表紙 > 人物伝 > 楊奉と韓暹は、董卓に代わり、河東政権をつくろうとした

02) 楊奉と韓暹が登場する正史

韓暹と楊奉について、史料を網羅して、彼らの戦略を考察します。

『後漢書』献帝紀 195年

秋七月甲子,車駕東歸.郭汜自為車騎將軍,楊定為後將軍,楊奉為興義將軍,董承為安集將軍,並侍送乘輿.張濟為票騎將軍,還屯陝.

長安を脱出。195年7月、楊奉は興義将軍になった。


八月甲辰,幸新豐.
冬十月戊戌,郭汜使其將伍習夜燒所幸學舍,逼脅乘輿.楊定、楊奉與郭汜戰,破之.壬寅,幸華陰,露次道南.是夜,有赤氣貫紫宮.[一]張濟復反,與李傕、郭汜合.

195年10月、楊定と楊奉は、郭汜をやぶった。


十一月庚午,李傕、郭汜等追乘輿,戰於東澗,王師敗績,殺光祿勳鄧泉、尉士孫瑞、廷尉宣播、大長秋苗祀、[二]步兵校尉魏桀、侍中朱展、射聲校尉沮.[三]壬申,幸曹陽,露次田中.[四]楊奉、董承引白波帥胡才、李樂、韓暹及匈奴左賢王去卑,率師奉迎,與李傕等戰,破之.

195年11月、楊奉と董承は、白波のリーダーたる胡才、李楽、韓暹および匈奴左賢王をひきいれた。李傕をやぶった。
韓暹が参加して、楊奉と死ぬまで一緒なのは、ここから。

十二月庚辰,車駕乃進.李傕等復來追戰,王師大敗,殺略宮人,少府田芬、大司農張義等皆戰歿.進幸陝,夜度河.乙亥,幸安邑.

『後漢書』献帝紀 196年

二月,韓暹攻將軍董承.

石井仁『魏の武帝 曹操』はいう。洛陽還都を主張する董承が、韓暹にやぶれた。董承は、張楊のもとに出奔した。
石井氏は、つづけて書く。楊奉・胡才が、聞喜県の韓暹を攻めようとするが、詔によって和解。この、楊奉と韓暹が対立する記述は、まだ史料に見えず。そのうち、出てくるのでしょうか。


夏六月乙未,幸聞喜.秋七月甲子,車駕至洛陽,幸故中常侍趙忠宅.丁丑,郊祀上帝,大赦天下.己卯,謁太廟.

石井氏はいう。楊奉と韓暹、張楊が護衛して、献帝が洛陽にはいった。
張楊は、并州の群雄。動きがそろうことが多い?

八月辛丑,幸南宮楊安殿.癸卯,安國將軍張楊為大司馬,韓暹為將軍,楊奉為車騎將軍.

石井氏がいう「第二次四頭政治」だ。張楊、韓暹、楊奉が、董承とともに輔政した。
ぼくは思う。韓暹は「将軍」でしかない。ひとりだけ、韓暹は官位がひくい。四頭とよべるのか、検討の余地があると思う。


『後漢書』荀彧伝:曹操の前、献帝の持ち主は楊奉

建安元年,獻帝自河東還洛陽,操議欲奉迎車駕,徙都於許.多以山東未定,韓暹、楊奉負功恣睢,[一]未可卒制.

荀彧が曹操に「献帝を許にむかえよう」という。その前提&現状認識として、韓暹と楊奉が、朝廷を乱していると認識した。

彧乃勸操曰:「昔晉文公納周襄王,而諸侯景從;[二]漢高祖為義帝縞素,而天下歸心.[三]自天子蒙塵,[四]將軍首唱義兵,徒以山東擾亂,未遑遠赴,雖禦難於外,乃心無不在王室.[五]今鑾駕旋軫,[六]東京榛蕪,義士有存本之思,兆人懷感舊之哀.誠因此時奉主上以從人望,大順也;秉至公以服天下,大略也;扶弘義以致英俊,大德也.四方雖有逆節,其何能為?韓暹、楊奉,安足恤哉!若不時定,使豪桀生心,後雖為慮,亦無及矣.」操從之.

韓暹と楊奉では、後漢が安定するものか!と。荀彧さんはいう。


『後漢書』董卓伝:したたかな軍師の楊奉、軍人の韓暹

彪謂汜曰:「將軍達人閒事,柰何君臣分爭,一人劫天子,一人質公卿,此可行邪?」汜怒,欲手刃彪.彪曰:「卿尚不奉國家,吾豈求生邪!」左右多諫,汜乃止.遂引兵攻傕,矢及帝前,[四]又貫傕耳.傕將楊奉本白波賊帥,乃將兵救傕,於是汜乃退.

李傕と郭汜が、献帝をめぐって争った。楊彪が、李傕たちを叱った。そのときの記事。ここで楊奉の出自がわかる。もと白波の賊帥だ。いまは、李傕の部将である。
董卓は并州牧だった。盧弼は董卓伝でいう。何進から「洛陽においで」というメッセをもらったとき、董卓は河東郡にいた。楊奉が、董卓に参加したのは、そのときだろう。洛陽占領にしたがった。


張濟自陝來和解二人,仍欲遷帝權幸弘農.帝亦思舊京,因遣使敦請傕求東歸.[一]車駕即日發邁.[二]李傕出屯曹陽.以張濟為驃騎將軍,復還屯陝.遷郭汜車騎將軍,楊定後將軍,楊奉興義將軍.又以故牛輔部曲董承為安集將軍.[三]汜等並侍送乘輿.

張済が、李傕と郭汜をなだめた。献帝は、長安を出発した。楊奉が興義将軍になったのは、すでに献帝紀で見たことだ。新情報なし。


李傕、郭汜既悔令天子東,乃來救段煨,因欲劫帝而西,楊定為汜所遮,亡奔荊州.而張濟與楊奉、董承不相平,乃反合傕﹑汜,共追乘輿,大戰於弘農東澗.承﹑軍敗,百官士卒死者不可勝數,皆其婦女輜重,御物符策典籍,略無所遺.[一]

張済と楊奉は、董承と仲がわるい。李傕と郭汜が合わさり、攻めてきた。董承と楊奉は、敗れた。
ここから、董承と楊奉は、董卓の旧将(李傕と郭汜)とちがう立場で動いていることは、確認できます。

射聲校尉沮被創墜馬.李傕謂左右曰:「尚可活不?」罵之曰:「汝等凶逆,逼迫天子,亂臣賊子,未有如汝者!」傕使殺之.[二]
天子遂露次曹陽.承、乃譎傕等與連和,而密遣閒使至河東,招故白波帥李樂、韓暹、胡才及南匈奴右賢王去卑,並率其數千騎來,與承、奉共擊傕等,大破之,斬首數千級,乘輿乃得進.董承、李樂擁左右,胡才、楊奉、韓暹、去卑為後距.傕等復來戰,等大敗,死者甚於東澗.

楊奉は、李傕と対抗するために、韓暹や匈奴をまねいたことが分かる。楊奉は、いちど李傕に従ったが、根拠地の河東が近づくと、地元勢力をつかえるから、李傕にそむいた。
河東の人が、献帝を洛陽にまねくのは、地縁を生かすためである。明らかになった! 廷臣である董承ともまた、ちがう思惑であることが分かる。


建安元年春,諸將爭權,韓暹遂攻董承,承奔張楊,楊乃使承先繕修洛宮.

さっき献帝紀でナゾのままにした、韓暹による董承攻めが登場。
『後漢書』献帝本紀、董卓伝、『三国志』武帝本紀、董卓伝、それぞれの注釈をつなげたい。もっとも分量のおおい、献帝の長安脱出の史料とする。

七月,帝還至洛陽,幸楊安殿.張楊以為己功,故因以「楊」名殿.[一]乃謂諸將曰:「天子當與天下共之,朝廷自有公卿大臣,楊當出扞外難,何事京師?」遂還野王.楊奉亦出屯梁.乃以張楊為大司馬,楊奉為車騎將軍,韓暹為大將軍,領司隸校尉,皆假節鉞.暹與董承並留宿.

献帝本紀では、韓暹は「将軍」だった。董卓伝では「大将軍」だ。これなら、四頭政治のひとりとして、体裁がととのいます。


矜功恣睢,[一]干亂政事,董承患之,潛召兗州牧曹操.

韓暹がウザいから、董承は曹操にちかづいた。董承は、何を考えているか、分からない人である。董承の考えを知るために、手がかりになりそう。

操乃詣闕貢獻,稟公卿以下,因奏韓暹、張楊之罪.懼誅,單騎奔楊奉.帝以暹、楊有翼車駕之功,詔一切勿問.

曹操は、韓暹の罪をとなえた。韓暹はビビッて、楊奉をたよった。献帝は、韓暹をゆるした。
韓暹は、筋肉バカか。楊奉は韓暹を、李傕との戦いのために、まねいた。韓暹は、栄達したら、気ままにふるまった。困ったら、楊奉をたよった。
楊奉は、したたかな頭脳派のようです。董卓や李傕にしたがったのに、政乱をくぐりぬけ、無事に洛陽まで帰ってきただけでも、ヤリ手である。韓暹の行動は、楊奉がプランニングしたんだろう。

於是封將軍董承、輔國將軍伏完等十餘人為列侯,贈沮為弘農太守.[二]曹操以洛陽殘荒,遂移帝幸許.楊奉、韓暹欲要遮車駕,不及,曹操擊之,[三]奉、暹奔袁術,遂縱暴楊、徐閒

曹操の有力な敵は、袁術。少なくとも楊奉は、こう考えた。
新たな兵力を手に入れた袁術が、揚州と徐州のあいだを攻めたのは、面白い。袁術がほしい領土の方向がわかる。

明年,左將軍劉備誘斬之.懼,走還并州,道為人所殺.

「バカな賊の末路」として、読み捨ててはいけない。袁術と劉備との戦争の、一部である。ちゃんと時代の全体像にむすびつけて、理解したい。

[三] 獻帝春秋曰:「車駕出洛陽,自轘轅而東,楊奉、韓暹引軍追之.輕騎既至,操設伏兵要於陽城山峽中,大敗之.」

李賢による注釈。楊奉と韓暹が負けた様子だ。注釈先は、上に引用した董卓伝にある[三]です。


『後漢書』呂布伝、匈奴伝

袁術怒布殺韓胤,遣其大將張勳、橋蕤等與韓暹、楊奉連埶,步騎數萬,七道攻布.

袁術が呂布を攻めるとき、韓暹と楊奉を使いましたよ、と。韓暹のほうが、名前が先になっている。あえて意味を読みとるなら、戦場の指揮官としては、韓暹のほうが優れたということか。


建安元年,獻帝自長安東歸,右賢王去卑與白波賊帥韓暹等侍天子,拒擊李傕、郭汜.及車駕還洛陽,又徙遷許,然後歸國.

匈奴の列伝にある記録。韓暹といっしょに、献帝をまもった。


『三国志』武帝紀:ほとんど登場しない

秋七月,楊奉﹑韓暹以天子還洛陽,[一]奉別屯梁.

ほんの基本的な経過として、登場するだけ。


韓暹、楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,

曹操の功績をうたうとき、すこし登場するだけ。
武帝紀に、楊奉と韓暹は、ほとんど登場しない。『三国志』では、本紀としての機能が、董卓伝にうつっている証拠である。


『三国志』李傕郭汜伝:

傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕.傕叛,稍衰弱.

李傕の部将・楊奉は、李傕を殺そうとした。バレた。でも李傕の勢いは、いよいよ弱くなった。
董卓のしたのは、プロパーの涼州兵と、追加した并州兵がいる。先にそむくのは、追加した并州兵である。

張濟自陝和解之,天子乃得出,至新豐﹑霸陵閒.[一]郭汜復欲脅天子還都郿.天子奔奉營,擊汜破之.汜走南山,及將軍董承以天子還洛陽.傕﹑汜悔遣天子,復相與和,追及天子於弘農之曹陽.奉急招河東故白波帥韓暹﹑胡才﹑李樂等合,與傕﹑汜大戰.兵敗,傕等縱兵殺公卿百官,略宮人入弘農.

おなじ話を見ました。楊奉は、李傕に対抗するため、韓暹や匈奴を、地元からまねいた。でも李傕に負けてしまった。


『三国志』呂布伝

術怒,與韓暹、楊奉等連勢,遣大將張勳攻布.

『後漢書』呂布伝とおなじ。


『三国志』張楊伝

建安元年,楊奉﹑董承﹑韓暹挾天子還舊京,糧乏.楊以糧迎道路,遂至洛陽.

董承の名が、楊奉と韓暹のあいだにある。ただランダムに、並べているだけなのか? 董承について、近日、考えねばなるまい。


『三国志』荀彧伝

建安元年,太祖擊破黃巾.漢獻帝自河東還洛陽.太祖議奉迎都許,或以山東未平,韓暹、楊奉新將天子到洛陽,北連張楊,未可卒制.
(中略)天下雖有逆節,必不能為累,明矣.韓暹、楊奉其敢為害!

『後漢書』荀彧伝とおなじ。
荀彧の認識では、献帝をもっているのは、韓暹と楊奉だ。つまり、楊奉による并州政権は、いちおう成功したことになる。ということは、袁術が間接的に、献帝を傘下におさめている
直前に袁術は、曹操に豫州を攻めとられた。だから、いくら袁術に偏向したぼくでも「間接的」と表現しました。笑


『三国志』董昭伝

太祖曰:「此孤本志也.楊奉近在梁耳,聞其兵精,得無為孤累乎?」
由是失望,與韓暹等到定陵鈔暴.太祖不應,密往攻其梁營,降誅即定.奉、暹失,東降袁術.

曹操が、楊奉をやっつけるため、董昭に相談をした。


『三国志』徐晃伝

徐晃字公明,河東楊人也.為郡吏,從車騎將軍楊奉討賊有功,拜騎都尉.
及到洛陽,韓暹﹑董承日爭,晃說令歸太祖;欲從之,後悔.太祖討於梁,晃遂歸太祖.

韓暹と董承の仲が悪い。徐晃は、あるじの楊奉に「曹操を頼ろう」と云った。だが楊奉は、曹操にしたがわず。


『三国志』先主伝

楊奉﹑韓暹寇徐﹑揚閒,先主邀擊,盡斬之.

楊奉と韓暹を殺したのは、劉備でした。


史料は、以上です。ただの羅列で、すみません。100901