て則ち取り、守を以て則ち固め、戰を以て則ち勝ち、敵を懷けて遠きを附せしめ、何ぞ招きて至らざるか。
貯蓄があれば、なんでもできる。
今驅民而歸之農,皆著於本。使天下各食其力,末技、游食之民轉而緣南晦則畜積足而人樂其所矣。可以為富安天下,而直為此廩廩也,竊為陛下惜之!」
上感誼言,春,正月,丁亥,詔開藉田,上親耕以率天下之民。今 民を驅りて之を農に歸せしめ、皆 本を著にせよ。天下をして各々其のを食はしめ、末技・游食の民 轉りて南晦に緣らしむれば、則ち積足を畜へて、人 其の所を楽しむ。以て富の為に天下を安ずべし。而して直ちに此の廩廩たるや、竊かに陛下の為に之を惜しむ」と。
農業をせずにサボっている民を総動員して、農業に携わらせれば、天下に貯蓄ができるのになあと。最後は、思わせぶりに、一歩だけ引いたw上 誼の言に感ず。春正月丁亥、詔して藉田を開く。上 親ら以て天下の民を率ゐて耕す。
三月,有司請立皇子為諸侯王。詔先立趙幽王少子辟強為河間王,硃虛侯章為城陽王,東牟侯興居為濟北王;然後立皇子武為代王,參為太原王,揖為梁王。3月、有司は文帝の皇子を、諸侯王に立てろと要請した。詔して、先に(文帝系ではない)趙幽王の少子の劉辟強を河間王として、朱虚侯の劉章を城陽王として、東牟侯の劉興居を済北王とした。
赤眉と曹操の関与する「城陽王の劉章」が誕生した。その後で、皇子の劉武を代王に、劉参を太原王に、劉揖を梁王とした。
五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌,誹謗之木,所以通治道而來諫者也。今法有誹謗、妖言之罪,是使眾臣不敢盡情而上無由聞過失也,將何以來遠方之賢良!其除之!」5月、詔した。「古代において天下を治めるとき、朝廷には、進善の旌、誹謗の木があった。
どちらも尭がつくった。453頁。正しい統治の方法を行い、諫める者を来させるためである。いまの法には、誹謗・妖言の罪がある。この法のせいで、衆臣は心情をつくした発言をできず、遠方から賢良が来られなくなっている。この法を除け」と。
九月,詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也;而民或不務本而事末,故生不遂。朕憂其然,故今茲親率群臣農以勸之;其賜天下民今年田租之半。」
燕敬王澤薨。9月、詔した。「農業は、天下の大本であり、民が生きるための拠り所である。しかし農業に務めず、寿命まで生きられない民がいる。私はこれを憂う。みずから郡臣をひきいて、勧農をやろう。天下の民に、今年の田租の半分を返却せよ」と。
燕敬王の劉沢が薨じた。140614
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