表紙 > 人物伝 > 楊奉と韓暹は、献帝をうつし、董卓の代替政権をめざした

01) 河東人が、献帝の東遷をたすけた理由

韓暹と楊奉について、史料を網羅して、彼らの戦略を考察します。
中央研究院の検索サイトをつかいました。
曹操の献帝奉戴にからみ、190年代の河東を調べています。

河東太守の王邑についても、近日調べたい。
献帝奉戴をあつかうのは、袁術の動向を調べるためでもあります。


今回の結論:献帝東遷= 并州・河東人の董卓離脱

献帝の東遷に協力した、楊奉ら河東人の目的はなにか。
旧董卓軍からの離脱と、帰郷です。

河東人のほかにも、献帝にしたがい、長安から洛陽にうつった人がいる。楊彪や董承ら、廷臣たち。廷臣の思惑は、また別に考察します。


并州・河東人は、董卓にムリやり編入された。長安ゆきは、不本意。
并州・河東人による、董卓への第一次反乱が、呂布と王允。

上谷浩一氏が、おっしゃっていたんでしたっけ。
并州兵の高齢化がすすんだ。長安にいたのでは、并州兵は、若者を供給できない。たいする涼州兵は、涼州と長安がちかいから、若者を供給可能。并州兵は、涼州兵にくらべて、弱体化した。だから呂布は、暴発した。

董卓さんの殺害には成功したが、60日で李傕と郭汜が制圧。
并州や河東の人は、ふたたび董卓軍のしたに置かれた。失敗した。

第二次反乱が、今から史料を集める、楊奉と韓暹。
李傕と郭汜がモメたのをねらい、長安を脱出。
洛陽は、河東のすぐそば。洛陽-河東-并州とつながる。
「献帝を本拠地のそばに移す」とは、董卓とおなじ戦略だ。

すごい発見をしたのかも知れない。勝手に興奮。笑

丁原-王允-楊奉とつながる并州閥が、
董卓になり代わるのが、献帝東遷の河東人にとっての目的だ。

并州に残りつづけた張楊も、連動しているのだろうか。
ここで自問です。并州と河東を、いっしょにしていいのか。
とりあえず、董卓との関係という面からは、まとめていいと思います。丁原や張楊は、河内兵を連れている。并州から洛陽に南下するルートで、1つの地域的まとまりがあった。大雑把には、これが言えると思う。


河東・并州人の東遷を保障したのは、袁術か

董卓の最大の敵は、袁術&孫堅だ。
だから、并州・河内人は、袁術をたよる。

三公の張温は、董卓から、袁術との内通をうたがわれた。袁術は、長安へのアクセスを、おこたっていないのだろう。
董卓は李傕をつかい、孫堅に官位をバラ撒こうとした。李傕と郭汜は、袁術に迎合した。だが袁術は、馬日磾をとらえて、李傕に反発した。
以上から分かるように、孫堅も袁術も、基本姿勢は、董卓への敵対である。袁術は、ウラでは、反董卓の河東・并州人と、つながっていたのでは?

呂布が長安で負けたとき、袁術をたよった。
『後漢書』で袁術は、呂布を手あつく保護してあげた。
今回、楊奉と韓暹がまけても、袁術をたよった。

袁術が、曹操の兗州を攻めたとき、河東の人や、単于の於夫羅を動員した。袁術の力は、并州・河東におよんでいた。理由は、并州・河東が、董卓に冷や飯を食わされたから。そう想定します。


并州・河東人の東遷を、後ろから支援して、
洛陽にもどったあとの安全を保障したのは、袁術ではないか?

また、わるい病気が発症しました。あくまで「袁術の影響を、最大限に見積もると」という話です。史料は、状況証拠のみです。
種明かししますと。ぼくはずっと、献帝の東遷メンバーのなかに、袁術との同盟者がいると、思っていた。
いちばん面白そうなところで、董承と袁術の同盟を、うたがった。理由は、董承-劉備による曹操暗殺と、袁術の北伐の時期が、一致しすぎて怪しいから。袁術は、董承を手引きして、曹操を葬ろうとしたのでは? とか、いろいろ妄想しました。だが残念なことに、董承の態度が分かりにくく、こんなサイトにすら、書けるようなレベルまで、煮詰まらない。
そこで矛先を転じ、楊奉と韓暹をうたがってみました。話ができた。笑


曹操が献帝を奉戴したのは、袁術に対抗するため

「魏志」では、曹操や荀彧の認識(=曹魏の公式見解?)において
曹操のまえに献帝をもっていたのは、韓暹と楊奉だ。
并州・河東人の政権は、成功したことになる。
皮肉なことに、王允と呂布のときと同じく、短命でしたが。

袁術が洛陽のそばに領地をもち、并州・河東人を支援したとすれば、
袁術はちょっとの間、献帝を傘下に収めたことになる
たまたまこのとき、曹操は、豫州を袁術と争っている真っ最中だ。
袁術とのケンカがエスカレートし、袁術に対抗するために、
曹操は、献帝を奉戴したのかも知れない。お調子者だから。笑

敵が手に入れれば、自分がほしくないものでも、ほしくなる。
曹操をお調子者と云ったのは、石井仁先生です。


もともと荀彧は、あたらしい王朝を、立てる気たっぷりである。
曹操から張良に例えられた。荀彧は曹操を、光武帝に例えた。

曹操の献帝奉戴は、前ぶれのない「思いつき」だ。
これは、mujinさんが書いていらっしゃることです。同感です。

袁術にムカつき、曹操が勢いで献帝を拾ってしまったから、困った。
史料で、いきなり荀彧が献帝をほしがりだすのは、
ご都合主義の、ツジツマ合わせではなかろうか? 魏室の史官の仕事。

荀彧は、ナゾがおおい。分かりません。しかし曹操の戦略の、行き当たりばったり加減は、間違いない。


曹操が献帝をぬすんだ直後に、袁術は皇帝に即位した。
袁術は、ほんとうに皇帝になりたいだけなら、いつでもなればいい。
むしろ、197年以前のほうが、領土が広いのだから、即位に適す。
袁術の即位は、曹操による献帝奉戴が、まんま直接的な契機だ。
ということは、
もともと袁術は、河東人をつかって、献帝を手にいれ、
献帝が手元にいることを前提にした戦略を、立てていたはずだ。

ぼくは昨日「袁術は、献帝から禅譲を受ける儀式をやりたかった」と書きました。妄想がひどくて楽しいのですが、ぎゃくの可能性もある。
袁術は196年以前は、献帝奉戴を考えていた? 曹操に献帝をうばわれ、軍事的に、献帝をうばうことが難しくなった。196年に戦略の変更を強いられて、みずから皇帝になった。
とするなら、袁術の即位は「思いつき」の玉突き事故である。曹操が余計なことを思いつくから、袁術は苦肉の策を、思いついてしまった。笑


つぎのページに、あつめた史料を載せます。
いまお読みいただいた妄想の、原材料&中間生産物です。