董承の史料から、曹操の献帝奉戴の前後を知る
董承について、冒頭で考察、それ以降は史料を網羅。
袁術を見棄てて、曹操に乗り換えた張本人
董承が長安を脱出したとき、袁術こそ、関東でもっとも有力な保護者だと、見なしていた。だから董承は袁術とむすび、曹洪をふせいだ。
董承が、楊奉&韓暹と仲がよいとき、袁術派と見てよい。楊奉&韓暹は、一貫した袁術の同盟者だからです。昨日やりました。
楊奉と韓暹は、献帝をうつし、董卓の代替政権をめざした
董承は、楊奉&韓暹とむすび、李傕&郭汜と戦った。「董卓の残党 vs 袁術の同盟者」は、190年の対立構造の延長だ。董卓がらみと戦うならば、袁術がもっとも頼りになる。これは自然な発想だ。
だが董承は、とちゅうで袁術を見限る。196年の1月か2月、韓暹が横暴だから、董承は韓暹と仲たがいした。
袁術は、ゆるゆるの寛治主義者だと思う。軍令を行き届かせることが、袁術は苦手。韓暹のあばれっぷりは、袁術の責任でもある。董承は、韓暹のふるまいを見て、袁術に失望した。
しかも袁術は、曹操に豫州をうばわれたばかり。袁術の寿春から洛陽は、地理的に分断された。董承は、袁術から曹操に乗り換えた。
董承は、献帝の祖母のおいで、かつ献帝の妻の父だ。献帝と董氏の安全をいちばんに考えたとき、袁術をやめ、曹操を選んだのだろう。
董承は曹操に、護衛兵としての役割だけを期待した
袁術の急落と、曹操の急上昇を、董承は見ぬいた。献帝がいたから、曹操は躍進したのではない。袁術から豫州をうばって、現在進行形で躍進していたから、曹操は、献帝を手に入れたのだと思う。
ただし、ぼくは思う。董承は曹操を、護衛兵としか思っていなかった。政治家としての手腕を、期待していなかった。
なぜなら曹操は、安定支配の実績がない。
兗州は、平定した直後に、陳宮にひっくり返された。呂布と、泥沼した。徐州は、虐殺だけして帰ってきた。
たまたま曹操は、洛陽にちかい豫州で、人生でいちばん勝っているとき、董承に目をつけてもらえた。きわめて際どい、偶然である。
だが豫州の人士は、曹操に心服してない。官渡のとき、許都の周囲だけのこし、すべて袁紹になびいてしまった。となると。196年を指して「袁術の影響力を、豫州から駆逐した」というのは、曹操の過大評価、史料の単純化である。袁氏の本拠・汝南郡が、カンタンに落ちるわけがない。
曹操が局地戦で、たまたま連勝してただけ。
長安を出てから、
献帝は、命すら危なかった。いくら曹操が「ちょっと戦争がうまいだけの転戦将軍」だとしても、命を守るには役立つ。いやむしろ、目先の戦いがうまい人こそ、ほしい。曹操に、広域を安定支配する力量がなくてもよい。
献帝を奉戴した曹操は、李傕や張楊と同レベルでイメージすべきだ。潁川だけをおさえた点の軍事集団にすぎない。
護衛兵のくせに、政治に出しゃばった曹操を殺す
曹操は、袁紹からの独立をもくろんでいる。このとき曹操は、潁川の荀彧を頼りにして、スタートを切った。
袁紹が曹操から官位を与えられて怒ったのは、官位が曹操の下だったからではない。
曹操が、李傕ごっこを始めたので、怒ったのだ。
すでに書いたように、董承は曹操を、ただの護衛兵として採用した。政治を期待しない。むしろ曹操が政治に口を出したら、ジャマである。
これが、董承の曹操暗殺計画の真意だ。ぼくは、そう思っています。
以下、史料。
『後漢書』献帝本紀
(195年)秋七月甲子,車駕東歸.郭汜自為車騎將軍,楊定為後將軍,楊奉為興義將軍,董承為安集將軍,並侍送乘輿.張濟為票騎將軍,還屯陝.(中略)
(十一月)壬申,幸曹陽,露次田中.[四]楊奉、董承引白波帥胡才、李樂、韓暹及匈奴左賢王去卑,率師奉迎,與李傕等戰,破之.
(196年)二月,韓暹攻將軍董承.
(196年六月)辛亥,鎮東將軍曹操自領司隸校尉,錄尚書事.曹操殺侍中臺崇、尚書馮碩等.[一]封衛将軍董承為輔國將軍伏完等十三人為列侯,贈沮為弘農太守.
(199年三月)衛将軍董承為車騎將軍.
五年春正月,車騎將軍董承、偏將軍王服、越騎校尉种輯受密詔誅曹操,事洩.壬午,曹操殺董承等,夷三族.
董承の発覚が、袁術の死の翌年というのが、気になる。曹操は、袁術という外敵が減ったので、内側を整理したのだろうか。
『後漢書』伏皇后本紀
(興平二年に曹陽で)后手持縑數匹,董承使符節令孫徽以刃脅奪之,殺傍侍者,血濺后衣.
董承女為貴人,操誅承而求貴人殺之.
『後漢書』趙岐伝
興平元年,詔書徵岐,會帝當還洛陽,先遣將軍董承修理宮室.岐謂承曰:「今海內分崩,唯有荊州境廣地勝,西通巴蜀,南當交阯,年穀獨登,兵人差全.岐雖迫大命,猶志報國家,欲自乘牛車,南說劉表,可使其身自將兵來朝廷,與將軍并心同力,共王室.此安上救人之策也.」承即表遣岐使荊州,督租糧.岐至,劉表即遣兵詣洛陽助修宮室,軍資委輸,前後不絕.
『後漢書』董卓伝
又以故牛輔部曲董承為安集將軍.
李傕、郭汜既悔令天子東,乃來救段煨,因欲劫帝而西,楊定為汜所遮,亡奔荊州.而張濟與楊奉﹑董承不相平,乃反合傕﹑汜,共追乘輿,大戰於弘農東澗.承﹑奉軍敗,百官士卒死者不可勝數,皆其婦女輜重,御物符策典籍,略無所遺.
連立政権の仲たがいを、野党に突かれたかたち。
爭赴舡者,不可禁制,董承以戈擊披之,斷手指於舟中者可掬.同濟唯皇后、宋貴人、[五]楊彪、董承及后父執金吾伏完等數十人.其宮女皆為傕兵所掠奪,凍溺死者甚.
伏完がどんな立場か、調べねば。
楊彪のうごきも、あやしい。四世三公で、袁術と親戚だ。楊彪が献帝のそばにいて、袁術の軍事力をたよるために、東遷させたのではないか?
建安元年春,諸將爭權,韓暹遂攻董承,承奔張楊,楊乃使承先繕修洛宮.(中略)
乃以張楊為大司馬,楊奉為車騎將軍,韓暹為大將軍,領司隸校尉,皆假節鉞.暹與董承並留宿.
暹矜功恣睢,[一]干亂政事,董承患之,潛召兗州牧曹操.操乃詣闕貢獻,稟公卿以下,因奏韓暹、張楊之罪.暹懼誅,單騎奔楊奉.帝以暹、楊有翼車駕之功,詔一切勿問.於是封將軍董承、輔國將軍伏完等十餘人為列侯,贈沮為弘農太守.
四年,張楊為其將楊醜所殺.[一]以董承為車騎將軍,開府.
自都許之後,權歸曹氏,天子總己,百官備員而已.帝忌操專偪,乃密詔董承,使結天下義士共誅之.承遂與劉備同謀,未發,會備出征,承更與偏將軍王服、長水校尉种輯、議郎吳碩結謀.事泄,承、服、輯、碩皆為操所誅.
『三国志』武帝本紀
太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進.
ぼくが袁術-董承の同盟を想定するなら、これが根拠となる。だがのちに、董承は曹操に味方する。195年までの袁術の隆盛と、196年からの袁術の落目を、目ざとく見ぬいたんだろう。
昨日、楊奉&韓暹は、東遷したあとの安全を、袁術から保障されていることを、指摘しました。袁術-楊奉&韓暹は強固。董承は「韓暹が乱暴です」を口実にして、袁術を切り捨て、曹操をえらんだ。つながった!
楊奉と韓暹は、献帝をうつし、董卓の代替政権をめざした
備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛.遣劉岱﹑王忠擊之,不克.
劉備の出発と、袁術の死は、偶然タイミングが合ったのか?
五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅.
十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡,發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法.
『三国志』董卓伝、張楊伝、董昭伝、徐晃伝ははぶく。
楊奉と韓暹のとき、すでに、おなじ部分を読んでいます。
『三国志』先主伝
先主未出時,獻帝舅車騎將軍董承[一]辭受帝衣帶中密詔,當誅曹公.先主未發.是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄,唯使君與操耳.本初之徒,不足數也.」先主方食,失匕箸.[二]遂與承及長水校尉种輯﹑將軍吳子蘭﹑王子服等同謀.會見使,未發.事覺,承等皆伏誅.[三]
臣松之案:董承,漢靈帝母董太后之姪,於獻帝為丈人.蓋古無丈人之名,故謂之舅也.
近親相姦とまではいかないが、霊帝の家に密着した一族だとわかる。霊帝は、桓帝に子がいないから、外から迎えられた。その意味で、霊帝-献帝にとって、董承は、数少ない身内も同然である。
董卓と同姓だから、董卓とのつながりをいう人もいる。董卓が、董太后がかわいがる、献帝を選んだとか。献帝の正統性は、董卓の敗北によって、190年代前半はゆらぐ。曹操が固めるまで、献帝はゆらぐ。劉虞なんて候補者もいた。霊帝の後継者あらそいは、やたら長引きました。
劉備が漢中王になるとき、漢帝にたてまつったという名目で、長文がでてくる。董承の名前が出てくる。ただ「曹操と戦った人」という記号なので、はぶきます。
『三国志』孫策伝がひく『江表伝』
江表傳曰:策被詔敕,與司空曹公﹑將軍董承﹑益州牧劉璋等并力討袁術﹑劉表.軍嚴當進,會術死,術從弟胤﹑女黄猗等畏懼曹公,不敢守壽春,乃共舁術棺柩,扶其妻子及部曲男女,就劉勳於皖城.
曹操と劉璋にならぶ群雄として、董承が出てきているのがポイント。西晋になると、献帝の外側の曹操、献帝の内側の董承、というイメージが形成されていたか。
史料は、だいたい以上です。おしまい。100902