05) 易京で5年間、袁紹を献帝から遠ざける
劉虞と袁紹のことが気になるので、公孫瓚伝をやります。
195年、易京にこもり、袁紹を献帝から隔離
英雄記曰:瓚諸將家家各作高樓,樓以千計 。瓚作鐵門,居樓上,屏去左右,婢妾侍側,汲上文書。
公孫瓚が籠もった。袁紹は、連年しても抜けず。公孫瓚は、懐かしんだ。「むかしは天下をとれると思ったのに」と。『英雄記』も、籠城を伝える。
盧弼は、趙一清をひく。龍河とは、龍湊である。渤海の境界にあるだろう。のちに袁譚は、龍湊で曹操に攻められ、平原をぬけ、南皮ににげた。平原の境界にあるだろう。
視野をひろげる。
ぼくは思う。袁紹が易京を攻めているあいだに、曹操が献帝奉戴した。曹操は袁術と連戦し、張繍との二面作戦をこなし、呂布を片づけた。曹操の大躍進のあいだ、袁紹は、易京を攻略していた。
強引につなぐと、皮肉な因果が浮かび上がる。公孫瓚は、献帝を重んじた。この思いは、曹操を介して、実現された。もし袁紹が献帝をつかまえたら、適当に名目をつけて、廃位していただろう。だが公孫瓚が袁紹をひきつけたので、袁紹は献帝を得られなかった。袁紹が献帝をねらうのは200年以降だ。これが官渡の戦い。
もし袁術が献帝をつかまえたら、みずからの皇帝即位を完成させただろう。だが袁紹が動けないので、曹操が縦横無尽にうごき、袁術を叩いた。
さすがに、「曹操に献帝を保護させるため、公孫瓚は易京に籠もった」とは、言えません。公孫瓚ならば、自分で献帝を奉戴したいだろう。でも結果的には、風が吹いて桶屋がもうかる方式で、公孫瓚のおかげさまで献帝は寿命を全うした。
199年春、公孫瓚の最期
建安四年(199年)、袁紹は公孫瓚をすべて包囲した。
公孫瓚は、黒山(張燕)に、救いをもとめた。公孫瓚は西山にでて、黒山をつれて、冀州で袁紹のうしろを分断したい。
ぼくは補う。ちくま訳は「西南の山岳地帯」と言っているが、これは違う。ちくま訳は、『三国志集解』を見ずに訳されたみたいですね。
長史の関靖は言った。「公孫瓚さんが、易京を出てはいけない」と。ついに公孫瓚は、易京を出なかった。
『英雄記』はいう。関靖は、太原の人だ。酷吏である。へつらい、大謀がない。公孫瓚に信幸された。
ニセクロさんによれば、出撃しないと、公孫瓚の構想は実現しない。いつ出て、いつ出ないのか、加減がむずかしいなあ。黒山の勢力範囲を地図に落としたら、なにか分かるかも。
典略曰:瓚遣行人文則齎書告子續曰:「袁氏之攻,似若神鬼,鼓角鳴於地中,梯沖舞吾樓上。日窮月蹴,無所聊賴。汝當碎首於張燕,速致輕騎,到者當起烽火於北,吾當從內出。不然,吾亡之後,天下雖廣,汝欲求安足之地,其可得乎!」
獻帝春秋曰:瓚夢薊城崩,知必敗,乃遣間使與續書。紹候者得之,使陳琳更其書曰:「蓋聞在昔衰周之世,僵戶流血,以為不然,豈意今日身當其沖!」其餘語與典略所載同。
公孫瓚さんは、公孫続に手紙をもたせ、狼煙で応じる約束にした。
『典略』はいう。公孫瓚は公孫続に「張燕と結ばないと、生き残れない」と言った。
『献帝春秋』はいう。公孫瓚は、易京がくずれる夢を見た。公孫瓚は、公孫続に手紙をもたせた。袁紹は陳琳に、手紙を書き換えさせた。公孫瓚の手紙の言葉は、『典略』とおなじだ。
梁商鉅や何焯らが言うには、陳琳が手紙を書き換えたりしない。ぼくは思う。先人が『漢晋春秋』のデタラメぶりを、あばいてくれたので、安心して却下することができる。笑
英雄記曰:袁紹分部攻者掘地為道,穿穴其樓下,稍稍施木柱之,度足達半,便燒所施之柱,樓輒傾倒。
漢晉春秋曰:關靖曰:「吾聞君子陷人於危,必同其難,豈可獨生乎!」乃策馬赴紹軍而死。紹悉送其首於許。
袁紹は狼煙で、公孫瓚をだました。袁紹は地下道をほった。公孫瓚は、妻子を殺して、自殺した。
『英雄記』はいう。袁紹は、地下道をほった。
『漢晋春秋』はいう。関靖は道連れになり、許都にクビを運ばれた。
『後漢書』公孫瓚は、関靖の死をくわしく伝える。
胡三省はいう。公孫瓚の計略と、陳宮の計略は、おなじだ。陳宮のただしい計略(出撃する)を、呂布は用いなかった。公孫瓚のただしい計略(出撃する)を、関靖がとめた。ただしい計略を用いるのは、むずかしいと。
盧弼はいう。公孫瓚のクビは、詔書で賞金がかかっていた。ぼくは思う。「袁紹が公孫瓚を滅ぼして、戦果を献帝におくる」という構図が、おもしろい。しかし、さっき陳琳に関してウソをあばかれた、『漢晋春秋』である。がっかり!
おまけの鮮于輔伝、閻柔伝
鮮於輔將其眾奉王命。以輔為建忠將軍,督幽州六郡。太祖與袁紹相拒於官渡,閻柔遣使詣太祖受事,遷護烏丸校尉。而輔身詣太祖,拜左度遼將軍,封亭侯,遣還鎮撫本州。
鮮于輔は、王命をたてまつり、兵をひきいた。
胡三省はいう。鮮于輔は、鄒丹を斬って、漁陽太守となった。
ぼくは思う。公孫瓚が敗れて、その空白を鮮于輔が埋めた。田豫は、鮮于輔の部下だ。鮮于輔、すごいなあ。ちくま訳の索引で、「鮮于氏」を網羅したくなってきた。
鮮于輔は、建忠將軍となり、幽州の6郡を督した。
曹操と袁紹が、官渡で戦った。閻柔は、曹操のもとに使者をよこした。閻柔を護烏丸校尉にうつす。鮮于輔は、みずから曹操をもうで、左度遼將軍となり、亭侯に封じられる。故郷にもどり、鎮撫をまかされる。
ぼくは思う。鮮于輔も閻柔も、公孫瓚の敵だった。公孫瓚の滅亡後、現地を収集した。公孫瓚の敵・袁紹と、仲よくなっても良さそうだが。はやくから曹操にしたがった、めずらしい例だから、曹魏で昇進したのかな。
盧弼はいう。後漢の度遼将軍は、南匈奴をまもり、西河におかれた。いま鮮于輔は幽州にもどり、右度遼将軍になった。中原から見ると、西河は左で、幽州は右である。ぼくは補う。陳寿は、左右をまちがえた。
魏略曰:輔從太祖於官渡。袁紹破走,太祖喜,顧謂輔曰:「如前歲本初送公孫瓚頭來,孤自視忽然耳,而今克之。此既天意,亦二三子之力。」
『魏略』はいう。鮮于輔は、官渡で曹操にしたがった。袁紹を破ると、曹操は鮮于輔を振りかえる。「前年、袁紹が公孫瓚のクビを送ってきたとき、見つめるだけだった。いま袁紹に勝った。天意と、二三人(鮮于輔?)の力でもある」
太祖破南皮,柔將部曲及鮮卑獻名馬以奉軍,從征三郡烏丸,以功封關內侯。
曹操は、南皮で袁氏を破った。閻柔は鮮卑をひきい、烏丸の征伐のしたがう。閻柔は、関内侯に封じられた。
魏略曰:太祖甚愛閻柔,每謂之曰:「我視卿如子,亦欲卿視我如父也。」柔由此自讬於五官將,如兄弟。
『魏略』はいう。曹操は閻柔を愛した。「私を父だと思え」と言った。曹丕と兄弟のようだった。
輔亦率其眾從。文帝踐阼,拜輔虎牙將軍,柔度遼將軍,皆進封縣侯。位特進。
鮮于輔も、兵をひきいて、曹操の烏丸征伐にしたがう。曹丕が即位すると、鮮于輔は、虎牙將軍となる。閻柔は、度遼將軍となる。鮮于輔と閻柔は、どちらも縣侯に封じられ、特進となる。
公孫瓚伝、終わりました。史料を読むのは、やはり楽しい。戦闘のところが、ザツですみません。公孫瓚が、袁紹と袁術の戦いの導火線となったことに、気づけたのが、いちばんの収穫です。劉虞が、董卓と戦うための関東のトップだとか、195年がポスト董卓体制の完成&崩壊の時期とか、ほんとうに袁紹は易京攻略に時間がかかったのだなーとか。そのあたりが感想です。110321